新型コロナウイルス感染拡大によるツアー中断はどの選手にも大きなショックを与えたはずだが、日比野菜緒は事態をとりわけ重く受け止めた選手だろう。【実際の動画】嬉しい!全仏OP初勝利!日比野菜緒 v…

新型コロナウイルス感染拡大によるツアー中断はどの選手にも大きなショックを与えたはずだが、日比野菜緒は事態をとりわけ重く受け止めた選手だろう。【実際の動画】嬉しい!全仏OP初勝利!日比野菜緒 vs コスチュク/全仏OP女子1回戦

「目標を失ってしまったので、何のために練習をしているんだろう? 試合をしないテニスプレーヤーの価値ってあるんだろうか? と考えたりもしました」

日比野が当時の困惑を振り返った。幸い、所属クラブのテニスラボ(竹内庭球研究所)では、コーチたちの尽力で練習環境は確保できていた。「コーチたちが選手一人一人を車でピックアップして、電車に乗らなくていいようにしてくれるなど、態勢作りをして練習環境を整えてくれました」と日比野。しかし、気になることもあった。普段利用している施設とは別にコートを借りるため、経費がかさむ。通常の受講料だけでクラブはやっていけるのか。

「何かできることはないかなと考えていました。SNSやYouTubeを活用している選手が多かったので、私もそれを使ってお金稼ぎみたいなことをしたほうがいいのかな、と思う時期もありました」

竹内映二コーチに相談すると、気持ちはうれしいが、クラブの運営資金より日本のテニス界のために何かしてほしい、という返答だった。加藤未唯など同じクラブの仲間と話し、出来上がったのが、テニス再開に向けたガイドラインを動画にまとめた「STAY SAFE,PLAY TENNIS」だ。ソーシャルディスタンシングや手洗いの励行など、感染予防をしながらテニスを再開しようという、現役選手たちからの異例のメッセージはYouTubeで公開された。

さらに、自分にできることはないかという日比野の思いが周囲を動かし、エキシビションマッチ「BEAT COVID-19オープン」の開催につながった。当面の目標ができたこと、そして、周囲に同じ思いを持つ仲間がいたことで、モチベーションも戻ってきた。7月初頭に開催された大会には、日比野、加藤をはじめダニエル太郎、伊藤竜馬といった選手も参戦。感染予防策を十分練り上げ、コロナ下でのテニス大会開催のモデルケースとしても注目された。

ただ、この時点で日比野は、8月に再開されると聞かされたツアーに参戦したものかどうか迷っていた。「アメリカの状況を見ても、世界を転戦するのはちょっと早いんじゃないか」と不安が消えなかったのだ。それでも、「いつでも試合ができるように」準備は怠らなかった。

8月の全米は1回戦でガルビネ・ムグルッサ(スペイン)に惜敗。出足はよかったが、実力者のムグルッサが調子を上げると、次第に付いていけなくなった。しかし、全仏前哨戦のフランス・ストラスブールではスローン・スティーブンス(アメリカ)、エレナ・オスタペンコ(ラトビア)と、四大大会の優勝経験者を二人も倒し、クレーコート初の4強入りを果たした。

好結果に後押しされ、「以前よりは、クレーコートでも落ち着いて自信を持ってやれている」と全仏に乗り込んだ。

1回戦の相手は、予選を勝ち上がったマルタ・コスチュク(ウクライナ)。世界が注目する18歳、先の全米でも、優勝した大坂なおみが最も苦戦した相手の一人だ。強打のコスチュクは攻撃的だったが、日比野も終始、積極的に戦った。本人がキーになった場面として挙げたのは、3-1からの相手サービスゲーム、ブレークポイントでの自身のリターンミスだ。

「今までの私だったら、ビッグポイントを落として落ち込んでいたと思います。それでも、ほんの少しのミスだったし、自分が積極的に行ったから大丈夫と思えたところで(自分の)成長を感じたというか、イライラすることもなくできたのがよかったと思います」

良い悪いで言えば、確かにこれは「いいミス」だった。精神的に崩れなかったのは、冷静にミスの中味を認識したからだ。立ち上がりが悪かったコスチュクも、このゲームあたりからギアが1段上がった。しかし、日比野はそれを受け止め、押し返した。会心の勝利で全仏初白星を手に入れた。

ストラスブールから続く好調さについて、日比野は少しはにかみながら、コロナ禍を経て「自己肯定感が高くなった」ことを理由に挙げた。「環境とか周りの人とかに感謝できるようになったのが大きい。好きなことを仕事にできているありがたさとか、当たり前だったことが当たり前じゃないことに気づけた」というのだ。

練習環境を整えてくれるコーチたち、大会を運営するスタッフへの感謝の気持ちが強くなった。勝利至上主義が支配するツアーのギスギスした感じは好きになれなかったが、パンデミックのトンネルを抜けると「今までと全然違った景色が見えていた」という。

「テニスができること、ツアーにいられること、大会に出られること、すべてに感謝できているのが、プレーにも試合中の精神的な安定にもつながっているのかなと思っています」

ツアーの中断が、改めて周囲を見回す時間と自己省察の機会を与えてくれた。だから日比野は、行く先が見えなくなって困惑したあの頃を、こう振り返るのだ。

「いい時間だったなと思います」

(秋山英宏)

※写真は「全仏オープン」での日比野

(Photo by Julian Finney/Getty Images)