MotoGP最速ライダーの軌跡 日本人ライダー編(1) 加藤大治郎 世界中のファンを感動と興奮の渦に巻き込んできた二輪ロードレース界。この連載では、MotoGP歴代チャンピオンや印象深い21世紀の名ライダーの足跡を当時のエピソードを交えなが…

MotoGP最速ライダーの軌跡 
日本人ライダー編(1) 加藤大治郎 

世界中のファンを感動と興奮の渦に巻き込んできた二輪ロードレース界。この連載では、MotoGP歴代チャンピオンや印象深い21世紀の名ライダーの足跡を当時のエピソードを交えながら振り返っていく。
日本人ライダー1人目は、加藤大治郎。世界最高峰の舞台での活躍を確実視されながら、26歳の若さで旅立った天才の歩みをたどる。 



2002年チェコGPにて。加藤大治郎は2位表彰台を獲得

「去る者は日々に疎(うと)し」という言葉がある。しかし、その生きた証が年月の経過に関わりなく決して色あせない人々がごく稀にいる。

 加藤大治郎という人物は間違いなく、そのひとりだ。

 あれから17年以上の時間が経過したことが、にわかには信じがたい気もする。もう17年、といえばいいのか。あるいは、まだ17年、という方が妥当なのか。

 そのあたりは個々人の時間感覚によってさまざまだろう。だがいずれにせよ、ひとつ確かなことは、加藤の現役時代を知らない世代の選手たちがいま続々と成長し、活躍し始めていることだ。その中で、とりわけ日本人選手たちに共通しているのは、加藤が活躍した時代を知らない若いライダーたちも、彼らの先輩たちと同様に、いまだ見ぬ加藤の背中を追い続けることをおそらくは運命づけられている、ということだ。そしてその影を乗り越えられたときに、彼らはきっと世界のトップライダーとして屹立(きつりつ)することになるのだろう。

 今回に限っては、やや私的なことに少しだけ言及をさせてもらう。

 いままでほとんど他言したことはないが、実は自分がMotoGPを追いかけて世界中を転戦取材し始めたのは、日本人が世界最高峰クラスのチャンピオンを獲得する歴史的な瞬間を目撃しなければならない、と考えたことが大きな理由のひとつだった。 



2002年チェコGPの加藤

 当時の二輪ロードレースをご存じの方々なら、きっと首肯いただけるだろう。

 彼がMotoGPの世界チャンピオンになること、あるいは少なくともタイトル争いを繰り広げることは、1990年代後半の全日本ロードレースや鈴鹿8耐での活躍、そしてワイルドカード参戦した鈴鹿の日本GP250ccクラスであっさり優勝してしまう姿を目の当たりにすると、「まだ達成されていないにすぎない事実」といった程度に確実なことであるように見えた。

 実際に、250ccクラスへフル参戦を開始した2000年から、加藤は当然のように毎戦優勝争いに加わった。翌01年には、1993年の250ccクラス王者、原田哲也と激戦を繰り広げ、16戦中11勝を挙げてチャンピオンを獲得した。最高峰クラスを戦うオートバイの技術規則が、2ストローク500ccから4ストローク990ccへ変更になった2002年にステップアップ。この年は大きなルール変更の過渡期ということもあって、2スト500ccと4スト990ccが混走するシーズンになった。

 加藤は500ccのホンダNSR500で、最初の最高峰シーズンに臨んだ。

 開幕戦の日本GP鈴鹿決勝レースは雨になった。難しいコンディションの中、当時ホンダファクトリーのバレンティーノ・ロッシがRC211Vで優勝を飾り、MotoGPマシン勢が圧倒的な強さを見せた。500cc勢の最上位は、ヤマハYZR500を駆る阿部典史の5位。

 阿部は、加藤とはまた違ったタイプの天才型ライダーで、これについても異論のある人はいないだろう。1990年代には瞠目(どうもく)するような走りを何度も見せ、ロッシが憧れてサインを求めた唯一のライダーとしても知られている。さらに余談ついでにいえば、幼馴染みの加藤と阿部がMotoGPパドックの隅で語らう姿は、緊張の糸が張り詰める世界選手権の場でそこだけが何やらほのぼのとして、穏やかな日だまりのような雰囲気も漂っていた。その阿部も今はいない。

 2002年シーズンに話を戻すと、第2戦の南アフリカGPではロッシのチームメイトだった宇川徹が優勝。ロッシが2位。ここでも、ホンダの4ストローク990ccマシンRC211Vが圧倒的な強さを見せた。第3戦からは舞台を欧州へ移し、本格的なヨーロッパラウンドが始まった。欧州緒戦は恒例のスペインGP、アンダルシア地方のヘレスサーキットだ。

