「THE ANSWER スペシャリスト論」フィギュアスケート・中野友加里「THE ANSWER」はスポーツ界を代表する元アスリートらを「スペシャリスト」とし、競技の第一線を知るからこその独自の視点でスポーツにまつわるさまざまなテーマで語る連…

「THE ANSWER スペシャリスト論」フィギュアスケート・中野友加里

「THE ANSWER」はスポーツ界を代表する元アスリートらを「スペシャリスト」とし、競技の第一線を知るからこその独自の視点でスポーツにまつわるさまざまなテーマで語る連載「THE ANSWER スペシャリスト論」をスタート。フィギュアスケートの中野友加里さんが「THE ANSWER」スペシャリストの一人を務め、フィギュアスケート界の話題を定期連載で発信する。

 今回のテーマは「フィギュアスケートと学業」。競技によっては高校卒業後にプロ入り、実業団入りする例もあるが、日本のフィギュアスケート界は高校卒業後、多くの選手が大学に進学し、競技を続けている。その理由とは。また、学業の追求が競技に生きることとは。早大の通信教育課程、早大大学院を卒業した中野さんが自身の体験から、その意義を語る。

 ◇ ◇ ◇

 フィギュアスケートは「学生スケーター」が多い。

 トップ選手も「スケーター」と「大学生」という2つの肩書きを持って競技に励んでいる。例えば、12月に行われた全日本選手権。男女シングルにエントリーした計60人(男女30人)のうち、高校を卒業している男子23人、女子19人すべてが大学生もしくは大学出身者だった。

 高校時代に実績を残した多くの有力選手はフィギュアスケート部を持つ大学にスポーツ推薦で進学することが多い。

 現在、20歳前後に有力選手が多い女子は、宮原知子は関大、坂本花織は神戸学院大、樋口新葉は明大、三原舞依は甲南大に在学。高校3年の紀平梨花は卒業後に中野さんと同じ早大人間科学部の通信教育課程に進学することも報じられた。歴史を振り返ってみても、八木沼純子、荒川静香、村主章枝らは早大出身。町田樹は関大から早大大学院を経て、引退した現在は國學院大の助教を務めている。

 競技によっては高校卒業と同時にプロ、実業団入りするケースも珍しくない。「大学生選手」というのは、フィギュアスケートのキャリア形成における特徴の一つだろう。なぜ、フィギュアスケートの選手は大学生になるのか。中野さんは言う。

「誰でも最終的にフィギュアスケートをいつか辞めなければいけません。その『いつか』が、競技寿命が短いフィギュアスケートは早いんです。一番の節目となるのが、大学の卒業もしくは大学院の修了というタイミング。現実として、社会人をしながら毎日練習を続けることは厳しいため、社会人になる時が多くの選手にとって転機になります。

 また、フィギュアスケートをやる皆さんは小さい頃から勉強にも力を入れている選手が多く、自分のキャリアにとって生きることは離さないようにしていると思います。結果的に、多くの方が大学という選択を取る形になり、大学に行かない選手の方が少ない印象です。私は欲張りだったので(笑)、いろんなことを学びたいと大学院まで行きました」

 選手によって個人差はあるが、一般的にピークとされる18~22歳の年代が大学生と重なる。その卒業の区切りで競技も卒業することになる。競技を離れた後のキャリアを見越すと、大学を卒業することで選択の幅が広がる。中野さんも、そう思って「学生スケーター」になった一人だ。

 地元の愛知・名古屋の女子校、椙山女学園小・中・高と進学。そのまま大学に内部進学することもできたが、早大人間科学部の通信教育課程を受験し、「都の西北」をオンラインの学び舎とした。多くの選手と同じように、卒業後は一般就職を思い描いていた。

「高校3年生はちょうどスケート自体が伸び悩み、いろんなことを考えている時期でした。練習しているけど、成績が残せず、何かを変えないといけない。そんな時に母が早稲田の通信教育課程で拠点を移し、練習しながら勉強をするのはどうかと提案し、私自身はまだ18歳だったので、なかなか踏ん切りがつきませんでしたが、母に押し切られるような形で18年住んだ愛知を離れることになりました」

