MotoGP最速ライダーの軌跡日本人ライダー編(2) 玉田誠 上 世界中のファンを感動と興奮の渦に巻き込んできた二輪ロードレース界。この連載では、MotoGP歴代チャンピオンや印象深い21世紀の名ライダーの足跡を当時のエピソードを交えながら…

MotoGP最速ライダーの軌跡
日本人ライダー編(2) 玉田誠 上 

世界中のファンを感動と興奮の渦に巻き込んできた二輪ロードレース界。この連載では、MotoGP歴代チャンピオンや印象深い21世紀の名ライダーの足跡を当時のエピソードを交えながら振り返っていく。
日本人ライダー2人目は、玉田誠。最高峰の舞台で持ち味の豪快な走りを見せ、日本のファンを熱狂させたそのキャリアをたどる。 



2003年リオGPで3位に入り、初表彰台を獲得した玉田誠

 これは一部ではよく知られた話だが、玉田誠はホンダのファクトリーライダーという地位をなげうってMotoGPへ行った。2003年シーズンのことだ。

 02年の玉田は、全日本ロードレース選手権にホンダファクトリーのチーム・キャビン・ホンダから参戦していた。玉田にしてみれば、ようやくつかんだファクトリーのシートだった。

 全日本ロードレース時代の玉田は、250ccクラスを経て1999年にスーパーバイククラスへ昇格。このシーズンの最終戦、ツインリンクもてぎで、サテライトチーム(チーム高武RSC)ながら初優勝を果たした。翌2000年も、同チームから参戦してランキング3位。これらの走りが評価されて、01年シーズンにホンダファクトリーライダーとなった。

 その01年には、スポーツランドSUGOで開催されたスーパーバイク世界選手権(SBK)の日本大会で、ワイルドカード参戦ながらダブルウィンを達成(※SBKでは通常、2レースが開催される)している。このウィークでは、練習走行中にある先輩日本人ライダーと玉田の走行ラインが交錯する出来事があった。

 セッション終了後、その先輩から「ちゃんと前を見て走れ!」と怒鳴りつけられた。玉田は口頭でこそ謝罪しながらも、「よしよし、オレのことを意識しているな」と内心でほくそ笑んでいたという。



2003年リオGPの玉田

 当時の玉田は24歳。全日本時代に、裡(うち)に秘めていた己の志について、後年になって玉田はこんなふうに語ったことがある。

「あのころは、『ファクトリーに入らなければ何も始まらない、絶対にファクトリーライダーになるんだ』という気持ちでレースをしていました。自分が育ったサテライトチームで学んだことを土台に、ファクトリーに入ればさらにたくさんのことを学んで、もっと速くなれる。しかも、あの当時のスターティンググリッドには、『こいつ、人を殺すつもりなんじゃないか』というくらい(笑)、ピンと張り詰めた雰囲気があった。でも、それくらいの強い気持ちで走らないと、世界を相手に戦っていくことなんてとてもできないと思うんですよ」

 01年と02年の2シーズンを、玉田はホンダファクトリーライダーとして全日本ロードレースのスーパーバイククラスで戦った。日本のロードレース界では、選手として最高の待遇といっていい。しかし、彼の目指すべき場所はさらに高いところにあった。

「僕らの時代は、グランプリの125ccや250cc、最高峰クラスで日本人がたくさん走っていました。皆が当たり前のように何回も優勝していたし、チャンピオンも何人もいました。日本で一緒に走っていた人たちが世界で活躍している姿を見ると、『オレにもできる』と思うじゃないですか」

 特にチーム高武時代からの親友、加藤大治郎がトップライダーとして争う姿を目の当たりにすると、自分も早くそこに行きたい、という思いはなおさら強くなっていった。

 しかし、ここでひとつ大きな問題が現れた。全日本ロードレースのルール変更により、03年シーズンから全てのファクトリーチームは参戦を停止することになったのだ。玉田は、岐路に立たされた。このとき、まったく思いがけない方向から玉田にアプローチしてきた人物がいる。タイヤメーカー・ブリヂストンのモーターサイクルレーシングマネージャー、山田宏だ。

 山田が陣頭指揮を執るブリヂストンは、1990年代初頭にグランプリの世界へ飛び込み、125ccクラスへの挑戦を開始した。少しずつ実績を積み重ねて、ついに2002年からは最高峰クラスの参戦に打って出た。当時は、ミシュランが君臨していた時代だ。MotoGP参戦初年度の新参メーカーなど、レースの表も裏も知り尽くしたタイヤ界の大巨人にはとても歯が立つ相手ではない。チャレンジ初年度の02年は、一度も表彰台を獲得せずにシーズンを終えた。

 挑戦2年目の03年に、さらなる攻めの体勢を作ろうとした山田が目をつけたのが、全日本で活きのいい活躍を見せていた玉田だった、というわけだ。しかし、このときの山田と玉田の間には面識がなかった。山田は、知人に玉田の携帯番号を教えてもらって電話をした。電話を受けた玉田は、友人たちと食事の最中だったという。

「なんか、ブリヂストンのヤマダ、とかいう人からかかってきたんだけど......」

 そういって友人たちに断り、やや不審に思いながらも話をよく聞いてみると、来年、自分たちと一緒にMotoGPを戦わないか、という誘いだった。

「はい! もちろんです。行きます、行きます。よろしくお願いします!!」

 千載一遇のチャンスに、ふたつ返事で山田の提案を了承した。このような経緯で、玉田誠はグランプリへの参戦を実現させた。ブリヂストンの熱意とホンダの理解が、玉田のMotoGP参戦を可能にさせたといってもいいだろう。

