> レースというのは、すべてが技術的・理論的に説明できるはずなのに、時に理屈で説明できないような驚くべきことが起きる。だからこそ、そこに感動がある。 アルファタウリ・ホンダのピエール・ガスリーがここで初優勝を挙げるなど、誰が想像できただろう…

 レースというのは、すべてが技術的・理論的に説明できるはずなのに、時に理屈で説明できないような驚くべきことが起きる。だからこそ、そこに感動がある。

 アルファタウリ・ホンダのピエール・ガスリーがここで初優勝を挙げるなど、誰が想像できただろうか。王者メルセデスAMGより1秒遅いマシンで勝つなど、理屈のうえではあり得ない。しかし、それをやってのけた。



イタリアGPでF1初優勝を果たしたピエール・ガスリー

 メインストレートの上空に浮かぶモンツァの表彰台の中央に立ったガスリーは、シャンパンシャワーを楽しんだあとにそこへ腰掛け、ひとりでしばらくぼうっと空を見詰めていた。

「あそこに座っていると、いろんな感情が心の中に浮かんできた。家族、友人、兄弟、そしてここまで僕を支え、プッシュし続けてきてくれた人たち。そういう人たち、すべての人のことを思い浮かべていたんだ」

 そのなかで、ひと際大きかったのが、アントワーヌ・ユベールだろう。

 1年前のスパ・フランコルシャンで命を落とした彼は、ガスリーにとって友人という単純な言葉では表せない大きな存在だった。

「カートを始めた9歳の時から彼と一緒に走って来て、13歳から18歳まで同じ学校の同じクラスのルームメイトとして朝7時半から夜10時までずっと一緒だったんだ。レースも、トレーニングも、全部一緒だった。

 僕らはお互いにプッシュしあって成長してきた。トレーニングだって、彼が15回なら僕は16回、そしたら彼が17回やるっていうふうにね。僕をアスリートとして成長させてくれたのは彼であり、彼がいなければ今の僕はいなかった」

 昨年のベルギーGP直前にレッドブルから突然の降格を言い渡されたガスリーは、公然とチーム批判をするなど荒れていた。しかし、その週末にユベールが悲運の死を遂げたことで、ガスリーは大きなことに気づかされた。

「君は人生というのは、僕らが思っているよりもずっと短いものだということを僕に教えてくれた。だから生きている間は、可能なかぎり楽しむべきなのだということを」

 今年のユベールの命日に、ガスリーはそうつぶやいた。

 降格が発表されて、いの一番にメッセージを送ってきてくれたのはユベールだった。「実力を証明して見返してやればいいじゃないか」。あの時、感情にまかせて荒っぽいレースを繰り返していたら、ブラジルGPの初表彰台も、この初優勝もなかったかもしれない。

 今年のガスリーは見違えるような走りを見せた。とくに予選では僚友ダニール・クビアトを圧倒する走りを見せ、マシンに少々難があってもQ3まで運ぶほど常に乗れていた。

 ユベールが亡くなってから1年後のベルギーGPでも、ハードタイヤスタートの戦略が台なしになるタイミングでのセーフティカー導入に見舞われながら、最後まであきらめなかった。最後尾から執念の追い上げを見せて8位まで挽回し、ドライバー・オブ・ザ・デイに選ばれた。

 そしてモンツァにやって来ても、初日から4位と絶好調だった。

 決勝では19周目、ケビン・マグヌッセン(ハース)がコース脇にマシンを止めたのとほぼ時を同じくしてピットに飛び込み、セーフティカーが導入されて隊列が整ってから他車がタイヤ交換を終えると、3位まで浮上するという幸運に恵まれた。さらにはシャルル・ルクレール(フェラーリ)のクラッシュによって赤旗中断となり、その間にタイヤ交換を許されて他車と同じ新品のミディアムを履くことさえできた。

 しかし、ここから先はガチンコの勝負だ。

 首位ルイス・ハミルトン(メルセデスAMG)は10秒ストップ&ゴーペナルティのため後退。だが、純粋な速さでは優位にあるはずのランス・ストロール(レーシングポイント)をオーバーテイクし、さらにはマクラーレン勢がキミ・ライコネン(アルファロメオ・レーシング)を抜く間にギャップを広げて3.9秒に。その後も毎ラップ0.3秒程度の差しか縮めさせなかった。

