> 試合のコートに立つ大坂なおみの心には、今大会3試合目にして初めて、ネガティブな感情や思想が渦巻いていたという。「USオープンの開幕も迫っているのに、こんなに試合してケガでもしたらどうしよう」「すごく疲れている。久しぶりの大会で、何試合も…

 試合のコートに立つ大坂なおみの心には、今大会3試合目にして初めて、ネガティブな感情や思想が渦巻いていたという。

「USオープンの開幕も迫っているのに、こんなに試合してケガでもしたらどうしよう」

「すごく疲れている。久しぶりの大会で、何試合も続けてプレーしたから身体中が痛い」



大坂なおみはコンタベイト戦後、大会棄権を表明した

 ミスショットを打つ度に、「こんなボール、ミスするはずないのに......」と思いつつも、その都度言い訳が次々と頭に浮かび、自分を律することもしなかったという。

 第1セットを失い、第2セットも最初のサービスゲームで2度のダブルフォルトを犯してブレークされる。さらにはゲームカウント0−2からのサービスゲームでも、ダブルフォルトもあってブレークの危機に瀕した。

 もし、このゲームを奪われていれば、事実上の勝敗は決しただろう。あるいは以前の彼女なら、そうなっていたかもしれない。

 ただ、このコロナ禍による6カ月の間に「人間的に成長することを最も心がけてきた」という彼女は、ネガティブな思想に飲み込まれることを拒絶した。

「自分を表現することを恐れず、多くの人と触れ合うこと」を通じて世界が開けたと言っていた彼女は、「後悔しないで済むように、ベストを尽くそう」と自分自身に言い聞かせる。

 センターに叩き込むサービスエースでブレークポイントをしのぐと、続くポイントはバックハンドウイナー、そして最後もエース級のサーブで、大坂がこのゲームをキープした。

 すると、昼夜が反転したかのように、このゲームを機に試合の様相は一変する。

 大坂は精力的にコートを駆け、劣勢のラリーでも粘り強くボールを打ち返し、ポイントを決めては拳を強く握りしめた。強打のみならず、スライスなども織り交ぜて、相手のリズムも崩していく。

 敗戦間際まで追い込まれていたのが嘘のように、コートを支配する大坂が9ゲーム連取の快走。対戦相手のアネット・コンタベイト(エストニア)も終盤にブレークバックして食い下がるが、最後に再び突き放し、4−6、6−2、7−5の逆転勝利をもぎ取った。

 精神面の充実ももちろんだが、ツアー中断中に抜本的な技術改革を行なったバックハンドのスライスやボレーを駆使し、手持ちのカードの豊富さで引き寄せた勝利でもある。

「試合のなかで、ネガティブな自分を打ち消せたことがうれしい」

 試合後の彼女は、笑顔で自身の成長を噛み締めた。

 その勝利会見から、およそ4時間後......。

「自分を表現することを恐れない」彼女は、ツイッターやインスタグラムに、ひとつの声明文をアップする。

「こんにちは、多くの方がご存知のとおり、私は明日、準決勝を戦う予定でした。しかし、いちアスリートである前に、私は、ひとりの黒人女性です」

 そのような書き出しで始まる長文は、以下のように続いていく。

「黒人女性として、私のプレーを見てもらう以上に、今は注目してもらうべき大切な問題があると感じています。私が試合をしないことで、劇的な変化が起こるとは思っていません。それでも、白人が主流であるこの競技で議論を始めるきっかけになれば、それは正しい方向へと踏み出す一歩になるはずです」

 それは、ウィスコンシン州で黒人男性が警察官に撃たれたことへの抗議として、準決勝をボイコットするという決意表明だった。

 ボイコットによる問題意識の喚起は、大坂の準々決勝が行なわれた現地時間26日に、アメリカのスポーツ界で次々に起こった一大ムーブメントである。

 起爆剤となったのは、ウィスコンシン州を本拠地とするNBAのミルウォーキー・バックスが、プレーオフの試合を辞退したこと。複数の選手の主張と、それに伴うボイコットを、チーム、さらにはNBAも支援し、この日に予定されていた3試合すべてが延期となった。

 このNBAの動きは他競技にも伝播し、WNBAやMLBも予定していた試合を中止。NHLやMLSも追随して、人種差別に抗議する声明文を発表した。

「テニスでも、議論を始めるきっかけになれば......」という大坂の願いは、決意表明の直後から現実となっていく。

 26日の夜に同大会で試合をしていたミロシュ・ラオニッチ(カナダ)は、試合後の会見で大坂の決断について尋ねられると、「NBAがそうしたように、我々も男女のツアーが一体となってサポートしていくべきだ」と、支持の意志を強く明言。

 果たしてその数時間後には、ATP(男子ツアー)、WTA(女子ツアー)、そしてUSTA(全米テニス協会)が共同で「今、世間で起きていることへの喚起を促すためにも、明日27日はウェスタン&サザンオープンを中断する」との声明分を発表。なお、棄権表明をしている大坂の試合がどのような扱いになるかについては、この時点では言及されなかった。

 今大会で幾度も自らの人間的成長に言及してきた大坂は、3回戦を終えたあとの会見で、16歳当時の自分を次のように述懐していた。

「かつての私は、とても臆病だった。トップ選手と顔を合わせることを恐れて、ロッカールームにすら行かなかった」

 その16歳時の大坂を取材した『スポーツ・イラストレイテッド』電子版の記事には、当時の大坂の次のような言葉が載っている。

「私はネットを見ないようにしているの。だって、ネットでは『彼女はBlasian(ブラックとアジアンを合わせた造語)なの?』という話題ばっかりだから。Blasianって一体なに? 私は日本人であり、そして黒人よ」

 かつて、ネットでの心ない言葉や風評に傷つき、スマートフォンすら手にしなかった少女は、その6年後には自らの言葉で意思表明し、行動でテニス界を動かすまでになった。