知られざる実業団陸上の現実~駅伝&個人の闘い三菱重工マラソン部(2) 井上大仁(三菱重工マラソン部)は、日本マラソン界のトップランナーのひとりである。 山梨学院大時代は4年連続で箱根駅伝を走り、三菱重工マラソン部の前身であるMHPSに入社2…
知られざる実業団陸上の現実~駅伝&個人の闘い
三菱重工マラソン部(2)
井上大仁(三菱重工マラソン部)は、日本マラソン界のトップランナーのひとりである。
山梨学院大時代は4年連続で箱根駅伝を走り、三菱重工マラソン部の前身であるMHPSに入社2年目の九州実業団対抗駅伝で3区の区間賞を獲り、チームの初優勝に貢献。東京マラソン2018で2時間6分54秒の自己ベストを更新すると、同年8月にジャカルタで開催されたアジア大会では金メダルを獲得した。
2018年にジャカルタでのアジア大会で金メダルを獲得した井上大仁
そんな井上にとって三菱重工マラソン部は、大学時代から気になっていたチームだった。
「大学時代からマラソンで活躍したいと思っていたので、マラソン部のあるMHPSは意識していました。実際、練習や合宿に参加させてもらったのですが、マラソンをやるうえで大事な練習が詰まっていた。早い段階で気持ちは固まっていました」
大学卒業後、希望どおり入社を果たしたが、1年目から大活躍とはいかなかった。
「最初のシーズンは駅伝が終わったあとにマラソンに出て......かなりダメージを受けました。駅伝はマラソンで走り込む時期に開催されますが、駅伝を挟むことでいいモチベーションをキープしながら走れる。また、マラソンを走って結果を出すのもチームのためになる。そういう考えができるようになったのは入社2年目からですね」
そんな井上も6年目を迎えた。チーム最年長は岩田勇治(33歳)で、さらに井上の上には木滑良(きなめ・りょう)主将ら5人いる。チームでは中堅層になるが、エースは井上である。もちろん、本人も強く自覚している。
「みんなを引っ張り、駅伝にしろ、マラソンにしろ、レベルを上げていくことが自分の役割かなと思っています。絶対にチームメイトに負けられない意識でやっているので、苦しくなる時はあるのですが、それを苦痛に感じたことはないです。チーム全体でやる時はそういう弱みを見せないようにしています」
昨年9月、井上は東京五輪のマラソン代表選手を決めるMGC(マラソングランドチャンピオンシップ)で期待されながらも、まさかの27位に終わってしまった。
「注目されることに対して冷静になれず、周囲に振り回されてしまった。勝たないといけないという気持ちが先行し、それをコントロールできなかった。無理してたところがあったと思います」
MGCへの挑戦が失敗に終わり、雪辱を晴らすべく挑んだ東京マラソンでのファイナルチャレンジ。井上は先頭集団にくらいつく強気のレース展開を見せた。最終的に代表の座は獲得できなかったが、その走りは今後に期待を抱かせた。
「東京マラソンで、持っているものはすべて出し切ったと思います。でも、やっぱり勝たないと面白くないし、悔しい気持ちが大きい。途中まで先頭集団についていけたとしても、ゴールまで勝負できないと話にならない。今はそれができるように、気持ちを新たに練習に取り組んでいます」
MGCも東京マラソンも東京五輪の代表選考を兼ねていたということもあり、大きな盛り上がりを見せた。ただ、実業団のレースは国民の関心がもうひとつで、あまり盛り上がっていないのが現状だ。MGCのようなレースを考えることも必要だが、その前にすべきことがあると井上は言う。
「レースが盛り上がらないのは、自分を含めて日本人選手が弱いからだと思います」
日本の陸上界の現実を見てのことだが、そうした考えに至ったのはある言葉がきっかけだった。余暇に愛読する『週刊少年ジャンプ』(集英社)に『ハイキュー‼』というバレーボールのマンガがあり、そのなかにこんなセリフがある。
<見ていて面白くないのは強くないから>
「ウサイン・ボルト選手がびっくりするようなタイムを出したり、モハメド・ファラー選手がドキドキするようなレースをすると、すごく盛り上がりますよね。この選手は、何をやってくれるんだろうって見ることで注目度が高くなって、そういうなかでレースをすることでタイムが伸びてくる。そうなるには強くないとダメです。いくらレースをお膳立てしてもらっても、選手に力がないのであれば盛り上がらない。自分たちがもっと強くなって、世界と戦えるようになって初めて、もっと盛り上げてくださいと言えるのかなと思います」
今年はコロナ禍の影響で多くのレースが中止、延期となり、プランが立てにくい状況にある。だが、井上は非常に前向きだ。
「今年はレースがないので、短期の目標が立てにくい。でも、逆にのびのびと走って、リフレッシュできる場を与えられたと、ポジティブに練習しています。マラソンは勝つことも大事ですが、タイムは自分の力の指標です。いいタイムを出せば、勝負に対しても自信と気持ちの余裕が生まれるので、そこは意識して練習しています。ニューイヤー駅伝は前回と同じく4区を任されると思うのですが、前回よりも速く、強くなってチームの優勝に貢献したいです」
今後、井上が目指すアスリート像についてはどう考えているのだろうか。
「長期の目標は世界で戦える選手になること。勝負に勝つタフさを身につけ、たとえばエウリド・キプチョゲ選手のようなアスリートになりたいですね。修行僧みたいにストイックですが、レースを見ていてワクワクするし、体の底から『頑張ろう』っていう気にさせてくれる。自分もいろんな人に夢を与えられるような存在になりたいです」
