MotoGP最速ライダーの軌跡 日本人ライダー編(3) 中野真矢 上 世界中のファンを感動と興奮の渦に巻き込んできた二輪ロードレース界。この連載では、MotoGP歴代チャンピオンや印象深い21世紀の名ライダーの足跡を当時のエピソードを交えな…

MotoGP最速ライダーの軌跡 
日本人ライダー編(3) 中野真矢 上 

世界中のファンを感動と興奮の渦に巻き込んできた二輪ロードレース界。この連載では、MotoGP歴代チャンピオンや印象深い21世紀の名ライダーの足跡を当時のエピソードを交えながら振り返っていく。
日本人ライダー3人目は、中野真矢。世界でチャンピオン争いを繰り広げた非凡なライダーの物語を伝える。 



1999年から250ccクラスにフル参戦した中野真矢。日本GPで初優勝を果たした

 中野真矢は、世界グランプリで250ccクラスフル参戦デビューを飾ったシーズンの開幕戦、マレーシアGPでいきなり3位表彰台を獲得した。そして、次戦の日本GPでは優勝。雨のツインリンクもてぎで表彰台の頂点に立ち、「自分にも、グランプリで戦っていけるだけの実力があるのかもしれないな......」という手応えを感じたのだという。1999年のことだ。当時の中野は、21歳。世界グランプリに挑戦するために休学した武蔵工業大学(現・東京都市大学)工学部のキャンパスでは、桜が咲いている季節だった。

 5月上旬の第3戦スペインGPでは、ポールポジションを獲得。次のフランスGPで2位。その後もイギリスGPで3位、南アフリカGPで2位に入り、年間ランキングを4位としてルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得した。

 翌2000年は、全日本ロードレース時代からしのぎを削り合ってきた加藤大治郎が中野の1年遅れでグランプリへやってきた。

 当時、中野と加藤は強烈なライバル関係にあった。全日本時代は加藤がホンダファクトリーチームで、対する中野はヤマハファクトリーチーム。ふたりのライバル関係はメーカー同士の威信を賭けた戦い、という側面も大きかった。

「大治郎さんはポケバイ(ポケットバイク)に乗っていた子ども時代からすでに大スターで、1歳年下の僕はその背中をずっと追いかけている状態でした。全日本でヤマハのファクトリーチームに入ったときに、ようやく少しだけ追いつくことができた、という気がしました。彼はホンダで自分はヤマハですから、チームの人からは『目を合わせるなよ。話をするんじゃないぞ』と言われるくらい、いつもすごい緊張感でピリピリしていた。そんな時代でしたね」

 加藤は1997年に全日本250ccクラスのチャンピオンを獲得し、翌98年には中野がその座を奪ってチャンピオン。この強烈なライバル関係はそのままグランプリの世界へシフトし、しかもそれがトップレベルで繰り広げられたのが、2000年というシーズンだった。

 加藤が所属したのは、イタリア人監督のファウスト・グレシーニ率いるグレシーニ・レーシング。中野はフランスの伊達男エルベ・ポンシャラルが束ねるTech3チーム。ともに、準ファクトリーといっていい名門チームである。加藤がデビューシーズン序盤から優勝争いに食い込んだことは驚異的だが、グランプリ2年目でチャンピオンを争っていた中野の直接のライバルになったのは、チームメイトのフランス人選手オリビエ・ジャックだった。終盤2戦、第15戦パシフィックGPと最終戦の第16戦オーストラリアGPで、シーズンの戦いは最大の山場を迎えた。 



2000年、ツインリンクもてぎ開催のパシフィックGPで熱線を繰り広げる中野と加藤大治郎

 ツインリンクもてぎで行なわれたパシフィックGPは、中野と加藤の一騎打ちになった。

 ポールポジションは加藤、中野は3番グリッド。ともにフロントローからのスタートだった。1周目から加藤がリードし、僅差で中野が追う。3番手以降は3周目ですでに大きく離れ、レースは序盤から加藤と中野だけの戦いになっていた。加藤と中野は、一貫して0.3〜0.5秒の差。文字どおり目と鼻の先という程度のわずかな距離だ。

 中野は眼前の加藤を追っている。その中野がチャンピオンを直接争っているジャックは、はるか後方にいた。中野は今の順位のまま2番手で終えても、最終戦でタイトルの雌雄を決することができる。そう考えたチームは、周回数が残りわずかになったときに、「OK」の文字を記したサインボードをメインストレートのピットウォールに提示した。そのまま順位を最後までキープせよ、という意味だ。

