あのブラジル人Jリーガーはいま 連載一覧>>第10回トーレス(前編)>>後編を読む アレクシャンドレ・トーレスの本当の名…

あのブラジル人Jリーガーはいま 連載一覧>>
第10回トーレス(前編)>>後編を読む

 アレクシャンドレ・トーレスの本当の名前はカルロス・アレクシャンドレ・トーレスという。しかし、どのように呼ぼうとも、彼の名前がサッカー界で重みを持っていることには変わらない。

 トーレスとはポルトガル語で「塔」という意味。まさに彼がピッチでやってきた役割である。どこの国のどのチームでプレーしようが、彼は守備を率いる「塔」だった。

 現在53歳の彼は、偉大なキャプテンの血を継ぐ者である。彼の父はかのカルロス・アウベルト・トーレス。60年代から70年代にかけてのブラジルの王様といえば、誰もがペレと答えるだろう。しかし、サントスでもブラジル代表でも、真のリーダーはこのカルロス・アウベルトだった。彼のプロフッショナリズムはそのまま息子へと受け継がれた。

 ただし、父の名前で有名になった選手は数多いが、トーレスはそれらの選手とは一線を画す。彼が常にレギュラーの座を失わなかったのは、純粋に彼が優秀だったから、本物のチャンピオンだったからである。

 カルロス・アウベルトが息子を助けたのはたった一度だけ、13歳のアレクシャンドレ少年を古巣のフルミネンセに紹介した時だ。だが、父の口利きがなくてもトーレスはチームに合格していただろう。その証拠に1985年、19歳の年にはトップチームに昇格、仲間の少年たちの誰よりも優秀で、背も高かった。ポジションは父と同じDF。エレガントなボールタッチも父親譲りだった。

 1991年、彼はヴァスコ・ダ・ガマに移籍し、ここで多くのタイトルを勝ち取る。ブラジルサッカー史に残るCBコンビをリカルド・ロシャと結成。翌92年からは3年連続してリオ州リーグ優勝。トーレスは常に中心選手としてプレーした。



1995年、名古屋グランパスに加入したトーレス photo by Yamazoe Toshio

 これまで紹介してきたJリーグ経験のあるブラジル人選手と、彼が大いに異なる点は、その17年のキャリアの中で、たった3チームでしかプレーしていないことである。フルミネンセで6年プレーした後、同じくリオのヴァスコ・ダ・ガマへ。ここでは3年間のうちに5つのタイトルを勝ち取る。

 そして日本に渡り、名古屋グランパスで5年。

 多くのJリーガーブラジル人は、日本のチームに所属しているブラジル人監督やブラジル人スタッフの誘いを受けて日本にやってくる。だが、トーレスの場合は違った。

 彼を日本に呼び寄せたのはアーセン・ベンゲル。世界でも最も偉大な監督のひとりであり、1995年、名古屋の監督に就任していた。

 グランパスからの招聘は誠実でリスペクトのあるものだった。そこでトーレスは、日本でサッカー人生を終える覚悟で名古屋にやって来た。

 興味深い事実がある。トーレスはあと一歩で、二代にわたってW杯優勝を果たした唯一の親子になれるところだった。

 父カルロス・アルベルトは、自身の3度目のW杯、1970年メキシコ大会でキャプテンとして優勝した。そして息子のほうは、1994年アメリカ大会でブラジル代表に招集された。この時のブラジルが、PK戦の末にイタリアを下して優勝したのは皆さんもご存じだろう。しかし彼は、代表チームがアメリカに出発する直前にケガをしてしまい、結局、代表に入ることができなかった。

「私のサッカー人生の中でも最もつらい時だった。W杯でプレーし、ブラジルを助け、世界チャンピオンの一員になれるはずだった。なにより唯一親子でW杯を勝ち取れるチャンスを逃してしまったのがつらかった。本当に悲しかった」

 トーレスはその時のことをそう振り返っている。

「そして誰も知らないだろうが、その悲しみから私を救ってくれたのが日本だった。名古屋で私は笑顔を取り戻し、サッカーをプレーする喜びを取り戻した」

 カルロス・アルベルトは攻撃参加するDFの草分けのひとりだった。そして息子のトーレスも、攻撃を任せられるDFだった。長身を生かしてのヘディングシュートはいつも相手のゴールを脅かしていた。