 世界ジュニア選手権銀メダルなど10代前半から活躍し、高校2年生の02-03年シーズンからシニアに転向した。その年は世界で3人目となるトリプルアクセルを成功し、アジア大会、4大陸選手権で銅メダルを獲得するなど、国際舞台で結果を残したが、翌年は不振。図らずも高校卒業で将来を考えるタイミングと重なり、転機となった。

 ちなみに、海外に目を向けても世界選手権を連覇しているネイサン・チェン(米国)は名門・エール大に通う。過去には、そのエール大を卒業したソルトレイクシティ五輪金メダルのサラ・ヒューズ(米国)は弁護士になるなど、引退後を見越して大学という選択をしている選手は数多い。

 では「学生スケーター」は学業と競技をどう両立させ、学びはスケートにどう生きるのか。中野さんの経験をひも解くと、それが見えてくる。

中野さんが「課題をすぐやる」と「4年間で卒業する」を決めたワケ

 早大のeスクールはオンデマンドで好きな時間に授業を視聴し、レポート提出と試験により単位を取得する。当時はパソコンが一家に1台あるかどうか、インターネットが普及し始めた時代。自身はパソコンに触れたこともなく、受講のためのソフト1つインストールすることも苦労した。

 その上で、練習と両立させる。毎朝6時から拠点とする新横浜のリンクで滑り、周りの学生スケーターは2、3限の授業に合わせ、途中で切り上げていく。中野さんは開放されている10時までフルに使って練習し、終わると自宅に戻って授業を受講。追いつかなければ、土日も使って没頭した。

 中野さんは「家にいる時間はほとんどパソコンと向かって授業を受けているか、レポートを書いているかという生活でした」と懐かしむ。

「パソコンの扱いは本当にゼロからのスタートでした。自分で自分のカリキュラムを選択し、スケジュールを組むことが必要になり、自分の強い意志が求められました。特に1年生は統計学と英語が必須科目で、その単位を取らないと2年生に進級できず、統計学は毎日戦っていました。隣に友達がいる環境なら『これってどういうこと?』と気軽に聞けるのですが、自分で参考書を買って理解しなければいけないのは大変でした。

 教授に『単位を取るだけなら、本当は通った方があなたにとっては楽だったと思う』と言われたこともあります。通信教育課程は、入学は一般学生より多少容易かもしれませんが、入学してからは自分を律し、能動的に学ばなければ単位がもらえず、どんどん留年してしまう。それくらい授業の視聴と出される課題が多かったと思います。ただ、やり方に慣れれば、どこでも授業を受けられるのは競技をする上で本当にありがたいことでした」

 在学中に決めていたことは2つある。「課題はすぐやる」こと、そして「4年間で卒業する」こと。中野さんらしい意志の強さが見て取れる。

「決められた提出期間の一番に必ず提出してしまいました。さっさと終わらせたくて、教授に『そんなに早く出さなくていいよ』と言われていたくらいです。でも、遠征中になると大会の後には出したくなくて。本当はその方が気持ちよく勉強できるかもしれませんが、私は疲れてしまって、とてもそんな気分になれなかったんです。すっきりしてから大会本番を迎えようと、遠征先から大会前によくレポートを送っていました」

 忘れられないのは2年生の10月、カナダで行われたグランプリ(GP)シリーズのスケートカナダ。事前合宿地のデトロイトでパソコンが不調だったため、佐藤信夫コーチの娘で振付師の有香さんのパソコンを借りて授業を視聴し、レポートも提出した。長時間格闘する姿を見た有香さんに「いつまでやってるの?」と驚かれ、教授にもまた「カナダに行ってるんじゃなかったの?」と驚かれた。大会はGPシリーズで初の表彰台(3位)となった。

 それほどまでに自分を追い込んだのは「4年間で卒業すること」の想いが強かったから。周りに同い年はほぼいない。もう一度大学で学び直したいという社会人が多く、人生の先輩ばかり。仕事との二足の草鞋を履いて学ぶ分、5年以上かけて卒業する人は珍しくなかった。

