MotoGP最速ライダーの軌跡(7) マルコ・シモンチェリ 世界中のファンを感動と興奮の渦に巻き込んできた二輪ロードレース界。この連載では、MotoGP歴代チャンピオンや印象深い21世紀の名ライダーの足跡を当時のエピソードを交えながら振り返…

MotoGP最速ライダーの軌跡(7) 
マルコ・シモンチェリ 

世界中のファンを感動と興奮の渦に巻き込んできた二輪ロードレース界。この連載では、MotoGP歴代チャンピオンや印象深い21世紀の名ライダーの足跡を当時のエピソードを交えながら振り返っていく。 7人目は、マルコ・シモンチェリ。大胆なライディングとトレードマークの金髪アフロスタイルで異彩を放っていた彼の生涯を回顧する。 



2011年、MotoGPチェコGPで初表彰台を獲得したマルコ・シモンチェリ

 たしか、2010年か11年のどちらかだったと思う。イタリアのリミニ近郊をレンタカーで走っていると、つけっぱなしにしていたカーラジオからいきなりマルコ・シモンチェリの声が飛び出してきたことがあった。

 詳細は忘れてしまったが、なにかのCMだったように記憶している。ひと声聞いただけですぐにわかるあの陽気な口調で、彼の大柄な体がいまにもラジオのスピーカーから飛び出してきそうだった。もうすっかり世の中の人気者なのだな、と感じたと同時に、この国のMotoGP人気の高さをあらためて痛感する出来事だった。

 二輪ロードレース大国のイタリアは、過去から現在に至るまで数々のチャンピオンや名選手を輩出してきた。そのムーブメントは、バレンティーノ・ロッシで頂点に達したといっていい。2010年代に入り、そこに新たに加わってきた選手がシモンチェリだった。

 キャラ立ちという面だけでいえば、彼は当時のMotoGPでもっとも目立つ選手のひとりだった。トレードマークは大柄な体格と長い手足。物議を醸すことをいとわない率直過ぎる発言も、メディアに数々の話題を提供した。そしてなによりも、モフモフとしたアフロスタイルの金髪で、一際目立つ個性と存在感を放っていた。

 1987年生まれのシモンチェリがグランプリにフル参戦を開始したのは03年、16歳のときだ。125ccのバイクが窮屈に見えるほど、当時からすでに大きな体躯(たいく)が目立つ選手だった。ただ、この時代の彼はまだ垢抜けない朴訥(ぼくとつ)な風貌で、成績そのものよりも、荒っぽいライディングによる他選手との接触行為が話題になることのほうがむしろ多かった。

 才能が開花し始めたのは、250ccクラスに昇格してからのことだ。なかでも中排気量2年目の07年は、短かった髪を伸ばし、アフロスタイルにしたことで一気に注目が集まった。当時、MotoGPクラスのヤマハファクトリーチームに在籍していたコーリン・エドワーズが、「おまえ、いったいどうやってその髪の毛をヘルメットの中に収めているんだよ」と笑いながら訊ねたことがある。この時代のシモンチェリは、奇抜なヘアスタイルとファッションでパドックの注目を集める存在になっていた。

 余談になるが、彼のアフロスタイルはパーマではなく、あくまでも地毛である。癖の強い天然の巻き毛を伸ばし放題に放置しておくと、耳かきの梵天(ぼんてん)のようなあの独特のヘアスタイルになるということのようだ。

 シモンチェリの髪型にまつわるエピソードといえば、彼を目にかけて可愛がっていた同郷の先輩ロッシがこんな発言をしたことがあった。ロッシとシモンチェリがともに王座を獲得した、08年末のことだ。

 「シッチも(250ccクラスの)チャンピオンを獲ったんだから、そろそろあのむさくるしい髪をなんとかしたほうがいいよね」

 すると、シモンチェリはこう返した。

「バレは、おいらの豊かな髪が妬ましいのさ。彼はこれから髪が薄くなっていく一方だろうから、きっとそんなことをいうんだよ。かわいそうだとは思うけど、髪は切らないからね」

 憎まれ口のようにも聞こえるが、だからこそ、彼らの親密で打ち解けた関係がなおさら感じ取れるエピソードだ。

 250ccクラスを制覇した翌年、誰もがMotoGPへステップアップすると思っていた。だが、本人は同クラスへの残留を選んだ。2ストローク250cc最後のシーズン(注:10年から中排気量クラスは4ストローク600ccのMoto2になることが決定していた)である09年にクラスを連覇して最高峰へ昇格するというプランを立てたのだ。

 このシーズンは青山博一と激しいチャンピオン争いを続けたが、最終的に青山が凌ぎ切ってタイトルを獲得。シモンチェリは連覇を逃した。そして、翌10年にシモンチェリと青山は、ともにホンダ陣営から最高峰クラスへステップアップを果たした。 



2011年チェコGPのシモンチェリ

 MotoGPへ昇格すると、シモンチェリは本格的に存在感を発揮し始めた。初年度の10年はベストリザルトが4位(第17戦ポルトガルGP)で、年間ランキングは総合8位。表彰台こそ獲得しなかったが、何度もシングルフィニッシュを果たし、バイクナンバーの58を見れば誰もがすぐにあの風貌を想起するほど、強い印象を残すライダーになっていた。

 ちなみに58というバイクナンバーは、グランプリに昇格する前年の02年に欧州選手権でチャンピオンを獲った際に使用していたものだ。それ以来、彼は終生、この番号をラッキーナンバーとして愛用し続けた。

