『羽生結弦は未来を創る〜絶対王者との対話』 第Ⅳ部 芸術性へのこだわり(3) 数々の快挙を達成し、男子フィギュアスケートを牽引する羽生結弦。常に挑戦を続ける桁外れの精神力と自らの理想を果敢に追い求める情熱を持つアスリートの進化の歩みを振り返…

『羽生結弦は未来を創る〜絶対王者との対話』 
第Ⅳ部 芸術性へのこだわり(3) 

数々の快挙を達成し、男子フィギュアスケートを牽引する羽生結弦。常に挑戦を続ける桁外れの精神力と自らの理想を果敢に追い求める情熱を持つアスリートの進化の歩みを振り返る。世界の好敵手との歴史に残る戦いや王者が切り拓いていく未来を、長年密着取材を続けるベテランジャーナリストが探っていく。



2015年、ドリーム・オン・アイスで『SEIMEI』のアイスショーバージョンを披露した羽生結弦

 2015年6月、羽生結弦は新横浜スケートセンターで開催されたアイスショー「ドリーム・オン・アイス」で、2015ー16シーズンのフリー曲『SEIMEI』を初披露した。初めての"和"への挑戦だった。その決意の裏には「今の自分だからこそできる」という意識と、「自分がやらなければいけない」との強い思いが込められていた。

『SEIMEI』は笛と太鼓の音で力強く始まる映画『陰陽師』の曲を使用している。タイトルは羽生自ら名付けたもので、大文字のローマ字表記にしたのは、映画の題材となった平安時代の陰陽師である安倍晴明の名前にちなむとともに、「同じ発音の日本語が持つ、多様な意味を込めたいから」だという。

「今シーズン(2015ー16)は、自分の幅を広げてみようという思いがあって、いろいろな曲を聴いてみました。なかなかしっくり来ないまま、自分に合うものは何なのか試行錯誤して考えているうちに、『和モノもいいかな?』と思い浮かんできました。日本のテレビドラマの音楽なども聴いて、海外の人も観られるほうがいいと思い(映画の)『陰陽師』を選びました」

 羽生には、「今の日本男子で、和のプログラムを表現できるのは自分しかいない」との強い自負があった。羽生ならではの繊細さや、和の力強さ、体の線の使い方を突き詰め、自分らしいプログラムにしていくことがこのシーズンのひとつの挑戦だった。

 振り付けを担当したのは、前シーズンのフリー『オペラ座の怪人』で初めて組んだシェイリーン・ボーン。再び彼女に依頼したことについて、羽生はこう説明した。

「彼女の振り付けの中で、自分の得意な動きがまだ確実にできていないし、お互いが完璧に理解し合えているわけではないと思います。そういう意味では、ジェフリー・バトルさんに作ってもらった『パリの散歩道』(2013ー14シーズンのショートプログラム=SP)を滑り込んで、自分のものにできたように(ボーンの振り付けも自分のものに)したい。また、『SEIMEI』のようなテイストの曲は日本人に作ってもらったほうがもっと和の雰囲気が強くなると思いますが、あまりにも日本らしくし過ぎるのはどうなのかな? という思いがあったので、(カナダ人の)ボーンさんにお願いしました。世界から見た日本のすばらしいところもピックアップできればと考えました」



日本の伝統舞踊の動きも参考にしたという『SEIMEI』

 羽生は、プログラム作りの過程で、ボーンと一緒に日本の伝統舞踊について調べたという。狂言や能の動きを見て、姿勢を振らさずに流れるように歩く動きや滑らかさは「スケートにも通じるものだと感じた」という。羽生はそうした動きを「これからの自分の演技の中に取り入れていきたい」と目標を語った。

 ドリーム・オン・アイスでの『SEIMEI』はアイスショーバージョンで、フリー演技を1分半ほど短くしたものだった。3回の4回転ジャンプを組み込んでいたが、最初のサルコウと後半のトーループで転倒。羽生はこう話した。

「サルコウの失敗の原因もつかめてきています。ショーにお金を払って見に来てくださる方たちには申し訳ないところもあるかもしれないけど、僕はこのプログラムをみなさんに観られながら仕上げていきたいという気持ちがあります。もちろんいつも完璧にできるとは限らないですが、こういう場をひとつひとつ乗り越えながら、課題を見つけて頑張っていきたい」

 試合より狭いアイスショーのリンクで、難度の高い4回転ジャンプを3回も入れるのは異例のこと。羽生はそれをこなせるようになることで、前シーズンに果たせなかった「SPとフリーの両方で後半に4回転ジャンプを入れるプログラム」を完成させたいと考えていたのだ。

 このプログラムは「自分の世界に入り込み、感情や体まで、すべてを溶け込ませるものにしたい」と話していた羽生。とことん滑り込んでそれができた時、彼の中でこのプログラムが完成する。このシーズンの羽生は、アイスショーでも真剣勝負を続けていた。

 羽生は『SEIMEI』を演じることで、和の表現を深く考えた。その経験を通じて、SPの『バラード第1番ト短調』などその他のさまざまな表現にも目を向けるきっかけになったという。

「最初に『バラード第1番ト短調』(のプログラム)を受け取った時には、どうやって滑ればいいのかとわからなくなったくらいでした。でも、『SEIMEI』がきっかけになり、(バラードを)どういう風な感じで滑ればいいのか、どういう風に表現していけばいいのかと考えられるようになった」

 そして、このSP曲を2シーズン続ける意味をこう語った。

「気に入っていますし、自分を成長させてくれるプログラムだと思います。一つひとつの音が繊細で、ピアノソロだからこそ出てくる旋律やきれいな音、シンプルさがあるかもしれないですが、そうした物語性のない音符の上を振りつけながら滑っていくように表現する。演技が音に溶け込んでいくものにしていきたいです」

「自分自身のバラードとして完成させたい」との思いがあったのだ。この翌月のファンタジー・オン・アイス神戸公演で披露することになる『天と地のレクイエム』の新たな表現への発想も、強い気持ちでふたつのプログラムに取り組み始めていたからこそ生まれたと言えるだろう。

*2015年6月配信記事「今シーズンは『和風』。羽生結弦が語った新プログラムの狙い」(web Sportiva)を再構成・一部加筆

【profile】 
羽生結弦 はにゅう・ゆづる 
1994年12月7日、宮城県仙台市生まれ。全日本空輸(ANA)所属。幼少期よりスケートを始める。2010年世界ジュニア選手権男子シングルで優勝。13〜16年のGPファイナルで4連覇。14年ソチ五輪、18年平昌五輪で、連続金メダル獲得の偉業を達成。2020年には四大陸選手権で優勝し、ジュニアとシニアの主要国際大会を完全制覇する「スーパースラム」を男子で初めて達成した。 

折山淑美 おりやま・としみ 
スポーツジャーナリスト。1953年、長野県生まれ。92年のバルセロナ大会から五輪取材を始め、これまでに夏季・冬季合わせて14回の大会をリポートした。フィギュアスケート取材は94年リレハンメル五輪からスタートし、2010年代はシニアデビュー後の羽生結弦の歩みを丹念に追っている。