トレードマークでもある背番号の数だけ、チームメイトたちの手で宙を舞った。その数、実に16回。冷たい雨が落ちてくる夜空を見あげ、サポーターのかけ声を浴びながら、松本山雅FCの鐵戸裕史(てつと ひろし)は万感の思いを胸に募らせていた。「本当はJ…

トレードマークでもある背番号の数だけ、チームメイトたちの手で宙を舞った。その数、実に16回。冷たい雨が落ちてくる夜空を見あげ、サポーターのかけ声を浴びながら、松本山雅FCの鐵戸裕史(てつと ひろし)は万感の思いを胸に募らせていた。

「本当はJ1昇格を決めて胴上げされれば、一番よかったんですけど。でも、いままでやってきたことが間違いじゃなかったんだと、自分のなかで確認することができた瞬間だったと思っています」

ファジアーノ岡山をホームのアルウィンに迎えた、11月27日のJ1昇格プレーオフ準決勝。90分間を終えて同点の場合は、J2で3位だった松本山雅が規定より12月4日の決勝へ進出できる。

果たして、試合は1‐1のまま4分間が表示された後半のアディショナルタイムへ突入。その半分が経過しようとしたときに、ファジアーノのFW赤嶺真吾の技ありのシュートがゴールネットを揺らした。

1年でJ1へ復帰を。全員で描き続けてきた夢の途中で、今シーズンの松本山雅の戦いが終焉を迎えた。同時にチーム最古参の34歳で、ファンやサポーターから「てっちゃん」の愛称で親しまれてきた鐵戸も、ファジアーノ戦をベンチで見守りながら現役生活に別れを告げた。

ショックが色濃く残るなかで図らずも行われた、ホーム最終戦セレモニー。鐵戸がおもむろにマイクを握った瞬間に、ファンやサポーターはクラブの生き字引的存在である功労者の決意を悟ったはずだ。

本来ならば、3‐2の逆転勝利で横浜FCを破った20日のJ2最終節後に引退を表明するつもりだった。しかし、同時間帯に行われた他会場の試合結果により、松本は自動昇格できる2位以内を逃してしまう。

優勝した北海道コンサドーレ札幌との勝ち点差はわずか1の84。2位の清水エスパルスとは並びながら、得失点差で後塵を拝した。3位チームとしては史上最多の勝ち点を獲得しながら、涙を飲んだ。

それでも、戦いはまだ続く。J1昇格プレーオフの会場は、成績上位チームのホームとなる。3位の松本は決勝までの2試合をアルウィンで戦える。チームの勝利を信じて、現役引退の決意を一時的に伏せた。

「正式に引退を決めたのは、(横浜FCとの)ホーム最終戦を前にした週になります。やめるからメンバーに入った、あるいはやめるから試合に出たとなるのはサッカー選手としてのプライドが嫌がったので、基本的には誰にも言うことなく、GMとだけ相談して決めました」

クラブ内で知っていたのは前監督であり、現在は副社長兼GMを務める加藤善之氏だけ。しかし、練習に臨む姿勢から伝わってくるものがあったのだろう。横浜FC戦で、反町康治監督は鐵戸を先発で起用する。

前半のキックオフをピッチのうえで迎えるのは、今シーズンで初めてだった。これまでは途中出場で6試合だけ。ベンチ入りするのも8月21日のレノファ山口との第30節以来、12試合ぶりだった。

登録はディフェンダーだが、現役最後の一戦はワントップ・高崎寛之の背後に位置するダブルシャドーの一角でプレー。後半22分にベンチへ下がるまで、感謝の思いを抱きながら、いつものように168センチ、68キロの体から情熱をほとばしらせる全身全霊のプレーを魅せた。

「大事な試合で僕を先発で選んでくれたソリさん(反町監督)には、本当に感謝しています。ソリさんが就任してからの5年間で学んできたものを、しっかり出そうと思って試合に臨みました。結果はプレーオフに回ることになりましたけど、僕自身はやってきたことを精いっぱい出せたと思っています。

アルウィンにバスで入ってくるときも、大勢のサポーターの方々が太鼓を叩きながら、僕たちに熱い声援を送ってくれました。2009年からのことをいろいろと思い出すと本当に胸が熱くなりましたし、だからこそ勝って昇格を決めて、ユニフォームを脱ぎたいという思いがより強くなりました」

鐵戸が松本の地へやってきたのは2009年6月。J2を戦っていたサガン鳥栖を契約満了で退団してから約半年間のブランクを経て、北信越フットボールリーグ1部を戦っていた松本山雅の一員になった。

熊本県益城町で生まれ育ち、熊本商業高校から佐賀大学に進んだものの、卒業時にはプロから声がかからない。2005シーズンからはアマチュアの佐賀楠葉クラブでプレーし、翌年8月にサガン入りした。

もっとも、入団当初はアマチュア契約。念願のプロサッカー選手となったのは、2年目の2007シーズンからだったが、2年間で42試合に出場しながら契約更新を見送られている。