 最高峰2年目の11年は、前シーズンの経験を生かして、飛躍を狙ったシーズンだった。開幕戦のカタールGPは5位。相性のよいポルトガルはこのシーズンの第3戦で、フロントロー2番グリッドを獲得した。第4戦フランスGPでは、決勝レースで2位を争っていたさなかにダニ・ペドロサと接触し、ペドロサが転倒して鎖骨を骨折するアクシデントが発生した。レース後にシモンチェリは「転倒の原因になったオーバーテイクは、無茶な行為ではなく、あくまでフェアな勝負だった」という旨の発言をしたが、これがペドロサ応援団をはじめとする多くのスペイン人レースファンを刺激し、大きな反発を受けることになった。

 次戦はペドロサの実家に近いカタルーニャGPで、自分たちのヒーローが地元レースの欠場を強いられたことに腹を立てた一部のファンは、シモンチェリに対して脅迫行為を行なうような事態にも発展した。

 この時のカタルーニャGPは、偶然ながらバルセロナ空港でシモンチェリとばったり遭遇するというできごとがあった。

 空港のレンタカー会社で車を借りた際に、駐車場でたまたま隣の車をピックアップしにきたのがシモンチェリだった。彼の傍らには、見慣れない男性が2人いた。シモンチェリは少し照れたような笑みを浮かべ、「ボディガードなんだよ」と弁解するような口調で言った。

 一部の心ないファンからの脅迫行為には、シモンチェリ自身も臨時警護を雇うほどの危機感を抱いていたということだ。レースウィークを通じて、ロッシらさまざまな選手やレース関係者が、ファンに対して冷静な行動を広く呼びかけたことも奏効したのか、実際には大事に至るようなことはなかった。

 とはいえ、サーキットでのシモンチェリに対する観客のブーイングはすさまじかった。走行でピットアウトするたびにグランドスタンドから一斉に大きなブーイングが沸き起こり、コースから戻ってきてピットインすると、またもやブーイングの大合唱になる。観客たちのそんな反応が返ってシモンチェリの闘志に火をつけたのか、土曜の予選ではMotoGP初のポールポジションを獲得。一部のアンチファンにとっては、むしろ逆効果になってしまった。

 その後、第7戦オランダGPでもポールポジションを獲得。初表彰台は、夏休みが明けた8月の第11戦チェコGPの3位だった。その後のレースでは4位フィニッシュが続き、シーズン終盤の第16戦オーストラリアGPでは2位に入った。レースごとにどんどん調子を上げてくる彼は、遠からず優勝争いにも食い込んでくるだろうーー。そんな期待が高まりつつあるさなか、第17戦マレーシアGPの決勝レースで、シモンチェリはアクシデントにより逝去した。赤旗中断の後、レースは再開せず、キャンセルになった。

 享年24。あまりに早逝が過ぎる。

 2週間後の最終戦バレンシアGPは、シモンチェリを追悼する大会になった。決勝レースの日曜朝には、1993年の世界王者ケビン・シュワンツがシモンチェリのバイクに乗って先導し、全クラス全選手がコース上をパレードする追悼ラップが行なわれた。コース周回を終えてストレートへ戻ってきた選手たちは、1分間にわたりスロットルを全開にしてエンジン音をとどろかせる「黙祷」をした。

 また、シモンチェリが生まれ育った地から指呼(しこ)の距離にあるイタリアのミザノワールドサーキットは、彼の名を追贈して正式名称をミザノワールドサーキット・マルコ・シモンチェリに改称すると発表した。さらに、彼のバイクナンバー58も、その栄誉を称えて永久欠番とすることが決定された。

 そして、13年に父のパオロ・シモンチェリが次世代のライダーを育成すべく、息子の遺志を継承するチーム、「SIC58 Squadra Corse」を発足させた。チームはイタリアの国内選手権からスタートし、15年には欧州をカバーするFIM CEV Moto3ジュニアワールドチャンピオンシップへと戦いの舞台を移した。17年からはいよいよMotoGPのMoto3クラスへ参戦。草の根レベルから地道に作り上げてきたこのチームが世界選手権へ挑戦する際して、パオロ・シモンチェリは日本人選手の鈴木竜生を起用した。  鈴木もチームとともに成長を続けた。

 19年の第13戦、ミザノワールドサーキット・マルコ・シモンチェリで行なわれたサンマリノGPで、鈴木はポールポジションからスタートして優勝。自身の記念すべきクラス初勝利を、文字どおりチームの地元であり、しかもシモンチェリの名を冠したコースで達成した。

 それから一年が経ち、今はまさに時あたかも、ミザノで20年のMotoGP2連戦が行われている真っ最中である。2連戦1週目のサンマリノGPでは、鈴木は最後まで熾烈な優勝争いを続け、優勝から0.232秒の僅差で3位表彰台を獲得した。今週末は同地で2連戦2戦目が、エミリアロマーニャGPと名を変えて開催される。そこで、我々は新たな歴史が刻まれる瞬間にふたたび立ち会えるだろうか。

【profile】 
マルコ・シモンチェリ Marco Simoncelli 
1987年1月20日、イタリア・カットーリカ出身。16歳でロードレース世界選手権125ccクラスに参戦し、2006年に250ccクラスに昇格、08年には年間王者を獲得。10年にMotoGPクラスにステップアップし、存在感を見せ始めていたが、11年マレーシアGP決勝レースで事故に見舞われ死亡した。享年24歳。