 しかし、やはり彼の一番の専門は相手選手にゴールさせないことだ。彼を名古屋に誘ったベンゲルはこう言っている。

「トーレスのような選手を持つことは、すべての監督の夢である。彼がいるだけで守備は盤石になり、中盤は前に上がることができ、残りの選手たちは勝利するためには欠かせないゴールに集中できる」

 トーレスは日本での5シーズンで約150試合に出場、リーグ戦で11ゴールを決めている。またこの時期の名古屋は、3シーズンにわたって失点が少なく、堅守を誇っていた。それも多くはトーレスのおかげである。

 トーレスはチームと決して問題を起こさなかった。いつも黙って自分のすべきことをした。ベンゲルはそこにトーレスがいることをいつも感謝していたという。

 ベンゲルとの関係は日本を去った後も続いた。現役引退後、トーレスがイングランドで2年、監督修業ができたのも彼のおかげだし、そこでイングランドと関係ができたからこそ、2013年にはマンチェスター・ユナイテッドの南米地域のヘッドスカウトを務めることができた。

 トーレスはまた、名古屋でもうひとりの偉大な選手とともにプレーした。ドラガン・ストイコビッチである。

「チームの誰もが優秀だったが、ベンゲルは私に守備の要を、ストイコビッチに攻撃の要を託してくれた。我々2人がいい仕事ができると、チーム全体もよくなった」

 1995年には3位だったチームは、96年には2位になった。ただジーコの鹿島だけは超えることができなかった。

 日本でプレーするに至ったいきさつを、トーレスはこう説明してくれた。

「私はヴァスコ・ダ・ガマの選手としてプレーし、3年連続で多くのものを勝ち取っていた。我々は本当にいいプレーをしていて、95年もすばらしいシーズンが待っていると思っていた。しかしそのシーズン前、私はあるフレンドリーマッチのツアーに参加し、そのうちの1試合が日本で行なわれた。この時まで、私は日本のサッカーのついてはほとんど無知だったが、目にした組織力と優秀さに驚いた」

 この時代、エージェントがプロ選手に近寄るのは今よりもずっと簡単だった。そのうちのひとりが日本で彼に声をかけてきたという。

「彼は私のことを日本のチームに紹介したいと言ってきたが、私はそれに対し否定も肯定もしなかった。ただ連絡先だけは交換し、私はそのままブラジルに戻った。日本に対する興味はあった」

 それから数カ月後のある日、その代理人が実際にトーレスにオファーを持ってきた。

「それは名古屋グランパスという、名前の知らないチームからだった。私は何と答えていいかわからなかった。契約の内容は悪くなかったが、それがどんなチームであるか、そもそも日本のサッカーについてもっと知らない限り、返事はできないと思った。

 そこで私はいろいろな人に意見を聞きまくった。私の父、そして日本のサッカーをよく知る人々。その中にはジーコもいた。私が納得したひとつのことは、このチームが求めている選手像はまさに私のようなタイプだったということだ。

 攻撃参加もできるCB、そして何よりピッチでリーダーシップをとれる選手。ついに私はリスクを冒して、オファーを受けることした。今こうして過去を振り返った時に思うのは、この時の決断が、私の人生の中でも最も賢明なものだったということだ」

 彼に声をかけたのはこのエージェントだが、実際のところ彼を本当に気に入っていたのは、名古屋に就任したフランス人監督だった。彼はリオデジャネイロ州リーグでプレーするトーレスを見て、ひと目で彼を気に入った。そのことをグランパスの幹部のひとりが友人に話し、その友人がこの代理人に話すと、彼はこう叫んだという。

「トーレスならよく知っているよ!」

 つまり、トーレスをチームの中心として欲しがっていたのはアーセン・ベンゲル自身だった。トーレスはオファーを受けた時、誰が名古屋の新監督かも知らなかった。しかし、ベンゲルのおかげで彼は名古屋の「塔」になった。
(つづく)

トーレス
本名カルロス・アレクシャンドレ・トーレス。1966年8月22日生まれ。フルミネンセ、ヴァスコ・ダ・ガマを経て、1995年、名古屋グランパス入団。2000年、ヴァスコ・ダ・ガマに復帰し、翌年、現役を引退した。1992年にはブラジル代表にも選ばれている。