MotoGP最速ライダーの軌跡 日本人ライダー編(3) 中野真矢 下 世界中のファンを感動と興奮の渦に巻き込んできた二輪ロードレース界。この連載では、MotoGP歴代チャンピオンや印象深い21世紀の名ライダーの足跡を当時のエピソードを交えな…

MotoGP最速ライダーの軌跡 
日本人ライダー編(3) 中野真矢 下 

世界中のファンを感動と興奮の渦に巻き込んできた二輪ロードレース界。この連載では、MotoGP歴代チャンピオンや印象深い21世紀の名ライダーの足跡を当時のエピソードを交えながら振り返っていく。
日本人ライダー3人目は、中野真矢。世界でチャンピオン争いを繰り広げた非凡なライダーの物語を伝える。



2006年オランダGPで2位表彰台を獲得した中野真矢

 全日本時代に、21歳でヤマハファクトリーライダーとして中排気量クラスのチャンピオンを獲得。翌年にグランプリの世界へ飛び込むと、いきなり250ccクラスの表彰台常連。そしてそこで熾烈なタイトル争いを経て、2001年に最高峰の500ccクラスへステップアップ。シーズン末にはルーキー・オブ・ザ・イヤーに選出。

 と、このように、当時の中野真矢の成績を眺めてみると、ヤマハ生え抜きの選手としてその後も順風満帆なライダー人生を送ってゆくのだろう、と十分に想像させる良好な経歴を見て取ることができる。

 技術規則が大きく転換したMotoGP元年の02年は、従来の2ストローク500ccと新時代の4ストローク990ccMotoGPマシンの混走になった。2ストロークのYZR500でシーズンをスタートした中野に4ストローク990ccのYZR-M1が与えられたのは、一年も残り3戦になった第14戦マレーシアGPだった。

 この2ストロークマシンから4ストロークマシンへの乗り換えに、中野は予想外に手こずった。思ったような成績を残せず、不本意なレースが続いた。



2006年オランダGPの中野

 02年のランキングは11位。翌03年も年間総合10位と苦戦した。ヤマハからは04年に向けたオファーももらっていたが、正直なところ、決して高い評価ではなかったという。そこにアプローチしてきたのが、カワサキだった。

 カワサキは、技術規則が大きく変わったことを契機に、02年の終盤から最高峰クラスに参戦し始めた。事実上のデビューイヤーといっていい03年は、14位や15位に入れば上等、という成績が続いた。所属選手たちのランキングは、22位と23位だった。

 むしろ伸び悩んでいた中野の成績の方が、はるかに上位のほうにいた。だが、そんな陣営が虚心坦懐(きょしんたんかい)に自分を頼ってくれたことで、中野にも大いに意気に感じるものがあったのだろう。とはいえその反面では、少年時代から長年育ってきたヤマハを去るのは「非常に辛い決断だった」と中野は振り返る。

「カワサキで挑戦したい気持ちも本心でした。でも、今までずっとお世話になってきたヤマハから移籍するのは、後ろ髪を引かれる思いがものすごくありました。たしかにヤマハからいただいていた次の年のオファーはいい内容ではなかったけれども、そもそも自分がいい成績を残せていれば、好待遇を提示してもらえたはずなんですよ。だから、結局それは自分の責任なんです。

 これは日本人のいいところでもあり、悪いところでもあると思うんですが、報酬が高い方へ移籍する、というドライな考え方は自分にはないし、今までに受けたお世話や恩を大切にする文化で育っているから、あのときの移籍は本当にハードルが高かったですね」

 カワサキは、伝統的にライムグリーンをイメージカラーにしている。また、〈漢(おとこ)カワサキ〉という言葉にあるように、カワサキユーザーやファンは硬派な豪快さをよしとする気風がある。端正な顔立ちで〈王子〉というニックネームもあった中野とは、やや雰囲気を異にする感が、ないではなかった。だが、実際にライムグリーンのレザースーツに身を包み、無骨な外観のマシンにまたがると、中野は誰よりも腹の据わった走りを見せた。

 カワサキのライダーとして初めて参戦した04年の開幕戦南アフリカGPでは、ある決意をもって予選に臨んだ。

「当時のカワサキは、15位以内でポイントを獲れるかどうかも怪しい状況でした。だから、カワサキに入った最初のレース、南アの予選で、セッション序盤に柔らかいタイヤを履いてタイムアタックに出たんです。皆がまだあまり攻めていない段階だから、僕がアタックしたら、ポン、とトップタイムになった。そしてピットに戻ってきたら、皆の雰囲気がガラリと変わっていた。口にこそ出さないけど、明らかに『オレたちもやればできるんだ』という空気になっているんです。僕にすれば、してやったりですよね。その雰囲気がほしかったんだから。結局、そのタイムはあとで皆にどんどん更新されたんですけどね」

 翌日の決勝レースは、トップから44秒背後の12位で終えた。第2戦スペインGPは周回遅れの9位。第3戦フランスGPはマシントラブルによりリタイア。

 そして、第4戦のイタリアGPを迎えた。このレースでは、最終コーナーを立ち上がってメインストレートでバイクが300km/hに到達したときに、タイヤがバーストする事故が発生した。大きな爆発音と同時にストレートが白煙に包まれ、そこを中野の体がものすごい勢いで転がっていった。コースサイドのコンクリート壁寸前で幸いにも停止し、中野自身も軽い打撲と胸部の擦過傷程度のケガで済んだのは、まさに幸運以外のなにものでもない。