 ガスリーは焦りもせず、オーバードライブもせず、極めて冷静に、しかし果敢に攻めた。そして、ミスも犯さなかった。

 それは、F1直下のGP2(現FIA F2)でいつも彼がやっていたのと同じレースだ。

「残り28周だったと思うけど、ターン1でランス(・ストロール)を抜くことができた。これが大きな助けになったんだ。それでルイス(・ハミルトン)がピットインしてからは自分自身のレースになった。

 レースをリードして、コーナーごとに自分の走りに集中して走るという、GP2時代のことを思い出していたよ。そしてスタートからプッシュして後続を引き離して、トウを使わせないようにしながら、前に誰もいないからコーナーでタイムを稼ぐ走り方をしなければならないこともわかっていた」

 前に誰もいないということは、スリップストリームは使えない。ということは、コーナーでタイムを稼ぐしかない。その分だけタイヤの性能低下が早く進む。2位のカルロス・サインツJr(マクラーレン)はどんどん背後に迫ってくる。

 それでもガスリーは最後まで冷静で、マシンのスライドを抑えるためのチームからのセッティング変更の指示も的確だった。

「最後の5周はタイヤもタレていたから、かなり厳しかったよ。僕はコーナーでタイヤを使ってタイムを稼いでいたから、その分だけデグラデーション(性能低下)も進んでしまった。だけど、それが僕にとって唯一の方法だから仕方がない。どのコーナーでもクルマが滑っていたし、カルロス(・サインツJr)が徐々に追いついてくるのも見えていた。

 近づけば近づくほど、スリップストリームが効いてさらに接近してくるのもわかっていた。ミラーに写る彼の姿がどんどん大きくなってきたけど、1.5秒差になってからはエネルギーをセーブしておいて、彼が仕掛けて来たらそれを使ってディフェンスしようと備えていたんだ。最終ラップにそれを使い果たしたけど、なんとか彼を抑え切ることができてよかった」

 今の中団グループは極めて僅差だ。日頃はその集団の中に埋もれているマシンとドライバーでも、ひとたび前に出ればそのポジションをキープする力はある。攻めるべきところを攻め、なおかつミスを犯さなければ。ガスリーがやってのけたのは、まさにそういうことだ。



表彰台に腰掛けて思いにふけるガスリー

「今はまったく現実味がないし、言葉が出てこないよ。赤旗のチャンスを最大限に生かしたけど、クルマはとても速かった。こんなにパワーセンシティブなサーキットで勝てたんだから、僕にF1デビューと初表彰台、そして初優勝のチャンスまでくれたチームとホンダにとても感謝している。

 表彰台でさえすごかったのに、優勝だなんて本当に信じられない。残り数周でこのチャンスを逃したら、ものすごく後悔するだろうということもわかっていた。だから、全力を出し切って走ったんだ」

 ベルギーGPで最後まであきらめずに走ったのが「盟友ユベールに誇れるレースをしたい」という思いからであったのと同じように、モンツァでも彼の存在がガスリーの背中を押してくれていたのだろう。

 トップでチェッカードフラッグを受け、マシンを降りたガスリーのもとにルクレールが祝福に訪れた。彼もまたユベールとともに育ってきたドライバーであり、昨年のベルギーGPでは決勝前に「このレースはアントワーヌのために君が勝たなきゃダメだ」とガスリーが弔いを託した相手だ。

 あの時はトロロッソへと降格を言い渡され、フェラーリに乗るルクレールにその思いを託すことしかできなかった。

 だが、今日は自分が勝ち、モンツァの表彰台の中央に立った。

「表彰台から離れたくなかったんだ。ああいう瞬間を楽しむことができる機会は、そう多くあるものではないからね。だからそこに腰掛けて、少しひとりで自分の心の中に去来した感情を噛み締めながら、その瞬間をもう少し楽しんでいたかったんだ」

 シャンパンファイトを終えて表彰台に腰掛け、ただひとりその場に残ったガスリーに去来した思いがどんなものだったのか。それはガスリー自身にしかわからない。

 しかし、きっとそこには、アントワーヌ・ユベールが一緒にいたはずだ。