 このレースで、加藤は2位に入った。ヘレスはコースレイアウト的に長い直線がなく、短めのストレートを高中低速コーナーがつなぐ構成のサーキットだ。2ストロークNSR500の加藤はブレーキングとコーナーで詰めてなんとか食いつこうとするが、RC211V勢はコーナー立ち上がりからの加速で無残なくらいにあっさりと引き離していく。

 そうした状況でも、加藤は宇川のRC211Vを追い詰めてゆき、最後はロッシまで1.190秒差の2位でゴールした。表彰台に登壇した加藤も溌剌(はつらつ)としていたが、表彰台下でそれを祝福するチームスタッフのうれしそうな表情が何よりも印象的だった。

 その後のレースは、ロッシとRC211Vが快進撃を続け、加藤は苦しい戦いが続いた。状況が変わったのは、約1カ月のサマーブレイク後にシーズンが再開した8月末の第10戦チェコGPだ。このレースから、加藤にもRC211Vが支給されることになった。

 RC211Vに初めてまたがったにも関わらず、加藤はこのレースで2位に入った。その順応性の高さゆえに、パドックでは「どこかでこっそりテストをしていたに違いない」と、陰謀論めいた憶測も一部で流れた。だが、そのような邪推すら、むしろ彼の卓越した才能を逆に示す例証だったといっていいだろう。

 ツインリンクもてぎで行なわれた秋のパシフィックGPでは、ポールポジションを獲得。決勝にも大きな期待が集まったが、クラッチに不具合が生じてリタイア。8周目の90度コーナーでスローダウンしたときには、実況放送が大声で叫び、観客席から大きなため息がどよめいた。

 MotoGPのデビューシーズンは結局、ランキング7位で終えた。

 翌03年の開幕直前に加藤の姿をみたとき、小柄な体格の首回りは一層太くなっていた。また、胸板も厚みを増していることが、着衣越しにも見てとれた。加藤のマネージャーは、「MotoGPマシンを意のままに扱えるよう冬の間に徹底的なトレーニングを重ねてきた成果だ」と話した。

 その数日後に行なわれた開幕戦鈴鹿で、アクシデントが発生した。

 次戦の南アでは、チームメイトのセテ・ジベルナウが劇的な優勝を飾った。ウィニングランでジベルナウは、天を仰いで指差した。

 第3戦のスペインGP、ヘレスサーキットは、前年のレースで加藤が非力なNSR500を駆って2位に入った場所だ。このレースウィークでは、最終コーナーに近い観客席で、加藤のバイクナンバー74を大書した手製のフラッグを高く掲げる数人のファンの姿があった。土曜の予選終了後に、その旗のもとへ行ってファンたちを探し、話を聞いた。マラガからやってきたと話す若者たちは、「こうすることで自分たちの気持ちを表したいのだ」と語った。

 第4戦フランスGPから、加藤の後輩にあたる清成龍一が、加藤の代わりに参戦することになった。加藤のチームメイトだったジベルナウは、ロッシとシーズン終盤までタイトル争いを繰り広げ、年間ランキングを2位で終えた。ロッシは数年後に刊行した自叙伝で、一章を割いて加藤について記した。

 彼の足跡を記した映像記録は、DVDとして数点のパッケージが発売された。MotoGPの公式サイトでは、彼の戦いぶりを今もオンラインで視聴できる。書籍としては、写真集が一冊、そして、ジャーナリストの富樫ヨーコ・佐藤洋美両氏の手による、国内外の関係者や選手たちの証言を集成した労作の記録集が一冊、刊行された。

 おそらくは確実に達成したであろう偉業を成し遂げないまま、26歳という若さで逝った小さな「巨人」は、その没後もいまに至るまで、世界の二輪ロードレース界に大きな影響を与え続けている。例えば、あれから17年が経過した2020年の現在、Moto3クラスでランキング首位につけている19歳の小椋藍のレザースーツには、右肩に74番のロゴが貼りこまれている。

 スポーツ史に大きな足跡を残す人物の記録として、彼の評伝はいつ書かれても決して遅すぎることはないだろう。いつの日か、加藤大治郎という人物の姿とその後世への大きな影響が、世界のどこかにいる優れた書き手によって活字の形で残されることを望みたい。

【profile】 
加藤 大治郎 Kato Daijiro 
1976年、埼玉県生まれ。2000年にロードレース世界選手権250ccクラスへフル参戦し、翌01年にシリーズチャンピオンを獲得。02年より最高峰のMotoGPクラスへステップアップした。03年、第1戦鈴鹿GPレース中の事故により亡くなった。享年26歳。