『羽生結弦は未来を創る〜絶対王者との対話』 第Ⅳ部 芸術性へのこだわり(4) 数々の快挙を達成し、男子フィギュアスケートを牽引する羽生結弦。常に挑戦を続ける桁外れの精神力と自らの理想を果敢に追い求める情熱を持つアスリートの進化の歩みを振り返…
『羽生結弦は未来を創る〜絶対王者との対話』
第Ⅳ部 芸術性へのこだわり(4)
数々の快挙を達成し、男子フィギュアスケートを牽引する羽生結弦。常に挑戦を続ける桁外れの精神力と自らの理想を果敢に追い求める情熱を持つアスリートの進化の歩みを振り返る。世界の好敵手との歴史に残る戦いや王者が切り拓いていく未来を、長年密着取材を続けるベテランジャーナリストが探っていく。
2016年、クリケット・クラブにて取材に応じた羽生結弦
2015ー16シーズン、グランプリ(GP)シリーズのNHK杯、GPファイナルで歴代世界最高得点を連続して出した羽生結弦。その偉業を達成した翌年、平昌五輪前季の16ー17シーズンで、羽生結弦はまた新たな挑戦へと一歩を踏み出した。
このシーズンのショートプログラム(SP)は、プリンスの『レッツ・ゴー・クレイジー』。羽生は、プリンスの言葉に感銘を受け、「リスペクトしている」とこの曲への思い入れを語った。フリーは、久石譲の曲を使用した『ホープ&レガシー』。アップテンポのポップな曲と、自然を表現するゆるやかな曲。動と静。正反対の表現をしたいと考えたのだ。
16年9月には、羽生が練習拠点としていたカナダのクリケットクラブで練習が公開された。そこでトリプルアクセルや4回転サルコウ、4回転サルコウ+3回転トーループ、4回転ループを跳んだ羽生の表情には、緊張感も漂っていた。
SPの曲かけ練習になると、イーグルから入った4回転ループをしっかり決めた。前季とは違った直線的な鋭さがあるステップ。そして、曲かけ終了後すぐに、曲中で失敗していたトリプルアクセルと4回転サルコウ+3回転トーループを体に確認させるように成功させた。
クリケット・クラブで練習する羽生
休憩を挟んで再開した練習では曲を途中からかけ、ミスをしたジャンプを中心に跳んでいた。その後、コーチのひとりであるトレーシー・ウィルソンから細かいつなぎや振り付けのアドバイスを受けながら、一つひとつ確認するように、曲を細かく分割して練習を繰り返した。
羽生は16年の世界選手権後の約2カ月間、左足甲のケガによって静養していた。その後、リハビリを経て氷上練習を始めたが、ケガが完治したわけではなかった。ジャンプは左足への負担が少ないループやルッツから練習を再開。4回転トーループを1日1回跳ぶ許可が出たのは、この公式練習の2、3週間前だったという。羽生はこう振り返った。
「ここまで長く休んだことは今までありませんでしたが、無意味なものではなかったと思います。スケートとの両立がおろそかになってしまう時期もあった勉強に集中できたし、これからどういう気持ちで滑っていくべきかなど、いろいろ考える時間も過ごせました」
前季、歴代世界最高得点を記録してから報道が加熱し、羽生自身、「何か取り残されているような感じになった」と話す。そうした重圧の中で、滑ることができない時間はスケートが恋しくなると同時に、一方で「解き放たれたような気持ちにもなった」という。
「やっぱり最高得点を出してからは、300点超えを背負い込んでいましたね。世界選手権でも狙っていましたから。ただ、そういったプレッシャーを自ら作り出して、自分を本当に、本当に追い込んでいけたからこその練習だったり、努力だったりはあると思う。もちろん、(プレッシャーは)試合時の競技力低下にもつながるかもしれない。でも、言ってみればそれが自分の原動力だと思います」
静養中は「早く滑りたい」との思いを抑えることにも苦労した。心を落ち着かせたり、オンとオフのメリハリを付けたりすることなどに関しても考えたそうだ。
「これまで日常生活でも、どういう風にスケートにつなげるかを考えていました。でも疲れてしまうので、どうやって日常とスケートのバランスを取っていけばいいのかな、と。切り捨てるものがたくさんありましたね。『こうしなくてはいけない』と考えていたものをどんどん切っていって、最終的に目指すところを考えられた。大切な期間だったと思います」
焦りはあった。リハビリを始めた時が一番苦しかったと羽生は振り返る。「すぐにでも滑りたい」との気持ちが一気に高まってきたからだ。その中で、自分の心を抑えてきた。