 次のレースは2週連続開催のカタルーニャGP。タイヤメーカーのブリヂストンは、性能を抑えてでも安全性を重視したタイヤを急遽、日本から持ち込んでこのレースに投入した。数日前の中野のショッキングな出来事を目の当たりにしているだけに、ブリヂストンを履くチームの中には、実は出場を渋る陣営もあった。

「僕らはチャレンジャーなんだから、レースに出ないとか辞めるという選択肢なんて最初からあるわけがない。プロなら、やるべきでしょう」

 そう言って中野はレースウィークに臨んだ。

 決勝前にはブリヂストンから、レース中にタイヤから不審な挙動が発生したらすぐにリタイアするようにと忠告も受けていた。だが、中野は最後まで走りきり、しかも7位でチェッカーフラッグを受けた。この一部始終は、優しげな外見とは裏腹に腹の据わった中野の性格をよく表すエピソードといえるだろう。

 この後のシーズン中盤戦は、カワサキはいかにも発展途上の新興チームといった内容と成績で、中野もポイント獲得圏内を出たり入ったりするレースが続く。そして、ツインリンクもてぎで行なわれた秋の第12戦日本GPで中野は3位に入り、カワサキに初めての表彰台をもたらした。ちなみに、このレースでは玉田誠が優勝している。最高峰クラスで日本人選手がふたり、表彰台に上がったのはこのとき以来、現在に至るまで絶えて久しい。

 中野は、カワサキで3シーズンを過ごした。移籍初年の04年から06年に至るまでのそれぞれは、まさに〈ホップ・ステップ・ジャンプ〉との言葉どおりにチームとともに一段階ずつ成長を続けた3年間だった。その集大成と中野が自ら位置づけるのが、06年第8戦オランダGPだ。

 このレースウィークは、予選終了間際まで熾烈なポールポジション争いを続け、僅差の2番グリッドになった。決勝レースでも、ずっと単独で3番手を走行し続けた。最後は、前の選手が転倒したために、2番手に繰り上がってゴール。

 優勝選手は、この年の最終戦でチャンピオンを獲るホンダのニッキー・ヘイデン。3位には、将来を嘱望され神童の呼び声高い、ダニ・ペドロサ。表彰式でホンダファクトリーの選手2名に挟まれながら、「表彰台圏内でずっと戦って最後に2位を獲れたのだから、優勝ではないとはいえ、自分とカワサキに何かを残すことができた」と感じたという。

 翌07年は、濃密な3年間を過ごしたカワサキを去ってホンダ陣営のコニカミノルタ・ホンダへ移籍した。結果的には、このシーズンは思いどおりの成績を残せず、「何もかもがうまくいかなくて、カワサキで築いてきた自信がすべてなくなった」という一年になった。

 だが、さらにもう一年、ホンダ陣営のあるチームで戦うチャンスを与えられた。チームの名称は、サンカルロ・ホンダ・グレシーニ。そう、かつてのライバル、加藤大治郎が在籍していたグレシーニ・レーシングだ。

「チームのワークショップに行っても大治郎さんの写真がそこら中にいっぱい貼ってあって、今も皆に愛されていることがよくわかりました。監督のグレシーニさん以下、スタッフの方々は、かつてのライバルだった僕にとてもよくしてくださって、非常にいい緊張感でそのシーズンを戦うことができました」

 前年の不調からも、少しずつ調子が戻ってきた。そして、夏休み明けに第12戦チェコGPを迎えた。このレースが、中野にとって大きな転機になった。

「ウィークの最初から調子が良くて、自分でもこれ以上ないくらいに走れていました。決勝も100パーセントの力を出し切った。なのに、結果は4位。ホンダの常勝マシンで、この実力チームで、しかも全力を出したのに、表彰台を獲れずに4位だった。『これはもう、MotoGPでは責任を取るしかないな......』、そう思いました」

 結局、この年を最後に中野はMotoGPを去り、翌09年はSBK(スーパーバイク世界選手権)へと戦いの舞台を移す。しかし、シーズン中の負傷が原因で力を発揮できず、一年を戦い終えて現役からの引退を発表した。

 現在の中野真矢は、モーターサイクルアパレルブランド「56 Design」を経営するとともに、若い選手を発掘・育成する「56Racing」で地方選手権などに参戦。そこで育ったライダーたちを、さらに上のクラスへ押し上げる活動を行なっている。56Racingの卒業生には、スポット参戦ながらすでにMotoGPのMoto2クラスを経験した選手がいる。また、今シーズンは欧州のFIM CEV レプソル選手権や、全日本ロードレースにエントリーする選手もいる。

「自分の若い頃を振り返ると、指導者に恵まれ、いろんな方々に支えられてプロになることができた。そう思って周囲を見回してみると、ダイヤの原石だけど、本人はどうやればいいかわからないという子たちがゴロゴロいるんです。そんな彼ら彼女らに、道を示して、次のステップへ押し出してあげるのが今の自分の役割なのかな、と思います。やる以上は人ひとりの人生がかかっているので、こちらも真剣ですよ。表彰台に上がろうものなら、うれしくて泣いちゃってますもんね。自分の現役時代には、表彰台で泣いたことなんて一回もなかったくせに(笑)」

【profile】
中野 真矢 Nakano Shinya
1977年、千葉県生まれ。1987年に全日本ポケットバイク選手権で優勝。98年、全日本ロードレース選手権250ccクラスチャンピオン獲得後、99年にロードレース世界選手権250ccクラスにフル参戦。2000年には同クラスで年間ランキング2位となる。01年より最高峰クラスにステップアップし、ルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得するなど活躍。09年に現役を引退。現在はモーターサイクル関連のブランド運営のほか、若手の育成などに尽力している。