東京オリンピック競技に指定されたサーフィン。以前は、ともすると「レジャー」として扱われていたこのスポーツは、いまでは競技スポーツとして世間一般に広く認められている。若いアマチュアサーファーは、大会に勝つための努力をいとわないし、いつかプロサーファーとして生活することを当然のように夢見ている。そして、「プロで稼ぐには、大会で勝たないと」。業界では、それが常識とされているのだ。
ところが、そのような“ルール”に囚われることなく、自身のサーフィンスタイルを貫き、それを生業にしている人物がいる。プロフリーサーファー小林直海、その人だ。地元鎌倉の海でサーフィンを始めたという彼は、波の上を流れるように滑っていく「フローサーフィン」というスタイルを得意とする。競技サーフィンで結果を残していた彼が、競技性から逸脱したフリーサーフィンに転向したのは一体、何故なのか。今回のインタビューでは、彼の母であるエリコさんを迎え、生い立ちや転向の経緯、そしてこれからの活動を二人に語ってもらった。
「サーフィンでオカンに叱られたことなんてなかった」
-まずはエリコさんの話を聞かせてください。鎌倉にはいつから住んでいるんですか?エリコ:鎌倉に家を買ったのが25年前。「海まで30メートル!」って書かれた電柱の張り紙と電話番号が、目にバンと飛び込んできたんです。他にもいろいろ見て回ってたんですけど、それ見たら「ここしかないんじゃないか」って気がして、決めちゃいました。
-運命の出会いですね。では、いつから親子でサーフィンを?エリコ:直海がサーフィンを始めたのは3歳の頃です。私が乗っているロングボードの先端に、いつも直海がいました。たしか浮き輪をつけていたと思う。
直海:そうだったっけ。おれが覚えているのは、幼稚園の頃に、折れたシングルフィンのロングボードをリペアしてもらって乗っていたこと。オカンが初めて買ったボードだったと聞きました。
当時、親子で乗っていたボードの一部 -中学生の頃はどうでしたか?
直海:中学校でサーフィンしていたのは自分一人でした。隣町の学校と、通っている学校が合併したことがあったんですけど、それでも一人。だから当時は、おれが鎌倉で一番サーフィン上手かったんです。だけど、鎌倉から鵠沼海岸まで通うようになってから、自分よりサーフィンの上手い子どもがザラにいてビックリしました。
-初めての挫折ですね。「わー、なんだこいつら!」みたいな。直海:そうです。すごく悔しかった。今までは鎌倉で一人だったから、鵠沼で初めてライバルや、海の友達ができたんです。
-その頃のキッズ・ボーイズサーファーには、いわゆる“教育ママ”のような、スパルタの親御さんが付いていた記憶があるのですが、小林家はいかがでしたか?エリコ:うちはぜんぜん。ライディングを後でチェックするために、ビデオカメラで子どものサーフィンを撮ってる人もいたけど、私はいつも肉眼でした。運動会とかお遊戯会でもビデオ回したことないです。ビデオに通して見たくはなかったんですよね。
直海:サーフィンでオカンに叱られたことがないです。でも、他の家は厳しい親が多かったよね。ゆるくやってたのはウチくらい。のびのびしてました。
エリコ:サーフィンの大会に出させるなんて考えたこともなかったけど、鵠沼に行くようになってからかな、急に本人が「出たい」って言うからビックリして。直海、大会で負けたら一人でわんわん泣いてたよね。
直海:NSA(アマチュア大会)の決勝常連がそろってたからね。みんなは技をバシバシ決めてました。フローサーフィンしていたおれは、正直、勝てる気がしなかったです。
エリコ:私は好きでしたけどね。直海のサーフィン。
photo by Kazuki Murata -直海くんの独特なサーフィンスタイルのルーツは、どこから来ているのでしょうか?
