名レスラーたちの「異名物語」前編 プロレスラーにはふたつの「名前」がある。ひとつはリングネーム。そして、もうひとつが"異名"である。「燃える闘魂」「鉄人」「革命戦士」「不沈艦」「風雲昇り龍」「人間山脈」「破壊王」「レインメーカー」.....…

名レスラーたちの「異名物語」前編

 プロレスラーにはふたつの「名前」がある。ひとつはリングネーム。そして、もうひとつが"異名"である。「燃える闘魂」「鉄人」「革命戦士」「不沈艦」「風雲昇り龍」「人間山脈」「破壊王」「レインメーカー」......。昭和から平成、令和と時代は移れど、トップレスラーには必ずファンを魅了する異名がある。



昭和の新日本プロレスを支えたアントニオ猪木(左)と坂口征二(右)

 レスラーの看板ともいえる異名はどのように誕生したのか。アントニオ猪木の「燃える闘魂」を編み出した元テレビ朝日のアナウンサー・舟橋慶一氏に、歴史に残るキャッチフレーズが誕生した裏側と秘話を聞いた。

 舟橋氏は1962年、早稲田大商学部を卒業したのち、NET(現テレビ朝日)にアナウンサーとして入社した。同局が1969年7月から日本プロレスの中継をスタートすると、船橋氏は実況アナウンサーを担当。日本プロレスが崩壊した直後の1973年4月からは、アントニオ猪木が創設した新日本プロレスの中継を任され、猪木とモハメド・アリの格闘技世界一決定戦といった名勝負の熱気を、名調子でお茶の間に届けた。

 舟橋氏は、プロレスを実況する上でレスラーを象徴するキャッチフレーズは不可欠だと考えていた。

「お茶の間の視聴者に、レスラーや試合の印象を強く残すためには、絶対にキャッチフレーズが必要だと思っていました。それも、耳で聞いて響く言葉じゃないといけない。心に残る表現でないと視聴者の心に残らないんです」

 日本プロレスの実況をしている時にそう考えていた舟橋氏は、リング上で熱い魂をほとばせるひとりのレスラーにくぎづけになった。それがアントニオ猪木だった。日本プロレス時代の猪木は、亡くなった師匠の力道山が座右の銘としていた「闘魂」を看板に掲げていた。

「ずっと『"闘魂"アントニオ猪木だけでは、ファンに響かないな』と思っていたんですが、ある試合で実況した時に『闘魂、燃ゆる』とひらめいて、それを言葉にしたんです。前々から考えていたんじゃなくて、生中継の実況の流れの中で意図せず出た言葉でした。『燃ゆる』という言葉は、大学の応援歌や、いくつかの旧制高校の校歌などで使われていたフレーズで、それが私の中に刻まれていたので自然と『闘魂』と組み合わさったんだと思います。

 ただ、日本プロレス時代の猪木さんは、外国人レスラーとのアメリカナイズされた試合がほとんどだった。『闘魂、燃ゆる』というフレーズに合うような試合が少なくて、この言葉もあまり言っていなかったと思います」

 その後、新日本プロレス中継がスタートすると、猪木のファイトは日本プロレス時代と一変。タイガー・ジェット・シン、ストロング小林、大木金太郎、ビル・ロビンソンなどと、歴史に残る激闘を次々に繰り広げた。

「新日本を旗揚げしてからの猪木さんは激しく、まさに闘魂が燃えるような試合を毎週のように展開していました。その猪木さんの形相、迫力、体から醸し出す鬼気迫るような雰囲気を間近で見た私は、自然に彼を『燃える闘魂』と表現しました。日本プロレス時代に『燃ゆる』を使っていたので、その延長戦上で生まれたキャッチフレーズとも言えますね。どの試合でこのフレーズを使い始めたかは覚えてはいませんが、猪木さんの闘う姿をそのまま表現できたと思います」

 このキャッチフレーズは、猪木が引退して23年を迎える今もなお、代名詞としてプロレスファン以外にも広く知られている"最高傑作"と言えるだろう。

「私も常に、ファンの脳裏に刻まれるような言葉を探しましたが、やはり猪木さんの激しい試合があったからこそ生まれたフレーズだと思います」

 舟橋が編み出したのは「燃える闘魂」だけではない。猪木と共に昭和の新日本プロレスを支えた、坂口征二の「世界の荒鷲」も舟橋の作品だ。

 全日本選手権を制するほどの柔道家だった坂口は、1967年に日本プロレスに入団。当初の異名は「若鷲」だった。

「これは、日本プロレスの幹部と取材していた記者が試行錯誤して考えたフレーズでした。ただ、『若鷲』はデビューして2、3年ぐらいは通用しますが、いつまでも若くはないわけで、違うフレーズが必要だなと考えていたんです」

 日本プロレス末期の1971年12月に「猪木が会社の乗っ取りを計画した」として追放され、翌1972年にはジャイアント馬場も退団。ダブルエースが不在となった日本プロレスで新たなエースになったのが坂口だった。この時期に、舟橋は「世界の荒鷲」というフレーズを思いついたという。

「『荒鷲』は、坂口さんの荒々しいパワーファイトをそのまま表現したんです。そこに『世界の』とつけたのは、馬場さんも猪木さんもいなくなった日プロのリングで、世界のレスラーと肩を並べる存在は坂口さんだけだという思いがありました」

 坂口は大木金太郎とのコンビでインターナショナル・タッグ王座を戴冠。翌1973年には新日本プロレスに移籍した猪木とタッグを組み、経営状態が苦しかった新日本プロレスを救った。1989年には社長に就任するなど、表と裏、双方から新日本を支え続けた。

 舟橋が考えたのは"異名"だけではない。「長州力」というリングネームも命名している。本名の吉田光雄で1974年8月にデビューした長州は、すぐにヨーロッパや北米などに海外武者修行に出た。そこから凱旋帰国する1977年に、中継の番組内で新たなリングネームを視聴者から公募した。

「やっぱりプロレスラーは、『アントニオ猪木』とか『ジャイアント馬場』のように、聞いただけでレスラーとわかる名前がいい。彼は本名の吉田光雄でデビューしたから、『ファンへのインパクトが弱い』と、我々テレビ側も新日本側も感じていたんです。そこで公募をしたんですが、正直に言ってあまり応募が来なくて......。

 それで、中継スタッフと新日本による定例会議が開かれた時に、私が『長州力はどうですか?』と提案したら通ったんです。この名前は、まず『力』という名前をつけたいという思いがあった。でも『吉田力』では本名とそんなに変わらないから、彼の出身地をつけようかと考えたんです。山口県の徳山市で『徳山藩』だから、本当は『徳山力』なんですけど、どうも実況するとなると響いてこない。それで(徳山藩は長州藩の支藩だったため)『長州』としたんです」

 すでに"時効"の話だが、ファンの公募で決めたとされる「長州力」のリングネームは、実は舟橋の発案だったのだ。新たな名を得た長州は、猪木や坂口に次ぐヘビー級の3番手になり、藤波辰爾(当時:辰巳)との抗争など「革命戦士」としてスターの階段を上っていくことになる。

 プロレスラーの異名誕生の裏側には、舟橋らリングに魅せられた数々のスタッフたちのアイディアが詰まっていた。

(後編につづく)