どん底からはい上がってやる、という執念にも似た思いは、実に北信越フットボールリーグに在籍すること連続35シーズン目を迎えていた当時の松本山雅に、新たなパワーとエネルギーを注ぎ込んだ。

たとえば全国規模のリーグであるJFL昇格へつながる、2009年12月の全国地域リーグ決勝大会の決勝ラウンド。くしくもアルウィンを舞台にしたY.S.C.C.との第2戦で、決勝ゴールを決めたのは鐵戸だった。

ツェーゲン金沢との初戦をPK戦の末に落としていた松本山雅にとって、Y.S.C.C.と引き分けていたら悲願の全国リーグ挑戦はかなわなかったかもれない。その意味でいまも語り継がれる、伝説のゴールでもある。

迎えた2010年3月21日。JFL第2節で、松本山雅はホーム開幕戦を迎えた。相手はソニー仙台FC。試合には敗れたものの、5496人が集まったアルウィンの光景をいまも忘れられないと鐵戸は笑う。

「やっぱり地域リーグからJFLに上がったときの試合が、僕にとっては一番印象に残っています」

JFLでの2シーズン目となった2011年には、横浜F・マリノスからDF松田直樹さんが加わった。日本代表としてワールドカップの舞台でも戦ったベテランが、J1から数えて3番目のリーグでプレーする決意が伝わってきた。

「一番の思い出ですか? これだ、というのは言えないなんですけど、常に勝負にこだわる強い気持ちをもって練習から取り組んでいたし、そのなかでもサッカーを楽しむことを忘れなかった姿勢が印象に残っています。オレが絶対にJ1へ連れていく、というマツさんの言葉に、僕自身も乗せられました。

あれだけの経験をしてきた選手が、当時JFLの松本山雅に来た。ものすごく大きな決断をしたんだ、というマツさんの思いも僕にはひしひしと伝わってきましたし、そういう思いを共有できたことは僕にとっても財産になりました。いまでもマツさんには感謝しています」

松田さんが急性心筋梗塞に倒れ、帰らぬ人となったのは2011年8月4日。松本山雅は故人の強烈なまでの遺志を、そのシーズンのJFLで4位に入り、J2昇格を勝ち取ることでかなえる。

そして、クラブは反町監督を招聘する。アルビレックス新潟と湘南ベルマーレをJ1昇格に導き、2008年の北京五輪ではU‐23日本代表を率いた名将がふるうタクトは、鐵戸にとっても新鮮かつ刺激的だった。

「ソリさんが来られてからは、サッカーとは本当に奥が深いなと勉強することばかりでした。いろいろなことを教えてもらいましたし、選手としてだけでなく、人間としてもいろいろな経験をさせてもらい、成長することができた時間だったと思っています。本当に感謝の思いでいっぱいです」

反町監督は妥協をいっさい許さない、徹底したフィジカルトレーニングで松本山雅をハードワーク集団へと変貌させていく。一方で対戦相手を緻密にスカウティングして、ストロングポイントを発揮させないプランを試合ごとに何パターンも描いて白星を積み重ねた。

反町体制で3年目となった2014シーズン。マリノス時代に松田さんの薫陶を受けた、同じ1982年生まれのDF田中隼磨が加入。空き番となっていた故人の象徴、背番号「3」と燃える魂を引き継いだ。

松本山雅はベルマーレに次ぐ2位に躍進し、ついにJ1への扉をこじ開ける。国内最高峰の舞台への挑戦は残念ながら1年で幕を閉じてしまったが、クラブはいまだに夢の途中にいると鐵戸は信じてやまない。

「本当にずっと右肩上がりで進んできたクラブですし、昨シーズンにJ1からの降格というものを初めて味わい、今シーズンも昇格を逃した。その意味では、結果としてはネガティブにとらえられがちだと思うんですけど、チームは確実に成長して大きくなってきていると僕自身は思っている。

これから先、来シーズンこそは優勝してJ1へ上がるチャンスがまたできたと思えば、ポジティブにとらえられると思う。これからも松本山雅はいろいろな歴史を作っていけるクラブだと思いますし、僕自身は選手としてはそういう歴史を作っていくことはできませんけど、その姿を見守っていきたい」

今後は未定だが、松本市に残って「自分にできることをやっていきたい」と第2の人生の設計図を描く。そのなかでひとつだけ、Jクラブのなかで松本山雅がもつ一番の力を感じている。

「サポーターの力がすでに日本一だと、僕自身は思っています。サポーターとともにこのクラブはどんどん大きくなり、前へ進んでいく。来シーズンのJ1昇格だけでなく、J1への定着、そして優勝争い。そういう雰囲気を選手、スタッフ、チームとあわせて、松本という街の皆さんとともに作りあげていってほしい」

情熱のすべてを、7年半にもわたって、地域リーグから実に4つのカテゴリーを戦いながら捧げてきた苦労人の言葉だからこそ説得力がある。そして来シーズンからはサポーターの一員として、捲土重来を期す松本山雅へ、鐵戸が新たな力を注入してくれるかもしれない。