「私は両親に学費を払ってもらっていて『1単位でも落としたら自分で払うように』と言われていたので、だったら『1単位でも落とすものか』『なんとかして単位取らなきゃ』と思っていました(笑)。でも、大学で勉強に目覚め、勉強することが好きだったんだと気づきました。『あなたのように何が何でも4年で卒業するという人は珍しい』とも言われましたが、結果的に1単位も落とすことなく、無事4年間で卒業することができました」

 学業に比例するように競技も充実した。2年生の11月にNHK杯でGPシリーズ初優勝。世界選手権3年連続入賞(5、5、4位)、全日本選手権2年連続3位と結果を残し、浅田真央、安藤美姫、鈴木明子らとともに五輪出場を争うレベルに。そして、卒業後に選んだのは早大大学院人間科学研究科への進学だった。

「大学に行ってからは勉強もスケートも上り調子。競技によっては身も心もボロボロになって引退するのが当たり前のこともありますが、人間、一番良い時は辞めづらいもの。ちょうど2年後にあるバンクーバー五輪が節目になるタイミング。なので、もうちょっとだけ頑張って競技をどうするか決めようと考えた時、スケートしかない生活は時間を持て余してしまうかもしれないし、余った時間は何をするか考えて、じゃあ、大学院に進もうと」

 大学院は通学が基本。大学と同じように単位を落とさないようにしながら授業を受け、修士論文も書いた。「自分を客観的に分析し、フィギュアスケートという採点競技にクラシックバレエやダンスを習うことで点数にどう変化が現れるのかをグラフ化してまとめました」。A4で30枚に及んだ。

 大学院1年当時はユニバーシアード優勝など結果を残したが、バンクーバー五輪代表を決める翌年の全日本選手権で3位。惜しくも代表権を逃し、就職活動をして内定をもらっていたフジテレビに入社することに。大学院も無事修了。こうして3歳から始まったスケート人生に幕を下ろした。

 学業で思考を深めることは競技に生きる。中野さんはそれを実感している。

後輩・羽生結弦の凄さ「大学生活で五輪チャンピオンになりながら…」

「フィギュアスケートは音楽に合わせて振付を覚えないといけません。1年に大体3曲。少なくともショートプログラム(SP)とフリープログラムの2曲が必要で、2分40秒と4分ある演技時間の振付を覚えるだけでもすごく大変な作業です。加えて、今は加点方式で行われているので、ただ演技をすればいいというわけではなく、一つ一つの要素についている基礎点をすべて把握しなければなりません。

 その上で、SPなら7項目、フリーは12項目の要素から点数を稼いでいくので頭の中はいつも計算式でいっぱいです。本当はミスをすることを考えてはいけませんが、万が一、最初のジャンプで失敗したら何点を失って、それをどこで何点を補っていくか。トゥループは○点、ループは○点だからとコンマ何点を競う世界で演技をしながら計算できる思考力がないとスケートが成り立たなくなります」

 実際、今も演技中に臨機応変に組み立てる選手の賢さに感心することが多いという。何より、中野さんはインタビューの第一声のレスポンスが早い。答えにくいと思う質問もさっと口に出し、回答をトータルで構成していく会話はさながらフィギュアスケートの演技とも似ているように思う。

 そして、メンタル面で競技に生かされる部分もあった。

「本当に自分を強くさせてくれたと思います。私は通信教育課程だったので、課題を自分でクリアしなければいけない。今は当たり前のオンライン授業も当時は珍しく環境設定も大変でした。すべてをゼロから始め、厳しい環境で自分が強くなりました。定期的にスクーリングがあり、体育のソフトボールで所沢キャンパスの広いグラウンドに行って、バッティングをやったことも、人生の先輩が多いほかの学生との交流もとても良い経験でした。

