>MotoGP最速ライダーの軌跡(8) アンドレア・ドヴィツィオーゾ世界中のファンを感動と興奮の渦に巻き込んできた二輪ロードレース界。この連載では、MotoGP歴代チャンピオンや印象深い21世紀の名ライダーの足跡を当時のエピソードを交えなが…

MotoGP最速ライダーの軌跡(8) 
アンドレア・ドヴィツィオーゾ

世界中のファンを感動と興奮の渦に巻き込んできた二輪ロードレース界。この連載では、MotoGP歴代チャンピオンや印象深い21世紀の名ライダーの足跡を当時のエピソードを交えながら振り返っていく。
8人目は、アンドレア・ドヴィツィオーゾ。卓越したランディング技術と高い分析能力に定評がある彼の軌跡をたどる。 



2019年カタールGPで優勝したアンドレア・ドヴィツィオーゾ(中央)

 いぶし銀、という日本語の表現がじつによく似合う人である。

 そんな彼の魅力が存分に発揮されるようになったのは、現在の所属先であるドゥカティファクトリーチームに移籍をし、数年間の模索期間を経て好成績を収めるようになった2016、17年あたりからだろう。

 それまでの時期、アンドレア・ドヴィツィオーゾという選手はMotoGPの世界で主役の椅子に座る選手ではなかった。彼に対する一般的な印象は、いわゆる「地味」なライダーという言葉で語られることが、どちらかといえば多かったかもしれない。目立たないとか生彩を欠くわけではないが、強烈な個性を持つ選手が多いMotoGPの世界で、誰にもわかりやすい魅力を全身でアピールするようなタイプの選手たちと並べば、どうしてもおとなしげな印象を持たれがちだった感は否めない。

 だが、それは決して、他を圧するような抽(ぬき)んでた特徴がないということを意味するわけではない。たとえば、長年にわたって磨きをかけてきたブレーキングテクニックは、誰もが認める卓越した技術の持ち主である。また、自分自身やライバル選手、そしてマシンの挙動などに関するきわめて冷静な観察眼と鋭敏な分析能力にも定評がある。なにより、それらの事象について、論理立てて平明かつ明快な言葉で説明できる地頭のよさは、この選手のもっとも優れた特質のひとつといっていい。

 とはいえ、これらの秀でた能力は華やかさとは縁遠いことがらばかりだ。だからこそ、ドヴィツィオーゾは、笑顔や立ち居振る舞いが広く世の中の皆に愛される華やかな人気者としてのポジションではなく、むしろ、その走りや技術が目の肥えた玄人受けする渋い持ち味の選手という立ち位置を確保しているのだろう。それはまた、そんな彼の能力が熟成していぶし銀の魅力を放つようになるまでには、それなりに長い年月が必要だった、ということなのかもしれない。

 1986年生まれのドヴィツィオーゾがグランプリの125ccクラスにフル参戦デビューしたのは2002年、16歳のときだ。デビュー翌年から頭角を現しはじめ、同世代のケーシー・ストーナー、ホルヘ・ロレンソ、ダニ・ペドロサたちと表彰台を争って04年に125ccクラス王者となった。05年から07年まで250ccクラスを戦い、08年に最高峰のMotoGPへ昇格を果たした。

 ちなみに、02年のグランプリデビューから08年の最高峰クラス初年度まで、ドヴィツィオーゾはずっと同じチームに所属している。イタリアのホンダ系有力チームで、チームと選手はともに成長しながらクラスを上げるステップアップを果たしてきた。

 この125ccから250cc時代を通じて、ドヴィツィオーゾは常に34番のバイクナンバーを使用していた。いうまでもなく、これはケビン・シュワンツが現役時代に使用した番号だ。ブレーキングの鋭さで他の追随を許さないシュワンツに憧れた少年は、自分自身の走りをヒーローに投影させながら、ライディング技術を研ぎ澄ませていった。MotoGPクラスへ昇格するにあたり、シュワンツの34番は永久欠番となっていることから、ドヴィツィオーゾはひとケタ目の番号4番のみを残して自らのバイクナンバーとした。

 最高峰昇格初年度は、シーズン終盤のマレーシアGPで3位表彰台を獲得し、年間総合5位。翌09年にはファクトリーのレプソル・ホンダ・チームへ抜擢された。当時のチームメイトはダニ・ペドロサで、イタリア人とスペイン人の、ともにホンダ生え抜きライダーによるチーム体制になった。11年には、ドゥカティから移籍してきたケーシー・ストーナーがそこに加わり、3名のファクトリーライダーというやや珍しいチーム構成になった。

 このホンダファクトリー時代のドヴィツィオーゾは、ペドロサやストーナーに比べると、ホンダからの評価はやや低かったようにも見えた。決して冷遇されていたわけではない。しかし、優勝の実績はウェットコンディションを巧みに乗り切った09年イギリスGPの1回のみ。2位や3位は何度か獲得しているものの、当たり前のようにトップ争いを続けるペドロサやストーナーと比較すると、ドヴィツィオーゾはやや慎重に過ぎる印象を内部からも持たれていたのではないか。

 実際に、この時期のドヴィツィオーゾに単独インタビューを行なった際の印象をいえば、どちらかといえば無難で優等生的な受け答えに終始していた感がある。後年の彼に特徴的な鋭い観察眼や分析的な批評的言辞として結実するほど、彼の性質はまだ熟成していなかったということなのだろう。この頃の彼の特徴はむしろ、神経質な性格という現れ方をすることが多かったようにも思える。