「ふざけんじゃねえ」

 メインストレートに戻ってきたときにそのサインを見た中野は、ヘルメットの中で怒りに火がついたという。

「2位になるためにレースをやってるわけじゃないんだ」

 手を伸ばせば届くほどの眼前にいる加藤を追って、さらにスロットルを開けた。最終ラップは、通常ならタイヤが摩耗(まもう)し切っているために高レベルのタイムを維持できなくなる場合が多い。バイクがそんな状態になっていても、中野は最終ラップにレース中の最速ラップを記録した。

 にもかかわらず、距離は最後まで詰まらなかった。

 加藤が優勝、中野は0.707秒差の2位でチェッカーフラッグを受けた。

 クールダウンラップを終えてピットボックスへ戻ってきた中野は、珍しく荒れた。勝てなかった悔しさで涙ぐみ、ガレージの隅にあった備品を蹴り飛ばした。

 後年になって、このときのことを笑いながら振り返る。

「あのレースだけを見た人は、『なんでそんなに荒れるの?』と思うかもしれませんね。トップ争いでは僅差の距離が詰まらないことなんて、いくらでもありえるわけだから。でも、そこに至るまでのとても長い伏線、ストーリーがあるんですよ。大治郎さんはポケバイ時代もミニバイクでも、ずっと僕の前を走っていた。全日本でも、もてぎのレースでは勝てなかった。

 自分に足りない部分はあるだろうし、開発面にも課題があるかもしれない。日々そればっかり考えていて、その積み重ねであの日のレースを迎えたんです。それでも負けたものだから、自分の中の悔しさがあんな形で爆発したんですね。よく覚えていますよ。絶対にやっちゃいけないことだけど、ピットの中にあったものを蹴っ飛ばして。で、この話には続きがあって、様子をのぞきに来たドクターコスタ(MotoGPに帯同する医師団長)が『よしよし』ってなだめてくれたんです(笑)」

 このレース結果により、中野はチャンピオンシップポイントでジャックの2点差まで追い上げた。2000年250ccクラスのタイトル争いは、シーズン最終戦を残して中野とジャックのチームメイト対決という形になった。

 最終戦の舞台は、オーストラリア・フィリップアイランドサーキット。全会場の中でも屈指のハイスピードコースで、特に高低差の激しい後半セクションから高速最終コーナーまでの区間では、過去にも数々の名勝負が繰り広げられてきた。このコースで、中野とジャックのどちらか先にチェッカーフラッグを受けた方がチャンピオンになる。

 すでに記したとおり、日本人選手の中野とフランス人選手のジャックが所属するチームは、フランス人監督のポンシャラルが率いるフランスを母体とするチームだ。チャンピオンがかかった争いでは、チーム内部に多少の自国びいきの雰囲気が発生したとしても決して不思議ではない。だが、ポンシャラルはふたりをまったく平等に扱った。チームスタッフに対しても、レースに向けた準備などで絶対に差をつけないことを徹底させた。

 中野とジャックはチームからのそんな期待に、自分たちの走りで応えた。

 決勝のポールポジションは中野、2番グリッドにジャック。レースが始まると、ふたりは最終ラップまで完全に互角のバトルを続けた。最終コーナーには中野がわずかに先行して入っていった。コーナーを立ち上がり、ゴールラインまでの直線でジャックがほぼ横並びになった。そしてゴールラインを通過。

 ジャックが数十センチ先行していた。ふたりのタイム差は0.014秒だった。

 チャンピオンのジャックとランキング2位の中野は翌01年に、Tech3レーシング全体が持ち上がる格好で500ccクラスへステップアップした。中野はシーズン半ばの第9戦ドイツGPで3位表彰台を獲得。4戦で4位に入る非凡な走りを見せ、最高峰クラスでもルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得した。

 02年からはマシンの技術規則が大きく変わり、2ストローク500ccから4ストローク990ccMotoGPマシンの時代へと移ってゆく。世界グランプリの歴史では過去最大ともいえるこの大きな変更に際し、初年度の02年は2ストローク勢と4ストローク勢が混走するシーズンになった。ファクトリー勢はどの陣営も最新のMotoGPマシンで開幕を迎えたが、ヤマハのサテライトチームであるTech3レーシングの中野は、前年同様の2ストロークマシンYZR500でこの激動のシーズンに臨んだ。中野たちにMotoGPマシンのYZR-M1が与えられたのは、一年もそろそろ終盤に差し掛かった10月の第14戦マレーシアGPだった。
(つづく)

【profile】
中野 真矢 Nakano Shinya 
1977年、千葉県生まれ。1987年に全日本ポケットバイク選手権で優勝。98年、全日本ロードレース選手権250ccクラスチャンピオン獲得後、99年にロードレース世界選手権250ccクラスにフル参戦。2000年には同クラスで年間ランキング2位となる。01年より最高峰クラスにステップアップし、ルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得するなど活躍。09年に現役を引退。現在はモーターサイクル関連のブランド運営のほか、若手の育成などに尽力している。