ビーチバレーの現役レジェンド西村晃一インタビュー 前編「体力や動きが落ちたと感じることはありません。むしろ、今が一番いいと思います」 かつてインドアの日本代表のリベロとして活躍し、ビーチバレーに転向して間もなく20年。西村晃一(WINDS)…

ビーチバレーの現役レジェンド
西村晃一インタビュー 前編

「体力や動きが落ちたと感じることはありません。むしろ、今が一番いいと思います」

 かつてインドアの日本代表のリベロとして活躍し、ビーチバレーに転向して間もなく20年。西村晃一(WINDS)は、47歳になった今でも日本のトップクラスの選手(JVAオフィシャルランキング5位。11月17日時点)としてプレーを続け、悲願のオリンピック出場に向けて情熱を燃やしている。


47歳ながら第一線で活躍を続ける西村

 photo by Ray Yamaguchi

 京都の花園高校で春高バレーを制し、立命館大学から1996年にNECホームエレクトロニクスに入社(1年で廃部しNECブルーロケッツに移籍)。身長は175cmながら抜群のジャンプ力を持つアタッカーとして躍動し、長らく日本代表で活躍した2m8cmの大竹秀之の陰からひょいと顔を出してスパイクを叩きつける姿が印象的だった。

 そして1998年には代表に選出されるが、当時導入されたばかりのポジション、守備専門のリベロとしてだった。「よく『奇跡だ』と言われるんですけど、ちょうどリベロというポジションができて、この身長でも全日本に入れたんです」と振り返る西村は、持ち前の反射神経を生かしたレシーブでチームを救い続けた。

 男子の日本代表は2000年のシドニー五輪の出場を逃したものの、世界最高峰のリーグ、セリエAのチームから声がかかった。移籍が実現すれば、現役の日本代表選手がセリエAに挑戦する初めてのケース。しかし交渉が進み、契約書を交わすだけとなった時に、西村は「これは違う」と契約をキャンセルした。

「やっぱり、スパイクが打ちたかったんですよ(笑)。それでビーチの道を選んだことに、後悔はまったくありません」



インドアでは日本代表のリベロとして活躍 photo by Nakazaki Takeshi

 2002年、同じくインドア日本代表の"顔"だった朝日健太郎と共にビーチバレーに転向し、大きな話題を呼んだ。

 西村はすぐに企業と大きな契約を結び、同時に日本で初めてのプロビーチバレーの法人「ビーチウィンズ(現WINDS)」を設立。パートナーの朝日や、NECレッドロケッツからビーチバレーに転向した浦田聖子など4名の選手を抱え、全員の給与やワールドツアーの遠征費などをすべて負担した。自らの貯金や契約金を切り崩してチームを運営する時期もあったが、積極的にスポンサー獲得に動き、十分な資金を得られるようになった。

「最初はスポンサーさんに"おんぶにだっこ"でした。だけど、それではいけないと試行錯誤し、自社の商品開発に携わったり、その販路を広げたりしてきました。結果、スポンサー費より多くの利益をもたらすことができるようになり、チームも軌道に乗って、2000年代後半のリーマンショックなども乗り越えることができたんです」

 元日本代表の木村沙織の夫としても知られる、日高裕次郎もその環境のもとでプレーしたひとりだ。日高は2009年にインドアから転向してフリーで活動していたが、2012年にロンドン五輪の代表決定戦に惜しくも敗れたのちにWINDSに所属(2014年にインドアに復帰)。一時は西村とペアを組んで国際大会でも好成績を残した。

「本当にそれまでとは環境が違いました。練習場所があるのはもちろん、海外で合宿をさせてもらったり、世界中を遠征したり。ビーチバレーは経済的に厳しい選手も多い中、競技に集中できる恵まれた環境を作れることはすごいと思います」(日高)

 西村が日高とのペアで国内ツアー優勝を重ねていた2013年9月、東京五輪の開催が決定した。筆者が、当時40歳の西村に取材した際には「オリンピックはもちろんですが、アメリカのプロツアーでの優勝などほかの夢もある」と話していた。2015年にはその言葉どおり、アメリカ人選手とペアを組み、日本人として初めて米国ツアー(AVP)に参戦して優勝。アジア国枠が取れずに出場は叶わなかったものの、リオ五輪の日本代表候補にも選出された。



チームのホームコートでもある、渋谷の宮下パーク屋上にあるビーチバレーコート photo by Tanaka Wataru

 40歳を超えてなお進化を続けていたが、2017年に入って右肩の腱板断裂という選手生命を脅かす大ケガを負う。数々の肩の名医を紹介され病院を渡り歩いたが、みなが「この状態で野球選手もバレー選手も復帰した人はいないです。手術をしても元の状態に戻るのは難しい」と口を揃えた。

 年齢も考えれば、そこで現役を退く決断をしてもおかしくはない。しかし西村は迷わず「手術をして、肩を元の状態よりも強く鍛え直して、絶対に復帰する」と決意。術後は、もう一度スパイクが打てる日を信じて厳しいリハビリに耐えた。

 結果、復帰絶望の宣告を受けてからわずか数カ月でプレーができるまで状態を戻す。復帰戦となった2017年7月のジャパンツアー第5戦の「大洗大会」で準優勝。それでも西村は「優勝しないと復帰したことにはならない」と、同年のツアーの3大会と8月に開催されたビーチバレージャパンで合計4回の優勝を果たした。

 そして2020年の東京五輪へ――。そう突き進んでいるところで、開催の延期が発表された。

「かなりショックでした。出場権を得るための膨大な練習、犠牲にしてきたこともいっぱいあるので、それを考えると苦しいですよね。でも、東京オリンピックを集大成にと考えていたので、バレーボールの神様がプレーする時間を延ばしてくれたんだと思うと、感謝の気持ちが湧いてきました。肩の状態もよくなっていく一方ですし。

 でも、『またあの苦しい思いをするのか』と想像するだけで吐きそうですけどね(笑)」

 そう語る西村の目は生き生きとしていた。

(後編につづく)