猪木が語るベストバウトと馬場 前編 9月30日、元プロレスラーで前参院議員のアントニオ猪木が、東京・虎ノ門のホテルオークラでデビュー60周年記念会見を行なった。 17歳で日本プロレスに入門した猪木は、1960年9月30日に東京・台東区体育館…

猪木が語るベストバウトと馬場 前編

 9月30日、元プロレスラーで前参院議員のアントニオ猪木が、東京・虎ノ門のホテルオークラでデビュー60周年記念会見を行なった。

 17歳で日本プロレスに入門した猪木は、1960年9月30日に東京・台東区体育館での大木金太郎戦でデビューした。以後、日本プロレス時代はジャイアント馬場とのタッグ「BI砲」で一時代を築くも、1971 年12月に日本プロレスから追放処分を受け、翌1972年3月6日に大田区体育館で新日本プロレスを旗揚げした。


数々の名勝負を生み出した猪木

 photo by Kimura Moritsuna/AFLO

「プロレスこそ最強」と自らの理想を掲げ、タイガー・ジェット・シン、アンドレ・ザ・ジャイアント、スタン・ハンセンら外国人選手との抗争で多くのファンを惹きつけ、1974年3月には「禁断」と言われたストロング小林との日本人トップ対決を実現。さらに当時のボクシングヘビー級王者、モハメド・アリとの格闘技世界一決定戦など、数々の伝説的な闘いを繰り広げ、1998年4月4日に55歳で引退した。

 猪木が思う、38年間の現役生活での「生涯のベストバウト」はどの試合なのか。著書『猪木力 不滅の闘魂』(河出書房刊)の中でも明かしているが、それは日本プロレス時代の1969年12月2日、大阪府立体育会館で行なわれたドリー・ファンク・ジュニア戦だ。

 この試合は、"世界最高峰"と称されていた「NWA世界王者」のドリーと、猪木が初めて相対した60分3本勝負。猪木はドリーに一本も取られることなく、60分フルタイムでドローに終わったが、著書『猪木力』の中で「『ベストバウトは何か?』と聞かれて、真っ先に思い浮かぶのが、このドリーとの試合になるな。俺のプロレスラーとして節目となった一戦」と振り返った。

 当時27歳のドリーは、この年の2月にジン・キニスキーを破ってNMA王座を奪取。それまでの、パワーと荒々しいスタイルが主流だったアメリカマット界で、洗練されたレスリングセンスを引っ提げて新しい風を巻き起こしていた。

◆闘う美女アスリート6人


弟のテリー(左)との

「ザ・ファンクス」としても活躍したドリー(右) photo by Sankei Visual

 この猪木との対戦のために初来日。26歳の猪木にとっては初の世界最高峰な選手への挑戦だったが、日本のプロレス界の中でズバ抜けたグラウンドレスリング技術があった猪木は、正統的なレスリングで対抗した。フルタイムとなった60分間で、ほとんどロープワークがないレスリングだけでの試合で観客を魅了。自らのスタイルとレスリング技術への自信を深めた、まさに"節目の一戦"だった。

 ドリー戦の記憶を、猪木は著書『猪木力』で「(ドリーの)スマートでシャープなレスリングは相当手ごわかった。あと、今みたいに照明がよくないから、冬なのにリングが鉄板を焼いたみたいに熱くて大変だった」と明かしている。"真冬の灼熱リング"で、マラソンのような60分間の死闘を戦い抜いたことへの誇りがうかがえた。

 さらに、その試合を「大きなステップ」とも語った。世界にその名を轟かせたという意味では、アリ戦が重要な分岐点となったことに異論はいない。しかしその試合はあくまでも「異種格闘技戦」で、純粋なプロレスでの試合で、レスラーとしての自信を掴んだのはこのドリー戦なのだ。

 当時、この一戦はプロレスファン以外の国民からも多くの注目を集め、試合を放送したNET(現テレビ朝日)は、その年の大晦日にNHK紅白歌合戦の裏番組で録画放送したほどだった。試合の実況を担当した、元テレビ朝日の舟橋慶一アナウンサーも次のように絶賛する。

「まさに、猪木さんが新しい時代のプロレスを見せた試合。60分間、まったく休む場面がない試合で証明したスタミナ、世界王者のドリーと互角以上の技術で渡り合った内容は、今までのプロレス界にはなかったハイレベルな攻防でした。私の中でも、ドリー戦が猪木さんのベストマッチです」

 この試合は、馬場を意識した一戦でもあった。勝者は翌12月3日に、東京体育館で馬場の挑戦を受けるシチュエーションが用意されていた。つまり猪木がドリーに勝てば、「猪木vs馬場」という日本プロレスを背負うトップ同士の対決が実現していたのだ。

 結果はドローで「猪木vs馬場」は幻に終わり、NWA認定世界ヘビー級選手権として馬場がドリーに挑戦することになった。同じ60分3本勝負で、1本目は馬場が、2本目はドリーが取り、3本目は時間切れの引き分けとなった。

 ドリーと1本ずつ取り合った馬場に対し、世界王者に「負けなかった」猪木の試合は、内容でも後世に語り継がれるものだった。猪木は「馬場さんはライバルじゃなかった」と公言するが、同じ日にデビューした馬場の存在は、猪木のレスラーとしての原点でもある。さらに新日本を旗揚げしてからの馬場の全日本との興行戦争など、プロレス人生で大きな影響を受けたことは間違いない。

 2人の直接対決はついに実現せず、馬場が1999年1月に逝去。このドリー戦が"代理戦争"としてファンの記憶に刻まれることになった。(敬称略)

(後編につづく)