MotoGP最速ライダーの軌跡(6) ダニ・ペドロサ 下 世界中のファンを感動と興奮の渦に巻き込んできた二輪ロードレース界。この連載では、MotoGP歴代チャンピオンや印象深い21世紀の名ライダーの足跡を当時のエピソードを交えながら振り返っ…

MotoGP最速ライダーの軌跡(6) 
ダニ・ペドロサ 下 

世界中のファンを感動と興奮の渦に巻き込んできた二輪ロードレース界。この連載では、MotoGP歴代チャンピオンや印象深い21世紀の名ライダーの足跡を当時のエピソードを交えながら振り返っていく。 6人目は、ダニ・ペドロサ。非凡な才能と誠実なキャラクターでファンを魅了したペドロサの歩みをたどっていく。 

 ダニ・ペドロサがMotoGPへステップアップした2年後、2008年にホルヘ・ロレンソも参戦してきた。ペドロサは1985年9月生まれだが、ロレンソは87年5月、と1年半ほど若い。年齢差の分だけ、ロレンソはいつもペドロサの背中を追うような格好でレースキャリアを歩んできた。 

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2018年、会見で引退を表明したダニ・ペドロサ

「スペインの地方選手権時代は、いつもみながダニのことを話題にしていた」と、ロレンソは後年になって少年時代を振り返っている。それだけに、幼い頃からかなり強烈なライバル意識をペドロサに対して抱いていたようだ。

 グランプリの世界では02年と03年に125cc時代をともに過ごしたが、その後ペドロサが04年と05年に250ccクラスを制覇して最高峰へ去ると、06年と07年の250ccクラスはロレンソが連覇した。ロレンソがペドロサを追いかける形でMotoGPへやってきた08年は、二人のライバル関係が頂点に達していた。

 ペドロサは小排気量時代から生粋のホンダ育ち、かたやロレンソはヤマハの次世代を担う選手である。この時の二人は、あらゆる面、すべての要素で対立していたといってもいい。そんな彼らの緊張関係は、ファンの間でも広く知られていた。

 それを象徴するのが、この08年シーズンの第2戦スペインGPだ。

 当時のスペイン国王、フアン・カルロス1世の展覧レースとなったこの大会では、ロレンソがポールポジションを獲得したが、決勝はペドロサが優勝。ロレンソは3位で終えた。国王は表彰式にも来臨したが、その際、自分の両手で二人の右手をそれぞれつかんで握手をさせるというひと幕があった。ペドロサとロレンソはともに手を開かず、握りこぶしの関節が触れ合うぎこちない握手だったが、国王が媒介したこの"仲直り"は、翌朝のスペイン日刊紙がいずれも一面で大きな写真を掲載した。

 この強烈な敵対関係は、数年後に健全な好敵手同士へと、よい意味での変化を遂げる。12年にこの変化を問われた際、ロレンソは以下のように答えている。

「03年、僕たちは敵同士だった。05年にはもっと対立した。08年には、さらに激しい対立関係になった。今はレース後に健闘を称えて抱擁し合える関係だ。数年後には、結婚しているかもね」

 ペドロサも、それを補足するように当時の心境を説明している。

「当時はお互い子供で、自分が勝つことだけにこだわりすぎていた。勝利が重要なのは現在でも同じだけど、今はいろんなことがわかるようになって成熟したのだと思う」

 この12年に、ロレンソは2回目のMotoGPチャンピオンを獲得するが、最も熾烈(しれつ)なタイトル争いを演じたのがペドロサだ。一年を終えた総獲得ポイントは、ロレンソが350に対して、ペドロサはわずか12ポイント差の332。優勝回数で見ると、チャンピオンのロレンソは6勝だが、ペドロサはロレンソよりも1勝多い7戦で勝利を収めた。これらの数字が、激しいタイトル争いを何よりも雄弁に物語っている。

 また、この年のチェコGPでは、ペドロサとロレンソは最終ラップの最終コーナーまでバトルを繰り広げた。最後はペドロサが制したこのレースが、名勝負としてひときわ強い印象を残すのは、ペドロサもロレンソも、先行逃げ切りの優勝を本来は得意としているからだ。その二人が、互いに相手を振り切ることができず、しかも最後の最後まで互いに一歩も退かないクリーンな真っ向勝負を続けた。最終ラップは4回トップを入れ替える攻防で、0.178秒先にペドロサがチェッカーフラッグを受けた。

 この年から少し遡って、ロレンソが最初にタイトルを獲得した10年にも劇的な出来事があった。

 この一年は、基本的にはロレンソ優勢で推移したシーズンだった。だが、3週間の夏休みを経てシーズン後半戦になると、ペドロサが猛追を開始した。休み明け4戦で優勝2回、2位が2回。そして秋の終盤戦を迎えた。ここまで4戦の勢いを駆り、逆転チャンピオンを期して臨んだ日本GPだったが、初日午前の走行で転倒して鎖骨を骨折した。原因はペドロサのミスではなく、チームのメカニックによるマシン整備の過失という、泣くに泣けない内幕で、ペドロサの王座奪取はついえることになってしまった。悲運という意味では、これほど象徴的なシーズンもないだろう。

 やがて13年には、マルク・マルケスがレプソル・ホンダのチームメイトになり、あっという間に破竹の快進撃を開始する。ペドロサはタイトルこそ手に届かなかったが、それでも毎シーズン少なくとも1戦で優勝を達成し、何回も表彰台に登壇し続けてきた。

