『羽生結弦は未来を創る〜絶対王者との対話』 第Ⅳ部 芸術性へのこだわり(2) 数々の快挙を達成し、男子フィギュアスケートを牽引する羽生結弦。常に挑戦を続ける桁外れの精神力と自らの理想を果敢に追い求める情熱を持つアスリートの進化の歩みを振り返…
『羽生結弦は未来を創る〜絶対王者との対話』
第Ⅳ部 芸術性へのこだわり(2)
数々の快挙を達成し、男子フィギュアスケートを牽引する羽生結弦。常に挑戦を続ける桁外れの精神力と自らの理想を果敢に追い求める情熱を持つアスリートの進化の歩みを振り返る。世界の好敵手との歴史に残る戦いや王者が切り拓いていく未来を、長年密着取材を続けるベテランジャーナリストが探っていく。
ファンタジー・オン・アイス2015神戸公演で『天と地のレクイエム』を演じる羽生結弦
羽生結弦が五輪王者として挑んだ2014ー15シーズンは、大会でのアクシデントや緊急手術などで納得のいくものではなかった。しかし、「ファンタジー・オン・アイス2015」期間中には、新たなエキシビションプログラムを作り始めていた。音楽家の松尾泰伸氏が手がけたピアノ曲『東日本大震災 鎮魂歌「3.11」』で演じる『天と地のレクイエム』と名付けたプログラムだった。公演期間の後半に演じたそのプログラムは、羽生の思いや感情を詰め込んだ、静謐(せいひつ)な舞だった。
7月上旬のファンタジー・オン・アイス2015の最終公演の神戸公演。静かなピアノの音の中で滑り出した羽生の姿から、一瞬たりとも目が離せなかった。驚きと天への怒り、そして襲いかかって来る絶望感と無力感。心の中で暴れ回る狂おしいほどの気持ちが、体の隅々からしみ出てくるような滑りだった。
自身が経験した東日本大震災への思いを表現するプログラムを作りたいと考えていた羽生にとって、『東日本大震災鎮魂歌「3・11」』との出合いは衝撃的だった。羽生は、一度聞いてこの曲で踊ることを決めた。そして滑り始めると、自分の体の中に何かが降りて来るような感覚になったという。
プログラム制作中だった6月上旬に羽生は、こう話していた。
「いろいろなプログラムをやってきましたけど、僕は何かメッセージを届けるというのはあまり得意じゃないんです。いろんな先生たちに『自分の中に入り込みすぎる、もっと外へ意識を向けるように』と注意されたこともありました。でも、この新しいエキシビションプログラムに関しては、僕の経験やその時の感情をそのまま込める演技にしようと思っています。自分の中へ完全に入り込んで、その世界に自分の体や気持ちなど、すべてを溶け込ませるまで滑り込みたいです」
『天と地のレクイエム』には東日本大震災に対する羽生自身の思いが込められた
羽生は「歌詞がないピアノ曲なので、表現するのが難しい」とも述べた。そうした曲であるがゆえに、受け取る側が、自身の思いとは違ったものになることもあると考えていた。
「振り付けの宮本賢二先生と(プログラムの)イメージは固めています。でも、『こう受け取ってほしい』とは考えないようにしています。アイスショーはナマものですし、作り上げるイメージはその時限りのもの。だから、観ている皆さんには、その場で感じたことや思い浮かんだ風景などを大切にしていただいて、それぞれの記憶に少しでも残してもらえればと思っています」
東日本大震災で被災した体験は、経験した個人のもの。その感情は他人に押しつけられるようなものではない。直に経験したひとりの人間としての自分の思いを提示するだけ、との思いが羽生にはあるのだろう。
緊張感に満ちた3分27秒の滑り。羽生は、拍手や歓声、感嘆のため息をつくことさえもはばかられるほど濃密な時間を作り上げた。
最後、氷上に2列の花を象った照明がポッと映し出される。羽生は、燃えさかっていた自分の気持ちを心の中で静かに鎮めて演技を終えた。
東日本大震災への思いを込めたプログラム。羽生はそれを神戸で演じたことに、大きな意義を感じていた。1995年の阪神・淡路大震災から復興へ向かってきた地だからだ。
羽生は、終演後にマイクを手にした。
「神戸で『天と地のレクイエム』をやらせていただけたのは、本当にうれしいことです。神戸は大震災から復活した、というより、新しい素敵な街に生まれ変わった。その街で、皆さんの前で滑れたことは、本当に幸せでした。僕は先日、福島へ行ってきました。まだまだ復興はしていませんでした。これからも、皆さんが、東北のみならず津波の被害を受けた茨城県や千葉県のことも忘れずに、支援活動を続けてもらえたらと思います」
そしてマイクを離すと、肉声で「ありがとうございました!」と感謝の言葉を口にしてリンクを去った。
その1週間後、フィギュアスケート・アオーレ長岡で、疲労がたまった状態だったが、羽生は志願して『天と地のレクイエム』を演じた。新潟もまた、04年の中越大地震で甚大な被害を受けた地だ。
心の中にとどめていた大震災への思いを、自分の作品として表現することで、羽生はまた新しい一歩を踏み出した。
*2015年7月配信記事「羽生結弦が新エキシビション『天と地のレクイエム』に込めた思い」(web Sportiva)を再構成・一部加筆
【profile】
羽生結弦 はにゅう・ゆづる
1994年12月7日、宮城県仙台市生まれ。全日本空輸(ANA)所属。幼少期よりスケートを始める。2010年世界ジュニア選手権男子シングルで優勝。13〜16年のGPファイナルで4連覇。14年ソチ五輪、18年平昌五輪で、連続金メダル獲得の偉業を達成。2020年には四大陸選手権で優勝し、ジュニアとシニアの主要国際大会を完全制覇する「スーパースラム」を男子で初めて達成した。
折山淑美 おりやま・としみ
スポーツジャーナリスト。1953年、長野県生まれ。92年のバルセロナ大会から五輪取材を始め、これまでに夏季・冬季合わせて14回の大会をリポートした。フィギュアスケート取材は94年リレハンメル五輪からスタートし、2010年代はシニアデビュー後の羽生結弦の歩みを丹念に追っている。