エリコ:やっぱり鎌倉の波じゃないですかね。沖から岸までずーっと乗ってました。ロングボード向きのゆるい波が多いから。それもあって、直海のサーフィンスタイルはレールワーク(ボードのレールを使って方向転換する動作)中心でした。
直海:それはあるかもね。波の上で縦にアプローチするリップみたいな技よりも、フローターみたいにボードを横へ流していく技をしてました。
エリコ:それと、競らなかったよね。大会の時はみんなと同じピークで競るんじゃなくて、ちょっとずらしたところで別の波を見つけて、一人でサーフィンしてました。
直海:その方が好きだったんです。競ることは得意じゃなかった。マークも苦手でした。ガツガツと波を取りにくるサーファーも嫌だったな。でも大会に出ることは好きでしたよ。仲間と成長できたし、だからこそプロにもなったし。
直海:海外サーファーだと、デーン・レイノルズやクレイグ・アンダーソン、あとウォーレン・スミスです。ジェレミー・フローレスやケリー・スレーターみたいなバチバチのコンペティターじゃなくて、そことは少し違うことをしてるようなサーファーが好きで見ていました。
NSAの全日本大会で優勝して、クイックシルバーがスポンサーになった時も、同じクイックのメンバーに憧れてたデーンやクレイグがいたから、「同じステッカーをボードに貼れる!」ってはしゃいでいましたね。
それから、鵠沼でよく一緒にサーフィンしている中村光貴くんや、大会の勝ち方を指導してくれた善家尚文くん。あとは萩原周くんです。自分がボーイズクラスの頃に、周くんはジュニアクラスで活躍していました。サーフィンメディアに出ていた周くんのライディング動画は、いつもチェックしていました。本人とは全然喋ったことなかったんですが。
直海:ちょこちょこですね。でもその頃、自分はアマチュアだったし、かっこよくサーフィンできてはいなかったと思う。自分は動画を観てひたすら驚嘆していました。すごいサーファーがいっぱい出ていたので。
photo by Kazuki Murata
競技サーフィンからフリーサーフィンへの転向
-では、プロサーファーになった頃の話も聞かせてください。いつからプロに?直海:JPSAのプロ公認を受けたのは、18歳の高校生の時です。公認試合に出たのは、19歳になってからかな。アマチュアの時はもちろん、プロになってからも、たくさん大会に出ました。
-経験を積んで、結果を積み重ねていったんですね。直海:そうですね。JPSAのランキングはトップ10に入らなかったけど、3年ほど11番、12番にいました。大会単体では、2位が最高のリザルトです。
-アマ・プロと競技サーフィンを続けていて、どんなことを考えていましたか?直海:めちゃくちゃ勝ちたくてしょうがなかったです。そう思うと、常に自分のしたいサーフィンはしてこられたかな。アマ・プロともに自分が納得のいく結果は残せたので、スポンサーの期待にも少しは応えられていたと思います。
-フリーサーフィンへの憧れはどうでしたか?直海:競技サーフィンと同じくらいありました。例えば、自分は大会を観るよりも、フリーサーフィンの動画を観る方が好きでした。デーンのフリーサーフィンの動画なんて観まくってましたね。
-では、プロフリーサーファーになった転機はなんですか?エリコ:わりと最近だよね。JPSAでプロになって3年目くらいで、直海のサーフィンに点数が付かなくなってから。
直海:最初は、自分のフロー(サーフィン)が注目されてるっていう自覚がありました。高い点数がもらえていましたから。きっとジャッジから見て、フレッシュに映ったんだと思います。それで結果的に準優勝できた。その年にルーキーオブザイヤーも獲得できました。
そのおかげで、つぎからトップシード(優先権)を持って大会に臨めるようになりました。トップシードがあると、本戦の4回戦目・5回戦目から優先的に出られるので良いことなんですが、正直、難しさを感じていました。そこから勝ち上がれなくなって。
photo by N parko-ある種の「燃え尽き症候群」だったのかもしれませんね。