以前は、SNSでの発信はほとんどなかったが、三菱重工マラソン部に名前が変更になったのを機に、井上は積極的にツイッターで投稿するようになった。MGCや東京マラソンで「感動した」「面白かった」という声をたくさんもらい、当時はそうした声に気持ちが救われたという。
井上があらためてSNSを始めたのは、その自覚と覚悟の現れのような気がする。結果だけを見せるのではなく、自ら多くのファンに語りかけることで、井上という選手の魅力がさらに伝わっていくことになる。
駒澤大時代は3年連続して箱根2区を走った山下一貴
そんな井上を追い越そうと、今年、有望なルーキーが加入した。それが山下一貴である。
駒澤大では2年から4年まで3年連続して箱根駅伝の2区を走り、昨年の出雲駅伝では1区を2位、全日本大学駅伝ではアンカーを任され3位入賞に貢献した。常に安定した走りで大八木弘明監督からの信頼が厚く、関東圏の実業団から声がかかっても不思議ではなかった。そんな山下が三菱重工マラソン部を選んだ理由はこうだ。
「一番は地元・長崎のいいチームだからです。それに自分はマラソンをやりたかったので、迷いはまったくありませんでした。本当は高校卒業してすぐに入りたかったのですが、その時は縁がなくて......なので、駒澤大に入学した時から大八木監督には『三菱(重工)に行きたいです』と伝えていました」
マラソンを志す山下にとって大きかったのは、駒澤大で練習を積めたことだ。
「ここで練習していれば強くなれるんだと思っていました。レースで結果も出せたこともそうですが、(中村)匠吾さん(富士通)さんの存在も大きかった。練習している時の匠吾さんはすごすぎて参考にならなかった。たまに一緒に走らせてもらう時があったのですが、次元が違いすぎて......でも、ここでやれば匠吾さんのようにという思いがあったので、それを間近で見られたのはよかったです」
大学時代、大八木監督からマラソンで戦っていくための心構えを何度も説かれた。そして卒業時、こう声をかけられたという。
「井上(大仁)を越えろよ!」
三菱重工に入社し、半年以上が過ぎた。日常生活はだいぶ慣れてきたというが、チームの雰囲気はどう感じているのだろうか。
「大人だなぁと(笑)。実業団は走るのが仕事ですので、ケアも食事も大事にしていますし、オンとオフの切り替えがうまい。大学時代はそれができていない選手が何人かいましたから」
練習についてはどうか。
「当たり前ですが、練習量は多いですね。チームには距離を踏む先輩が多いので、自分に合っていると思います。なかでも木滑さんは月間1300キロぐらいのペースで走っていましたが、そんなに走るなんて大学時代は聞いたことがなかった。やっぱりマラソンをやっている人は違うなって。自分も刺激を受け、ジョグの距離とか増やして走るようにしています」
そして山下がもうひとつ違いを感じたのが注目度だ。
「会社ではよく井上さんが取材を受けているのを見ますが、実業団で注目されるのはチームというより個人ですね。大学は駅伝がメインなので、チームとして取り上げられます。それに箱根駅伝になると、メンバーに入れるかどうかの選手まで取り上げられます。大会の大きささとともにメディアの扱いが違います。いろんな人に見られている感じがありました」
実業団でメディアに取り上げられるのは、相当な狭き門である。中・長距離では日本記録を出す、もしくは海外の主要大会で優勝するか、マラソンで勝つぐらいしかないのが現状だ。ニューイヤー駅伝で優勝しても、箱根駅伝優勝チームのように、テレビ番組をはしごするようなことはない。
メディアでの露出が限られるなか、自らツイッターなどのSNSで発信し、陸上界を盛り上げていくという考えはないのだろうか。
「自分からSNSに上げることはないですね。誰かが僕の情報を求めているとは思わないので(笑)。ただ、大迫(傑)さんとか"山の神"とか、有名な選手が練習風景とか走り方とかを発信して、陸上に興味を持ってくれる人が増えるのはありがたいです」
2021年1月1日、山下は初のニューイヤー駅伝に挑む。前回、三菱重工は井上が4区で区間新の快走を見せたが、ブレーキの区間が頻発し、チームは17位に終わった。今回、雪辱を晴らすには出場選手がベストな状態で戦わなければ厳しい。なにより求められるのが安定感だ。箱根駅伝2区を3年連続で走った山下の走りは、非常に重要になってくる。
「本当なら4区の長い距離を走りたいのですが、いま井上さんを超える走りができるかと言われると、ちょっと無理です。今回は5区かなと考えていますが、どの区間でも活躍できるように頑張りたいです」
そんな山下が思う理想の選手は、大塚祥平(九電工)だという。
「大塚さんは僕が大学1年の時に4年の先輩だったんですけど、強いし、絶対にはずさないんですよ。タイムは井上さんのほうが速いんですけど、MGCで4位になったように、レースで強さを発揮する。僕はレースで絶対に外さないことを目標にしているので、大塚さんはまさに理想です」
大塚のようになるには、まずはチーム内で越えなければいけない存在がいる。
「今は無理ですけど、井上さんが元気なうちにできるだけ早く勝ちたいですね。35歳になった井上さんに勝っても面白くないので(笑)。食ってやるぞ、という気持ちを楽しんで、これからやっていきたいです」
そう語る表情には、たしかな自信が感じられた。