 12年にはヤマハサテライトチームへ移籍し、13年にドゥカティへ移った。バレンティーノ・ロッシが去った後のドゥカティは、いわば自分たちのアイデンティティをもう一度立て直さなければならない状況に追い込まれていた。ドヴィツィオーゾの加入に加え、この年の秋からジジ・ダッリーニャという狡智(こうち)に長けた技術者をアプリリアから招へいして技術部門のトップに据えたことにより、ドゥカティは自分たちの新たな「核」を得ることになった。

 また、この時期のMotoGPは、共通ECU(Electronic Control Unit:電子制御システム)の導入を巡ってマシンの技術仕様が大きく揺れ動いていた時期でもある。ダッリーニャはそのルールの仕組みを巧みに利用し、ファクトリーチームでありながらファクトリー扱いされない規則が適用される方法を採用することで、マシン開発を有利に進めていった。

 ドヴィツィオーゾが、明快かつ分析的でありながら含蓄のある言葉を発するようになったのも、この時期からだ。ドゥカティのバイク作りは独特で、エンジンには吸排気バルブを機械式操作で強制開閉する「デスモドロミック機構」を一貫して採用している。「デスモセディチ」というドゥカティのマシン名はこの機構が由来になっているが、その名前に引っかけて、ドヴィツィオーゾはいつしか「DesmoDovi(デスモドビ)」という韻を踏んだ愛称で呼ばれるようにもなった。

 ダッリーニャの陣頭指揮のもとで着々と力をつけ始めたドゥカティは、やがて、かつて以上の強さを発揮して強豪ファクトリーの地位を取り戻した。ドヴィツィオーゾは16年のマレーシアGPで、09年のホンダ時代以来の優勝を達成。翌年以降は、ドゥカティの熟成とも相まって、毎レース熾烈(しれつ)な優勝争いを繰り広げるトップライダーとしての地位を確立する。17年から19年までの3シーズンは、いずれもランキング2位で終えている。 



2019年カタールGPのアンドレア・ドヴィツィオーゾ(左)

 これらのシーズンでチャンピオンのマルケスを相手に、一騎打ちのバトルを繰り広げて彼を押さえ込み、複数回の勝利を挙げているのはドヴィツィオーゾだけだ。17年のオーストリアGPは0.176秒、日本GPでは0.249秒、18年のカタールGPで0.027秒、19年のカタールGPも0.023秒、そしてこの年のオーストリアGPでも0.213秒、といずれもマルケスとの直接対決をごく僅差で制している。

 一方で、ドヴィツィオーゾは常に、自分たちの抱える問題に対して沈着冷静な指摘も続けてきた。強力な動力性能という武器を持つ反面、旋回性の悪さは積年の改善課題で、ドヴィツィオーゾはそれを「ドゥカティのDNA」と表現した。また、この欠点が浮き彫りになって結果を出せないレースウィークには、「これがぼくたちのリアリティ(等身大の姿)なんだ」と言い表すことも多くなった。

 これは、彼らが強さを発揮し始めたことに対する裏腹な表現、ともいえるだろう。そのような見方に対して「あなたは少々悲観的ではないのか?」と訊ねられたこともあったが、その際には「ぼくはペシミストじゃない、リアリストなんだ」と返した。これもまた、いかにもドヴィツィオーゾらしい言葉づかいだ。

 とはいえ、ドゥカティを現在の地位へ押し上げた最大の功労者のひとりがドヴィツィオーゾであることは間違いない。だからこそ、おそらく彼はこのままドゥカティでライダー人生を全うするのだろうと思われた。だが、両者の関係は必ずしもうまくいっていたわけではなかったようだ。

 21年以降の契約更改を巡り、さまざまな駆け引きと交渉の後、今年8月中旬に「来季はドゥカティの契約を更新しない」と発表して世の中を驚かせた。だが、いまドゥカティを離れたところで、来シーズンのシートはすでにほとんど埋まっている。どこかに新たな行き場のめどがあるわけではないのだ。

 それだけに、発表当日や翌日は契約を更新しない理由についてさまざまな質問が飛んだ。だが、手をかえ品をかえ訊ねられても、「今はまだ話す時期じゃない」と述べるのみだった。

 今シーズンのドヴィツィオーゾは、レザースーツの腰の部分に「Undaunted(不撓不屈)」というキャッチフレーズを貼り込んでいた。それが、第8戦のエミリアロマーニャGPでは「Unemployed(失業中)」という文字に変わった。ふたつの英単語を比較すればわかるとおり、ある意味、自虐的な駄洒落である。

 潜在的失業者という立場を自ら選んだドヴィツィオーゾは、しかし、20年シーズン第8戦を終えた現在、ランキング首位に立っている。

【profile】 
アンドレア・ドヴィツィオーゾ Andrea Dovizioso 
1986年、イタリア・フォリンポポリ出身。16歳でロードレース世界選手権125ccクラスにフル参戦。2005〜07年を250ccクラスで過ごし、08年にMotoGPクラスにステップアップした。13年に移籍したドゥカティで現在まで戦っているが、20年8月に翌年以降の契約更改をしないことを発表。今後の動向に注目が集まっている。