直海:そうですね。トップシードは一度勝てば賞金がもらえて、ランキングも維持されやすい。一方で、1回戦目から勝ち上がってくる人は賞金への貪欲さがあるし、その日の波のコンディションに対して調整がきいてる状態なんです。海から上がって、他の選手から「直海のライディング、点数低いよ」って言われて、落ち込む反面、うれしさも感じていました。
-え、うれしかったんですか?直海:はい。それと同じくらい、「直海のサーフィン好きだよ」って声をかけてもらえることが多かったんですよね。それ以来、大会で求められているサーフィンと、自分のスタイルにギャップを感じ始めたんです。
エリコ:直海は変わってなかったよね。勝った時も、負けた時も、ずっとフローサーフィンだった。QS湘南オープン(日本で行われた海外ツアーの大会)が鵠沼で開催された時に、コナー・オレアリーのお母さんとお会いして。お母さん、直海のサーフィンを見てビックリした顔で言ったんです。「フローして勝ってる子は初めて見た」って。私はその言葉が忘れられないです。
直海:はい。あと、転向のきっかけというか、サーフィンする環境が良かったのかも。サーフボードのスポンサーであるゼブラ ホンクアートには、競技用のショートボードだけじゃなくて、いろんなボードがあったんです。フィッシュテールとか、シングルフィンとか、レトロボードとか。同じボードチームに所属していた先輩の中村光貴くんたちが、それらのボードを使って波に対するアプローチの自由さや、サーフィンの楽しさを改めて教えてくれました。
あとは、先輩の大橋海人くんと、フィルマーの小川拓くんに、インドネシアのサーフィン撮影に誘われたことがあって。そのインドネシアでの撮影が、おれの中で一番良い経験になりました。そこから自分のサーフィンの映像を残していくのにハマっていったんです。2年前の撮影では、偶然いっしょにサーフィンしたクレイグが自分を絶賛してくれました。憧れのサーファーに認められて、フリーサーフィンに対するモチベーションが高まりましたね。
photo by Kazuki Murata-アフェンズがスポンサーになった時のことも詳しく教えてください。
直海:クイックシルバーがスポンサーから外れて、しばらくアパレルはノースポンサーで大会に出ていたんです。そうしたらある日、前から一緒に撮影をしていたフィルマーの方に、「スポンサーの話が来てるんだけど、どう?」って声をかけられて。それが2017年4月9日だから、もう3年になります。
アフェンズがスポンサーになるって決まってからサーフムービーを作って、それをオーストラリアに送りました。公式のインスタグラムに『Welcome Naomi!』って載ってるのを見た時は、日本人として最高にうれしかったです。
エリコ:雰囲気もいいよね、黒髪で。「日本人!」って感じ。海外受けしたんじゃないかな。
直海:そうだね。海外のアフェンズのチームライダーはけっこう、直海のスタイルが好きだって言ってくれてます。アフェンズのライダーってエアーとかが得意だけど、レールワークが最高だって。そんな奴はあんまりいないみたいな。だから直海は最高だって。
エリコ:それもうれしいね。
直海:そうそう。でも、海外のロングボーダーまで自分のサーフィンを評価してくれたのにはビックリした。ジャレッド・メルとか、トロイ・エルモアとか。
エリコ:ロングボーダーは直海のサーフィン好きになるよね。
直海:アグレッシブなサーフィンが好きな人には、自分のサーフィンは好かれないかもしれないけど、自分にハマるものがたまたまそこだったってことだね。
エリコ:えっ。あ、私は基本的に全然なんとも。別にいいじゃん、みたいな。
直海:そうだね。否定的なことはまず、なかった。母は、おれが決めたことに今まで一回もNOって言ってきたことはないです。波乗りに関することでは一度もないね。
エリコ:とりあえず試合は全部、絶対に見てるんですよ。勝った時はみんなが褒めてくれるから、そこは放っておいてよくて。負けた時に、良かったところを私が褒めてあげたいって思っててるんです。だから必ず見るようにしてる。負けた時に一番味方でいたい。ほんとそれだけで。他のことに口は全く出しませんでした。
photo by Kazuki Murata-競技とは違った、フリーサーフィンならではの厳しさもあると思うのですが、どうですか?
