【フォトギャラリー】セナ、シューマッハ...。凄腕F1カメラマンがとらえた歴史的瞬間MotoGP最速ライダーの軌跡(6) ダニ・ペドロサ 上 世界中のファンを感動と興奮の渦に巻き込んできた二輪ロードレース界。この連載では、MotoGP歴代チ…

【フォトギャラリー】セナ、シューマッハ...。凄腕F1カメラマンがとらえた歴史的瞬間

MotoGP最速ライダーの軌跡(6) 
ダニ・ペドロサ 上 

世界中のファンを感動と興奮の渦に巻き込んできた二輪ロードレース界。この連載では、MotoGP歴代チャンピオンや印象深い21世紀の名ライダーの足跡を当時のエピソードを交えながら振り返っていく。 6人目は、ダニ・ペドロサ。非凡な才能と誠実なキャラクターでファンを魅了したペドロサの歩みをたどっていく。 

 スペインのMotoGPにかける期待を、この人が一身に背負っていた時期がある。



2006年、中国GPでMotoGP初優勝を果たしたダニ・ペドロサ

 ダニ・ペドロサが最高峰クラスに昇格したのは2006年。03年に最小排気量の125ccクラス王座に就き、04年と05年に中排気量の250ccクラスを連覇。3年連続で世界チャンピオンを獲得して、MotoGPへと駆け上がってきた。この時のペドロサはわずか20歳で、160センチにも満たない小柄な体躯(たいく)とも相まって、少年のような印象をまだ強く残していた。

 当時のMotoGPは、バレンティーノ・ロッシの第一次全盛時代ともいうべき時期で、強さの頂点を極めていた彼は、文字どおりレース界に君臨していた。スペイン人選手ではセテ・ジベルナウがライバルの一角を占めていたが、とはいえ、ロッシからタイトルを奪取できるほどの力強さを発揮していたわけではない。スペイン人のチャンピオンは1999年のアレックス・クリビーレ以降、長い空白期間が続いていた。

 そこに20歳のペドロサが登場した。

 125ccと250cc時代はホンダのフルサポートを受ける事実上のワークスチーム体制で、特に250cc時代は圧倒的な強さを見せた。その「神童」が、トップファクトリーのレプソル・ホンダ・チームから、いよいよ最高峰クラスのデビューを果たす。それだけに、スペイン人ファンの彼に対する期待には並々ならぬものがあった。ファクトリーのシートを用意したホンダ陣営の関係者にしても、その期待感は同様だっただろう。

 だが、ペドロサの小柄な体格は、990ccのモンスターマシンRC211Vを手足のように扱うには見るからに不利だった。その反面で、圧倒的な量の才能は、体格的な不利を補って余りあるようにも感じさせた。そんな大きな期待に包まれながら、2006年シーズンは開幕戦のスペインGPを迎えた。

 当時のスペインには人気バイク週刊誌が二つ存在していた。両誌ともMotoGPが開催される週は、いつも数十ページをレース特集記事に割き、競い合うように部数を伸ばしていた。スペインGPのレースウィークにそのバイク雑誌の記者たちと雑談を交わしていると、彼らがペドロサのデビュー戦にかける期待の大きさを、言葉の端々から感じ取ることができた。

 日曜のレースを終えて、結果は2位。優勝したドゥカティのロリス・カピロッシからは、やや後塵(こうじん)を拝した格好だ。だが、同じレプソル・ホンダ・チームで4年目のシーズンを迎えたニッキー・ヘイデンが3位でゴールしたことを見れば、ペドロサの最高峰クラスのデビュー戦2位というリザルトは、文句の付けどころがない上々の内容で、器の大きさを十分に示す結果だ。

 そして、レース後の質疑応答では、とつとつとした口調ながら「次はもっと速く走れると思います」と話して、その場にいた者たちを驚かせた。大言壮語をするような性格ではないだけに、この何気ないひとことからは自分自身の能力に対する大きな信頼をもうかがわせた。