 この時期(今から考えればレースキャリア後期ということになる)のペドロサを語るとき、日本のファンならおそらく誰もが思い出すのは、「侍」の大きな漢字のデザインを頭頂部にあしらったヘルメットだろう。このヘルメットが初めて登場したのは、15年のツインリンクもてぎだった。最初はあくまでも日本GP用のスペシャルヘルメットだったが、評判がよく毎戦使用するようになり、以後は引退までこのデザインを愛用しつづけた。  


2018年バレンシアGPのペドロサ。

「侍」と記されたヘルメットを愛用した

 ちなみにこの侍ヘルメットを初めてお披露目した15年日本GPで、ペドロサは優勝を飾っている。2位のバレンティーノ・ロッシに8.5秒の大差という、典型的な勝ちパターンだ。HRC副社長(当時)としてレプソル・ホンダ・チームを率いていた中本修平は「ダニは(マシンセットアップを)90%合わせてあげることができれば、誰にも手のつけられない速さを発揮する」とよく言っていたが、まさにそれを体現したレース展開だった。

 16年も17年も、ペドロサが勝つときはいつも独走だった。すでに30歳を超えていたが、優勝するレースではロッシやマルケスに数秒差を開いて勝利を手中に収めた。

 それが暗転したのは、18年だ。

 第2戦アルゼンチンGPの決勝レースで転倒し、右手首を骨折。スペインへ戻って手術を実施した後、翌戦のアメリカズGPが行なわれる米国テキサス州オースティンへ飛んだ。

 ライダーにとって、精妙・繊細なスロットル操作を行なう右手は、第2の脳といってよいほどの重要なボディパーツだ。その骨折した右手首を手術し、スクリューで固定したペドロサは、鎮痛剤を使用しながらレースウィークに臨んだ。結果は7位。負傷の状況を考えれば、上々といっていいだろう。

 今までにも、彼が痛々しいケガを抱えながら走ってきた姿は何度も見てきた。だが、このレース後は、見るからに疲れ切った表情だった。ひょっとしたら、今までの経験の中でも最も厳しいレースだったのではないか。すでにチームシャツに着替えて手首をアイシングするペドロサにそう訊ねてみたところ、素直にうなずいた。

「もちろん、今日は最も苛酷なレースの一つだった。(走れるかどうかを)金曜にトライしてみて、その時の調子のままで3日間走り切れるとは思っていなかったけど、それにしても厳しかった。完全に消耗し切ったよ。今はとにかく、腫れと痛みに対処しながら、次のレースに向けて回復に備えたい」

 その次戦以降も、思いどおりのパフォーマンスを発揮できずに苦戦を強いられた。手首の負傷がおおむね癒えた後も成績不振が続いた。MotoGPクラス全体の中で特に軽量な彼が、タイヤにしっかりと加重してグリップを稼ぐという面で不利を強いられがちだったことは指摘しておいてもいいだろう。

 そして、前半戦を締めくくる第9戦ドイツGPで、ペドロサはその年限りの引退を発表した。

 大勢の関係者や取材陣が詰めかけた引退発表会場の片隅には、04年の250cc時代からともにグランプリを戦ってきた盟友、青山博一の姿があった。青山はペドロサよりも一足先に現役活動を退き、現在はMoto2とMoto3のホンダ・チーム・アジアの監督を務めている。

「会見をすると聞いたので、『もしからしたら......』と思って来てみたんですが、やはり引退発表でしたね」

 しみじみとした口調でそう話す青山は、寂しい気持ちと祝福したい気持ちが相半ばする正直な心情を述べた。

「自分の好きなスポーツを辞める判断はすごく大変なことだし、それだけに決断までに時間もかかったと思う。こうやって引退会見をして辞めることができる選手はほとんどいないので、プロフェッショナルライダーとしてすばらしい終わり方だと思います」

 そして、こう付け加えた。

「あの小柄な体格でモンスターマシンを扱うのは、みなが思っている以上に大変なことなんです。マルク(・マルケス)はもちろんすごいライダーだけど、ライダーとしてのセンスは、僕はダニのほうが上だと思っています」

 結局、この現役最終シーズンのみ、ペドロサは一度も表彰台を獲得できなかった。そして、引退の翌年から、KTMのテストライダーに就任した。今シーズンのKTMの躍進を考えるとき、19年から陣営へ加わったペドロサの貢献も大きく下支えしているであろうことは、想像に難くない。

 最近のペドロサは、額の左上部あたりの前髪に、少し白いものが混じりはじめたようにも見える。それを染めて隠したり取り繕ったりしていないところが、いかにも彼らしい。

 そして、KTMのテストライダーとして開発スタッフとミーティングを行なう際には、自作のレジュメを準備するともいう。コンピュータで作成した資料をプリントアウトして持参し、会議の席で技術者たちに配布する。ミーティングの最中には、ホワイトボードも使って説明を行なうのだとか。

「あんなことまでする、というかできてしまうテストライダーを、初めて見ましたよ」

 そういって、KTMのある関係者は実に愉しそうに微笑んだ。そんなところもまた、いかにも現在のダニ・ペドロサらしい姿、といえるのかもしれない。

【profile】 
ダニ・ペドロサ Daniel Pedrosa
1985年9月29日、スペイン・サバデル生まれ。15歳でロードレース世界選手権125ccクラスに参戦し、2003年に王座獲得。250ccクラスで04年、05年に連覇を果たし、06年より最高峰のMotoGPクラスに昇格。多くのシーズンで上位争いに食い込んだ。18年に引退。