直海:ありますね。アフェンズの社長は、ジョノ・サーフィールドって人なんですけど、もともとQSサーファーで、サーフィンがめちゃくちゃ上手いんです。チューブライディングなんかはおれより上手い。だからサーフィンに対する目が肥えてるんです。こっちから送ったライディングの映像に「これじゃダメだよ」ってバッサリ返されることもありますね。
-スタイルの多様さはあるけれど、妥協は一切なさそうですね。直海:めちゃくちゃこだわってますよ。映像としてのクオリティーが低ければ、フッテージとして認めてくれない。すごくシビアです。もちろん、競技サーフィンも同じくらいシビアですが。
ただ、フリーサーフィンの世界は競技と違って目に見える数字や順位がないから、ノルマがないというか。自分と相手を、どう納得させるかが勝負になるんです。
直海:ライディングの順番、カットのタイミング、テイクオフの使う使わない、カメラとの距離感などです。年々、自分のサーフィンに対して自分が納得したいっていうのが強くなってきてて。だから、動画編集にも細かく言うようにしてます。ガンガン言える人と、恐れ多くて言えない人がいますけど(笑)。
ありがたいことに去年から、雑誌やメディアに取り上げて貰うことが増えたので、人目に触れる前に映像を細かく確認させてもらっています。その点では、10代・20代のフィルマーさんは自分のこだわりをわかってくれる人が多いので、とても期待しています。いっしょにいい映像を作り上げていきたいです。
photo by Kazuki Murata
プロフリーサーファーとしての歩み方
-最近加入した「WHAT YOUTH」について教えてください。直海:「WHAT YOUTH」は、フィルマーのカイ・ネビルとエディターのトラビス・フェレ達のクリエイティブチームがスタートしたユースカルチャープロジェクトです。今年に入ってからジャパンチームが発足して、創設メンバーに僕が参加することになりました。
アフェンズを日本に流通させた万歳さんという方が、このプロジェクトに誘ってくれたことがきっかけです。僕たちは「ビバさん」ってニックネームで呼んでます。
-具体的にどんな活動をしているんですか?直海:サーファーの村田嵐、渋谷玄仁、スケーターの中田海斗、ダンサーのRinaと一緒に運営しています。コラムを書いたり、アートワークを掲載したり。もちろん、サーフィンのフィルムも載せてますよ。
-新しい試みですね。始めてみてどうですか?直海:チャレンジしてますね。この間は、ある人にインタビューしに行きました。自分はインタビューされることが多いから、この経験を生かしてやってみようって。そうしたら、終わった後の録音の文字起こしがめちゃくちゃ大変でした(笑)。
でも、生き方だったり、サーフィンスタイルだったり、これまで写真や動画で見せてきたものを新しい形でアウトプットできて楽しいです。
photo by Kazuki Murata-順風満帆という印象を受けますが。
直海:そんなこともないですよ。実を言うと、契約してたスポンサーが二つなくなっちゃって。プロのフリーサーファーは、常に人の目を引きつけないといけないので。その点では、競技サーフィンと同じくらいシビアです。みんな大変なので、みんなで乗り越えていきたいですね。
-サーフィンが東京オリンピック競技になったとはいえ、業界が厳しいことに変わりはないと思います。直海:特に今年はそうです。新型コロナウィルスの影響で、知り合いのプロサーファーは減給になっちゃいました。プロ野球選手みたいに年俸で莫大なお金が入るわけではないので、スポンサーが一つなくなると、とたんに経済的に厳しくなるんです。だから、サーフィンとは別の仕事をやっている人が大勢います。可能性のあるプロサーファーが、お金を稼げずにやめていくことが多くて。そういったプロサーフィン界の現状には、すごく問題意識を感じてます。
photo by Kazuki Murata-では今後、プロフリーサーファーとしてどう歩んでいきたいですか?
直海:自分がかっこいいと思うことで、周りと自分を納得させていきたいですね。あと、プロにお金を回す。そのためにも、いままで自分がしてこなかったことに挑戦していきます。「WHAT YOUTH」もその一つです。アウトプットの場を増やして、自分のフッテージとサーフィンの素晴らしさを世間に発信していけたらなと。もっと多くの人に見て、触れてもらえれば、結果的にプロサーファーにお金が回るようになるんじゃないかと考えています。いまは、そのための畑を作ってるような感じです。必死に耕してます。
-では、最後に一言お願いします。直海:どのスポーツもそうかもしれませんが、人って大会結果とか、順位に注目するじゃないですか。その方がパッと見てわかりやすいし、宣伝にもなると思うので。
おれはその中で、あえて自分のサーフィンスタイルで人を魅了していきたいと思っています。そして、自分の次の世代にも、それを道として示してあげたい。あまり大きなことは言えないんですけど。それで「フリープロサーファー」っていう選択肢が、みんなの常識になったら最高です。
小林直海
photo by Kakunoshin Somekawa
1995年7月11日生まれ。鎌倉市出身・在住。レギュラーフッター。プロ初年度の2014年に準優勝を果たし、ルーキーオブザイヤーを獲得。近年、フリーサーファーとしての活動を開始した。スポンサーは「Afends」「Zburh surf boards」「Fit systems」「Captain fin」「Grass green surf garage」「Brisa marina」。
text by 佐藤 稜馬
photo by Kazuki Murata
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