 念願のMotoGPへ参戦を果たした玉田だが、親友であり目標でもあった加藤大治郎と同じグリッドについたのは、開幕戦鈴鹿の一回だけになった。このシーズンを終えた冬、玉田に加藤のことについて訊ねたとき、言葉少なにこう述べた。

「『ありがとう』という言葉しか出てこなかったですね。遺影の前で『ありがとう、ありがとう』、それだけをずっと言っていたような気がする」

 近年では、加藤に対する敬意をこんなふうにも表現する。

「勝つためにどれだけの準備をしているのかという、レースを見ているだけなら決してわからない部分を見てきた。だから、僕は親友でありながら彼を尊敬します。あのトレーニング嫌いの大ちゃんが、MotoGPに上がるとさらに自分を追い込んで厳しいトレーニングをずっと続けていた。今で言えば、(マルク・)マルケスなんて毎日とんでもないトレーニングをしているわけでしょう。彼らトップライダーのそういう姿を目の当たりにしているから、僕らは彼らを尊敬する。つまり、才能というものは他人以上に努力できるかどうかだと思うんですよ。タイヤが滑ったとかバイクが曲がらないとか、そんなものは自分でどうにかしろって話なんです」

 03年シーズンにMotoGPの世界へ飛び込んだ玉田は、ブリヂストンと二人三脚で挑戦を開始した。最高峰クラス挑戦2年目のブリヂストンは、この時期まだ、後年のように圧倒的なパフォーマンスを発揮するには至っていない。ミシュランとブリヂストンの戦いは、数年後に「タイヤ戦争」という言葉が使われるくらい激烈な開発競争の様相を呈する。だが、この時期のブリヂストンはミシュランの足下に及ばないと言わざるを得ない水準だった。

 山田たちが、切歯扼腕(せっしやくわん)する思いをこらえながら懸命に開発を続けたのはいうまでもない。玉田も、ブリヂストン契約のライダーとして参戦している以上、タイヤに対するコンプレイン(不平)は表立って口にすることができない立場だった。だからこそ、余計に悔しい思いを抱えていた。

 その状況に変化の兆しが現れたのは、03年第12戦のリオGPだった。

 ブラジルのリオ・デ・ジャネイロ郊外にあったジャカレパグアサーキットは、グランプリ初年度の玉田にとって、もちろん初めて走行するコースだ。にもかかわらず、その会場で玉田は3位を獲得した。相性がいい、とはまさにこういうことをいうのだろう。玉田にとっても、そしてブリヂストンにとっても、これが記念すべき二輪ロードレース世界最高峰での初表彰台になった。

 その翌戦、ツインリンクもてぎで行なわれた第13戦パシフィックGPでも、玉田は2週間前の表彰台が偶然の結果ではないことを、日本の観衆の前で証明した。

 優勝は、この年にヤマハからホンダ陣営へ移籍したマックス・ビアッジ。圧巻の独走劇で、3.7秒差の2位にはバレンティーノ・ロッシが入った。そして、ロッシから約1秒差の3番手で玉田がゴール。ホンダ3台が表彰台を独占した。

 しかし、この表彰式の後に、レースディレクションは玉田に対して失格処分の通知を下した。理由は、最終ラップで発生した事象にあった。

 玉田は3位争いの際に、バックストレートで横に並んだセテ・ジベルナウとブレーキ勝負でラインの取り合いのような格好になり、2台が接触した。3番手でチェッカーフラッグを受けた玉田に対して、アウト側のラインを取っていたジベルナウはこの接触の影響で止まりきれず、バックストレートエンドの90度コーナーでオーバーランしてグラベルへコースアウト。そしてその結果、グループから大きく離れた5番手でゴールした。この接触を、レースディレクションは玉田の危険行為と判断したのだ。

 玉田とチームは、即座に抗議を提出。レースディレクションがライダーやチームなどへの聴取を経て、当初の裁定どおりの最終結果とする決定が下ったのは、たしか午後9時に近い時間だったと記憶している。観客はもちろん帰宅済み。メディアセンターでも、多くの人たちがすでに撤収していた。玉田が失格処分となった結果、4番手でゴールしたニッキー・ヘイデンが3位に繰り上がった。玉田と同じくこの年がMotoGPルーキーイヤーだったヘイデンは、記録上ではこのもてぎが初表彰台になった。ホンダにとっては悲喜こもごもというほかない最終リザルトだ。

 この稿を記すにあたり、あらためてこのときの映像を見返してみた。現在の目で見ても、最終ラップの接触を玉田の一方的な危険行為とする判断は、かなり微妙な裁定だった、といわざるをえない。比較対象としては、たとえばヘレスサーキットの最終コーナーで、さらに激しい「接触」が何度もあったこと等を想起すれば十分だろう。

 この年、玉田はランキング11位でMotoGPのデビューイヤーを終えた。そして翌04年は、ブリヂストンとともに、さらに波瀾万丈のシーズンを過ごすことになる。
(つづく)

【profile】
玉田 誠 Tamada Makoto 
1976年、愛媛県生まれ。95年に全日本ロードレース選手権250ccクラスでデビュー。99年にスーパーバイククラスにステップアップし、2001年にはチーム・キャビン・ホンダに加入。03年、プラマック・ホンダからMotoGPに参戦し、1年目から表彰台を獲得。2年目のリオGPでは日本人2人目となる優勝を果たす。07年にMotoGPを離れ、スーパーバイク選手権(SBK)や鈴鹿8耐などの参戦を経て、現在は後進の育成にあたっている。