「ある意味、『安静期間』があったからこそ、いい意味で力を蓄えられた感覚はあります。今になってみれば、ですが」
羽生はそう言ってほほえんだ。そしてこう続けた。
「そういう時期を経て練習を再開し、最終的に今のような演技構成を考えられるくらいにまで戻せたのは本当に大きいと思う」
このシーズンの技術構成は、SPでは4回転ループと4回転サルコウ+3回転トーループを入れ、フリーは4回転ループ、単発とコンビネーションの4回転サルコウ、そして4回転トーループの3種類4本の4回転を組み込んだ。
「自分の表現の幅を出してみたいシーズンです。それも、曲が正反対だから表現も変わるのではなく、自分の体や心の中までまったく違っているような演技を目指していきたいと思います」
その羽生が練習で見せたSPのステップは印象的だった。激しく踊る中で力強さだけでなく、しなやかさも感じさせて直線的な動きの鋭さが見えていた。
「あのステップを(振付師に)作ってもらった時に、本当にこれで大丈夫かなと思ったんです。というのも、体力もまだ完全に戻っていないのに、200m走をしているような感じというか。(そのステップは)ずっと走って、ずっと体を動かしている感覚が強くて。
もちろん(前季の)『バラード第1番』のステップもすごくスピードが速くてエッジを倒すのが難しかったけれど、今回は特に詰め込んだ感じで。ここからここまでがステップという感じではなくて、振り付けとしてやっていけたらいいです。これまでのステップの中で一番自分が乗っていけるもので、心から楽しみながらやっています」
一方、フリーは「曲を感じるままに表現できたらいい」と語った。それは前季のフリー『SEIMEI』を演じる中で、表現について熟考した中で行き着いた向き合い方だった。
「以前演じた『ロミオとジュリエット』のように、感情を爆発させて畳みかけるように押していくタイプの曲のほうが得意です。でも、(前季の)フリーの『SEIMEI』を含めて、ショートの『バラード第1番』とエキシビションの『天と地のレクイエム』はまったく違ったジャンルで、違った風景があるものでした。
曲の中のキャラクターになるのは『SEIMEI』だけど、『バラード第1番』はピアノの旋律や楽譜、音符などを忠実に再現していくもので、『天と地のレクイエム』は気持ちを出すものでした。どういう風に表現すればどのように伝わるかを非常に考えました。
そのうえで今季(16ー17シーズン)のフリーは曲から入ろうとするのではなく、テーマから入ろうと考えたんです。前年のショートとフリー、エキシビションを全部合わせたら、すごく気持ちよくできるだろうと思って。それで、あのプログラムに行き着きました」
4回転ループを構成に入れるのは、羽生にとってはある意味必然だった。「もっと得点が高い4回転ルッツを跳んでいる人もいるわけだから、4回転ループがすごいわけでもない」。そう説明する彼が思うのは、前年より進化させた技術構成の中で、表現を突き詰めてフィギュアスケートとして完成された演技を追い求めたい、ということだ。
自分のエネルギーや感情を爆発させるプログラムと、情感や風景、思いなどをピアノ曲の旋律に注ぎ込みたいと考えるプログラム。これらは、直近数シーズンの集大成とも言えるだろう。このふたつのプログラムを演じることで次に目指すものを見つけ、平昌五輪へ向かいたいとの思いものぞかせる。
その時々で自分ができる最大の挑戦をする。それが、羽生結弦というスケーターなのだ。
*2016年11月掲載記事「羽生結弦インタビュー『プレッシャー、それが自分の原動力』」(Sportiva)を再構成・一部加筆
【profile】
羽生結弦 はにゅう・ゆづる
1994年12月7日、宮城県仙台市生まれ。全日本空輸(ANA)所属。幼少期よりスケートを始める。2010年世界ジュニア選手権男子シングルで優勝。13〜16年のGPファイナルで4連覇。14年ソチ五輪、18年平昌五輪で、連続金メダル獲得の偉業を達成。2020年には四大陸選手権で優勝し、ジュニアとシニアの主要国際大会を完全制覇する「スーパースラム」を男子で初めて達成した。
折山淑美 おりやま・としみ
スポーツジャーナリスト。1953年、長野県生まれ。92年のバルセロナ大会から五輪取材を始め、これまでに夏季・冬季合わせて14回の大会をリポートした。フィギュアスケート取材は94年リレハンメル五輪からスタートし、2010年代はシニアデビュー後の羽生結弦の歩みを丹念に追っている。