 競技においても、私はスケートだけの生活だったら、私はスケートのことばかりを考えてしまうタイプだったので、どんどん負のスパイラルに陥っていたと思います。でも、気分転換になる大学の勉強があって良かったです。それも高校とは全く違った学びを得られることが多く、分からないことを新たに知るという作業は大変なことだけど、すごく意味があるものでした。当時はレポートも講義も大変でしたが、楽しかった思い出ばかりです」

 あまり知られていないが、中野さんは「スケートだけやっていても将来の役に立つことが少ない。大学のうちに何か1つ資格を取りなさい」と言われ、教職課程を取った。通常の講義に加え、必要な単位を取得。母校に2週間、教育実習に出向き、高校で「情報教育」の科目を教える免許を持つ。

 そして、今もフィギュアスケートの世界にはかつての中野さんと同じように学業と競技の両立を目指しながら、戦っている選手が多くいる。その一人であり、最も高いレベルで両立を目指していたのが、羽生結弦だ。高校卒業後、中野さんと同じ早大人間科学部の通信課程に入学した。

 入学1年目にソチ五輪で優勝。カナダを拠点に練習し、世界最高峰の競技レベルで戦いながら、各国を転戦。平昌五輪で連覇を達成した。26歳になる昨年、「フィギュアスケートにおけるモーションキャプチャ技術の活用」にまつわる論文を書き、卒業したことが報じられた。

「卒業することにすごく意義があると感じ、努力をしていたのだと思います。しかも3万字といわれ、すごく面白そうで私も読んでみたくなるような卒業論文を書かれている。それを大学生活で五輪チャンピオンになりながらやっていることは素晴らしいとしか言いようがないですし、頭が下がります。もし、私の時代と変わっていなければ、必須科目の統計学はスケートをやっていても経験しないジャンルなので、とても大変だったと思います」

 大学の卒業単位より先に国民栄誉賞をもらってしまう人間はそういない。しかし、自分で決めたことを成し遂げる意志の強さは羽生らしさでもある。

「きっと、すごく頭が良い人なんだろうと想像します。自分でスケジュールを立てて計画し、このコロナ期間中に卒業したと聞いています。自分で勉強できる時にしっかりと集中して取り組んでいたので、スケジュールを組むこともきっと上手でしょう。eスクールはどう自分で計画し、調整するかが問われる部分があるので、そういう部分が強化されることは競技をして、選手として成長していく上でも意味のあることだったと思います」

 日本では、まだ競技人口が多いとは言えない競技。その中心を担い、競争力を高めているのが「学生スケーター」たちである。その先輩として、今、未曾有の感染症が広がる中、フィギュアスケートで戦っている大学生選手たちにメッセージを送る。

「根詰めて練習し、トップ選手を目指す意識も大切ですが、大学生活を楽しむことも大切にしてほしいです。リフレッシュになる楽しみを見つけ、スケートになったら切り替える。私はそのオンオフが楽しかったです。360度をお客さんに囲まれて滑る機会はないもの。それもいつか終わってしまいます。今、大学にいるならば、ゴールに近づいている状況と思います。引退が見える中で一瞬一瞬を大切に、楽しんでゴールに向かってほしいです」

 銀盤を彩る多くの選手たちが持つ「大学生」という肩書き。フィギュアスケートと学びの関係は、密接に存在している。

■中野友加里/THE ANSWERスペシャリスト

 1985年生まれ。愛知県出身。3歳からスケートを始める。現役時代は女子選手として世界で3人目にトリプルアクセルに成功。スピンを得意とし、「世界一のドーナツスピン」と国際的にも高い評価を受けた。05年NHK杯優勝、同年GPファイナル3位、08年世界選手権4位、全日本選手権は3度の表彰台を経験。10年に引退後、フジテレビに入社。スポーツ番組のディレクターとして多数の競技を取材し、19年3月に退社。現在は解説者を務めるほか、審判員としても活動。15年に結婚し、2児の母。YouTubeチャンネル「フィギュアスケーター中野友加里チャンネル」を開設し、人気を集めている。(THE ANSWER編集部・神原 英彰 / Hideaki Kanbara)