女子バレー稀代のオールラウンダー新鍋理沙が歩んだ道(2) 元女子バレー日本代表・新鍋理沙のバレー人生を辿る短期連載。第2回は、全国で活躍した高校時代と、久光スプリングス(旧久光製薬スプリングス)入団後に守備力を高めるきっかけになったターニン…

女子バレー稀代のオールラウンダー
新鍋理沙が歩んだ道(2)

 元女子バレー日本代表・新鍋理沙のバレー人生を辿る短期連載。第2回は、全国で活躍した高校時代と、久光スプリングス(旧久光製薬スプリングス)入団後に守備力を高めるきっかけになったターニングポイントについて振り返る。


長らく日本代表として活躍した新鍋

 photo by Kimura Masashi

 中学校を卒業した新鍋は、鹿児島県の名門・鹿屋中央高校に進学した。中学時代は県選抜に選ばれたものの、自らのチームでは県ベスト4が最高だったため全国的に知られる選手ではなかった。それでも将来性を買われて「声をかけてもらえた」という。

 それまでも厳しい練習を経験しており、強豪校に入ることの心構えもしていたが、実際に入部してからの厳しさは想像を超えていた。

「練習もですが、普段の学校の生活から指導がすごく厳しかったです。チームの目標が『日本一になること』というのは入学前から知っていましたけど、人生で一番しんどかったと思える時間だったかもしれません。でも、やめたいとは思いませんでしたね」

 中学まではレフトでもプレーしたが、高校では基本的にライトで、1年生にしてレギュラーとして活躍。2006年のインターハイで優勝を果たした。翌年の春高バレーにも出場してベスト4に進出したが、新鍋は「とても悔しかった」と振り返る。

「準決勝は大阪国際滝井との試合で、先に2セットを取ったのに、そこから逆転されてフルセット負け。あまり試合内容を覚えてないくらい必死だったんですけど、負けた時の悔しさは言葉では言い表せないくらい大きかったです」



延岡学園に転校し、3年時に久光スプリングスに内定(写真:新鍋本人からの提供)

 その後、新鍋は宮崎県の延岡学園に転校。そこでの恩師・佐藤美智雄に背中を押されたこともあり、3年時の2008年11月に久光スプリングスの内定選手になった。のちにチームに欠かせない選手になる新鍋だが、高卒1年目の2009-2010シーズンはわずか2試合の出場にとどまった。

 この時の心情について聞くと、子どもの時から負けず嫌いだった新鍋とは思えない、意外な返事が返ってきた。

「自分が出られるとは思っていなかったので、葛藤みたいなものはなかったですね。もともと、『入社して3年ぐらいやれればいいかな』と思っていたので」

 しかし、個性と実力があるチームメイトが新鍋のやる気に火をつける。長く日本代表のリベロとして活躍した佐野優子、2008年の北京五輪に出場した狩野美雪、鋭いクイックが持ち味だった先野久美子、司令塔の原桂子といった「テレビで見ていた」選手たちのプレーを見て、「私もああいうプレーがしたい、という気持ちが徐々に出てきた」という。

 のちに新鍋の武器となる守備力も、この時期から本格的に鍛えることになった。

「久光や他チームの選手を見た時に、『あんなにすごいスパイクは打てないな』と感じたんです。何か他の部分で自分の強みを持たないといけないと思って、それなら私は『攻撃よりも守備だろう』と」

 両親が共にバレーの指導者で、厳しい練習環境で学生時代を過ごしてきたことで土台はできていた。高校でもチームの得点源として活躍したが、「自分が絶対に決める」といった意識はなく、173cmという女子バレー選手としては大きくない身長でどう勝利に貢献できるか、と考えながら練習や試合に臨んでいた。

 変なこだわりがなかったからこそ、新しいことに挑戦しやすかったのだろう。レシーブを中心に守備を徹底的に鍛え、攻撃面も、スパイクはブロックアウトの技術を磨くといった方向にシフトした。



久光2年目のシーズンに最優秀新人賞を獲得 photo by Sakamoto Kiyoshi

 すると、翌2010―2011シーズンの開幕戦でスタメンを飾る。いきなりの大抜擢だが、先に挙げた狩野らベテランたちが引退するなど、チームの変革期と重なったことも大きかった。

「何人かの選手が引退されたので、『自分にもチャンスがあるかもしれない』とシーズン前の夏に頑張りました。リーグ中の全体練習では、控えの選手はボールを触る時間が短かったんですけど、練習する人数が少し減り、ボールを触る機会が増えたのでどんどん楽しくなっていって。それで、試合にも出たいという気持ちも強くなっていきました」

 いざ開幕スタメンを告げられた時には、うれしさより「どうしようと不安でいっぱいになった」というが、本番では両チーム合わせての最多得点を記録してチームの勝利に貢献。試合までに、どうやって気持ちを切り替えたのだろうか。

「その年は開幕戦だけでなくシーズンを通して、ちょっと失敗しても、原さんや先野さんなどが『思いっきりやっていいからね』と声をかけてくれたんです。だから、無駄なことは考えずに思い切りできたんでしょうね」

 そのシーズンは東日本大震災の影響でファイナルラウンドが中止になったが、チームはレギュラーラウンド3位。頼もしい先輩たちに支えられながら活躍した新鍋は最優秀新人賞を獲得した。

 その活躍により、シーズン終了後にはシニアの日本代表に招集された。それまでアンダーカテゴリーでも代表の経験がなかっただけに「ビックリしました」と当時を振り返った新鍋だが、最年少メンバー(当時21歳)ながらチームに欠かせない存在となっていく。

(第3回につづく)