 性格ということについていうならば、ペドロサのキャラクターは、いわゆる目立ちたがりや派手好みというあり方からは対極にある。真面目な性格、と断言しても反論する人はほとんどいないだろう。にもかかわらず、というべきか、だからこそ、というべきか。ふとした拍子に彼が照れたように笑うときは、大いに人を魅了する。

 また、そんなキャラクターゆえ、ペドロサは似たような性格の青山博一と意気投合したのだろう。青山は09年に250ccクラスのチャンピオンを獲得し、現在はMoto2とMoto3のホンダ・チーム・アジア監督を務めているが、彼が04年に250ccクラスのフル参戦デビューを果たした時、チームメイトになったのがペドロサだった。それを機に、彼らはパドックで最も仲の良い友人同士として、自他共に認める強い信頼関係を築き上げる。かつて、MotoGP公式サイトが「理想のチームメイト」を選手たちに訊ねる企画を実施した際には、ペドロサは躊躇(ちゅうちょ)せず青山の名前を挙げた。青山もまた、ペドロサが現役からの引退を発表した際には、会場に駆けつけた。

 06年段階に話を戻すと、最高峰クラスデビュー戦を2位で終えたペドロサは、4回のポールポジションと8表彰台(優勝2回、2位2回、3位4回)を獲得し、この年のランキングを5位で終えた。



2006年、MotoGP中国GPのペドロサ

 初年度を終えて、まだ21歳。デビューシーズンにこれだけの成績を残していることから、彼の前途は見るからに洋々だった。スペイン念願のMotoGPチャンピオン獲得は、近い将来にほぼ間違いなく彼が達成するだろうと思われた。

 しかし、その後のペドロサは、小さな体格でモンスターマシンを操らなければならない無理が、しわ寄せのような形でさまざまに表出した。典型例が、負傷とそれによるチャンスの逸失だ。

 他のライダーの項でも記したとおり、二輪ロードレーサーにとって、勝利の栄光と負傷のリスクは、いわば背中合わせだ。ケガはいつも、彼らの競技生活に影のようにつきまとう。なかでもペドロサは何度も負傷に悩まされ、その度に克服しながら選手活動を続けてきた。

 125cc時代や250cc時代にもケガを経験しているが、MotoGPデビューイヤーにも大きな負傷に遭っている。シーズン後半の第13戦、マレーシアGPの走行初日だった。金曜のセッションで大きな転倒を喫し、左足つま先の骨折と右膝を数針縫う裂傷(れっしょう)を負った。

 このマレーシアGP段階でのペドロサは、デビューイヤーながらチャンピオンの可能性をまだ残していた。膝の裂傷は縫合したものの、その部位が固まって動かなくなると翌日からバイクに乗れなくなってしまう。そうした事態を防ぐため、夜中もトレーナーが付きっきりで、数時間おきにペドロサの膝をあえて動かしていたのだ。

 決勝レースでは、序盤から3番手につけたが、負傷の状態を考えればやがて順位を落とすだろうとチーム側は予測した。だが、ペドロサは最後まで順位を維持し、3位でチェッカーフラッグを受けた。レースを終えたペドロサのブーツの中は、血で濡れていたという。

 このシーズンに、ホンダ陣営全体を取りまとめていたHRC総監督(当時)の石井勉は「あの状態でよく3位に入りましたよ。普通じゃないですね。ダニは間違いなく、歴史に残るトップライダーの資質をもっていると思います。腕だけじゃなくて、気持ちの強さ、精神力の面でも」と言って、レース後にペドロサの走りを絶賛した。痛々しい負傷の状態は、チーム内部の人間が最もよく知っている。ペドロサが強い意志で獲得した3位表彰台という結果を褒め称えるのは当然だろう。

 しかし、ペドロサはその後何度も、毎年のように辛い負傷に悩まされることになる。

【profile】  ダニ・ペドロサ Daniel Pedrosa 
1985年9月29日、スペイン・サバデル生まれ。15歳でロードレース世界選手権125ccクラスに参戦し、2003年に王座獲得。250ccクラスで04年、05年に連覇を果たし、06年より最高峰のMotoGPクラスに昇格。多くのシーズンで上位争いに食い込んだ。18年に引退。