MotoGP最速ライダーの軌跡 日本人ライダー編(2) 玉田誠 下 世界中のファンを感動と興奮の渦に巻き込んできた二輪ロードレース界。この連載では、MotoGP歴代チャンピオンや印象深い21世紀の名ライダーの足跡を当時のエピソードを交えなが…

MotoGP最速ライダーの軌跡 
日本人ライダー編(2) 玉田誠 下 

世界中のファンを感動と興奮の渦に巻き込んできた二輪ロードレース界。この連載では、MotoGP歴代チャンピオンや印象深い21世紀の名ライダーの足跡を当時のエピソードを交えながら振り返っていく。
日本人ライダー2人目は、玉田誠。最高峰の舞台で持ち味の豪快な走りを見せ、日本のファンを熱狂させたそのキャリアをたどる。 



2004年、MotoGPリオGPで初優勝を果たした玉田誠(中央)

 玉田誠は2004年に表彰台の頂点に登壇した。しかし、そこに至るまでには、厳しい試練も通過しなければならなかった。

 MotoGP参戦2年目の玉田は、タバコブランドのキャメルがチームのメインスポンサーとなり、キャメルホンダというブランディングで臨むことになった。このシーズンは、一般的な印象としてはバレンティーノ・ロッシがホンダからヤマハへ移籍した最初のレース、開幕戦の南アフリカGPで劇的な優勝を飾り、メーカーが変わりながらもチャンピオン4連覇を達成したシーズンとして広く知られている。

 玉田はそのロッシを相手に、6月に行なわれた第4戦イタリアGPで激しい優勝争いを繰り広げた。ムジェロサーキットに詰めかけた大観衆の前で、玉田は5周目にトップに立つと、11周目までレースをリードした。しかし、タイヤから不審な挙動が発生したため、14周目にリタイア。メディアセンターのモニターには、コースサイドで停止したバイクにまたがる玉田がうなだれて悔しそうにタンクを叩く姿が映っていた。

 実はその少し前に、同じブリヂストンタイヤを履くカワサキの中野真矢が、メインストレートで転倒していた。原因は、リアタイヤのバーストだった。コースサイドのコンクリートウォールに激突する寸前の大クラッシュで、時速300kmからの転倒だっただけに、軽い打撲と擦り傷程度で済んだのは僥倖(ぎょうこう)といっていい。タイヤに不審な振動が生じていた玉田の場合は、中野のようなバーストこそ起こさなかったものの、その寸前の状況にあったということだ。

 ブリヂストンにとって、これは自社製品の信頼性を根底から脅かしかねない一大事件だった。しかも、次戦は2週連続開催のカタルーニャGPが予定されていた。モーターサイクルレーシングマネージャーの山田宏は、急遽日本側と連携を取り、性能面ではやや劣るものの確実な安全性に振ったタイヤを手配した。

 カタルーニャGPのパドックで、走行前日の木曜にブリヂストンは記者会見を設定した。その場で欧州メディアから「ムジェロのアクシデント後にタイヤを安全方向に振ることで、開発にどれくらいの遅れが生じるのか?」という質問が出た。山田は苦しそうな表情で「おそらく、2、3カ月分はセットバックを強いられることになると思う......」と述べた。

 週末の決勝レースで、玉田は不審な挙動を感じたために再びリタイア。中野は完走し、ブリヂストン勢ではこのレース最上位となる7位で終えた。その2週間後の第6戦オランダGP、TTサーキットアッセンは玉田が「爆破したいくらい嫌い」と冗談めかして語るほどの苦手コースだ。結果は案の定、12位。そして第7戦は大西洋を渡り赤道を越え、南半球のブラジルで開催されるリオGP。前年のレースでは、MotoGP初表彰台の3位を獲得した相性のよいコースだ。

 このレースで、玉田は圧倒的なパフォーマンスを見せた。 



2004年MotoGPリオGP、玉田誠(左)は圧倒的な走りを見せた

 スターティンググリッドは3列目7番手だったが、徐々に前との差を詰めて、レース中盤にはトップグループに追いついた。ラスト4周で満を持して前に出ると、あとは一気に後続を引き離した。そして、現地時間午前11時30分に全24周のレースがスタートしてから44分21秒976後、玉田は誰よりも先にチェッカーフラッグを受けた。

 この勝利は玉田のMotoGP初優勝であると同時に、02年に最高峰クラスへの挑戦を開始したブリヂストンにとっても、記念すべき1勝目になった。ほんの1カ月前には、悪夢のようなアクシデントを経験していただけに、この優勝はモーターサイクルレーシングマネージャーの山田にとっても、何よりも貴重な価値ある1勝になった。

 さらに、この決勝が行なわれた7月4日は、玉田の親友であり目標でもあった加藤大治郎の誕生日だった。

「トップに立ってからそのことを考えましたね。決して頼っていたわけじゃないけど、大ちゃんに背中を押してもらったような気もする。この上ない誕生プレゼントになりました。最高です!」

 この日の夕刻、もう少し話を聞こうと思ってチームのオフィスを訪ねると、玉田はすでにスーツケースを準備して帰り支度を整えていた。祝勝会やパーティをせず、今から空港へ向かい、そのまま日本へ帰るのだという。

 実はこのとき、玉田の母サカエさんは癌で病床に伏せていた。母は、地球の裏側で表彰台の頂点に立つ息子の姿をテレビの画面越しに鑑賞した。そして、数日後に、サカエさんは世界一速いロードレーサーとなった息子に看取られながら息を引き取った。こうして玉田は、友と母に自らの力で最高の贈り物を届けた。

 約1カ月の夏休み期間を経て後半戦になると、第11戦ポルトガルGPで玉田は自身初のポールポジションを獲得。決勝は2位で終えた。優勝は、4連覇への地歩を着々と固めつつあるロッシ。玉田は「今日のロッシは本当に速かった」と話す一方で、「2位はやはり悔しい。笑っていても、どこか顔が引きつっているのがわかるんですよ」とも述べた。

 その心中に期すものを、玉田は2週間後の第12戦日本GPで爆発させた。ツインリンクもてぎの観衆を前に、土曜の予選でポールポジションを獲得。日曜の決勝では、ロッシに6秒差を開いて独走優勝を成し遂げた。ちなみに、このときの玉田を最後に、日本人選手は誰もMotoGPクラスで優勝をしていない。

 シーズン最終戦のバレンシアGPでも、2位表彰台を獲得。翌年は有力選手のひとりと目されるようになった玉田だが、05年にはふたつの大きな変化があった。ひとつは、チームのメインスポンサーに日本の光学機器メーカー、コニカミノルタを迎えたこと。もうひとつは、タイヤブランドがブリヂストンからミシュランへ変更になったことだった。このシーズンは、前年のようにさまざまな条件がピタリと噛み合うことがなく、厳しい内容のレースが続いた。それでも、秋の日本GPではなんとか3位を獲得した。

 だが、06年はさらに苦戦を強いられ、07年はダンロップタイヤを使用するヤマハサテライトチームへ移籍。結果から言えば、まさに「禍福(かふく)はあざなえる縄のごとし」ということわざどおりのシーズンを過ごすことになった。

 その後、スーパーバイク選手権(SBK)で2シーズンを過ごした玉田は、やがて活動の舞台をアジアに移した。後進の育成を兼ねて、選手としてアジアロードレースに参戦。それらの活動も縁をつないで、現在はアジア各国の選手やスタッフで構成するチームを束ね、監督を務めている。ここ数年の鈴鹿8耐では、このアジア多国籍混成チームでほぼ毎年トップ10フィニッシュを果たしている。

「自分をコントロールするんじゃなくて他人をマネジメントするわけだから、これは本当に難しいです。『自分の場合はこうだった』なんて言っても通用しないし、人も違えば国籍も文化も異なるわけだから」

 かつてMotoGPで優勝や表彰台を獲得した若者は、さまざまな苦楽を味わう年月を経た後に、アジアを起点として世界を視野に入れることのできる指導者へ成長を遂げた、ということなのだろう。

 19年はアジアロードレース選手権や全日本ロードレース、鈴鹿8耐などに参戦して多忙な一年を送った。だが、20年は新型コロナウイルス感染症の蔓延により、玉田の率いる多国籍チームは活動停止を余儀なくされている。現在は、パンデミック終息後の活動再開に向けて、準備を続けている最中だという。

「ライダーなら、アジアからSBKやMotoGPなど世界の舞台へ行ってチャンピオンを獲れる選手。メカニックの場合なら、たとえばHRC(Honda Racing Corporation:ホンダレーシング)に入っても恥ずかしくないくらいしっかりした仕事のできる人材。そういう人たちを育てたい。そして、やがて自分の国に戻ったときにそのノウハウを各国でシェアできるようにしてほしい、というのが目標です」

 ただ、その目標が遠大なものであることは、玉田自身、十分すぎるくらいに理解している。

「正直、道のりはとんでもなく長いと思います。5年やそこらでできるわけがない。タイでは子供にレースを教えるアカデミーが近年になって始まったばかりで、彼らが成長するまで少なくとも10年。おそらくもっと時間のかかる、ものすごく息の長い目標です。めちゃくちゃ大変ですよ。でも、これだけは絶対にやりたいんです」

【profile】 
玉田 誠 Tamada Makoto 
1976年、愛媛県生まれ。95年に全日本ロードレース選手権250ccクラスでデビュー。99年にスーパーバイククラスにステップアップし、2001年にはチーム・キャビン・ホンダに加入。03年、プラマック・ホンダからMotoGPに参戦し、1年目から表彰台を獲得。2年目のリオGPでは日本人2人目となる優勝を果たす。07年にMotoGPを離れ、スーパーバイク選手権(SBK)や鈴鹿8耐などの参戦を経て、現在は後進の育成にあたっている。