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『羽生結弦は未来を創る〜絶対王者との対話』 
第I部 五輪での戦い(3) 

数々の快挙を達成し、男子フィギュア界を牽引する羽生結弦。その裏側には、常に挑戦を続ける桁外れの精神力と自らの理想を果敢に追い求める情熱がある。世界の好敵手との歴史に残る戦いやその進化の歩みを振り返り、王者が切り拓いていく未来を、長年密着取材を続けるベテランジャーナリストが探っていく。



2014年ソチ五輪で演技する羽生結弦

 2014年のソチ五輪で金メダルを獲得し、五輪王者としての役割を果たそうと決意して挑んだ14ー15年シーズン。羽生は予想だにしないアクシデントに遭遇することになった。

 11月のシーズン初戦のグランプリ(GP)シリーズ中国杯で、ショートプログラム(SP)2位で発進した後、フリー直前の6分間練習で互いにジャンプに入ろうと後ろ向きで滑っていたハン・ヤン(中国)と激突。頭部と下顎(かがく)挫創(ざそう)、腹部と左大腿挫傷(ざしょう)、右足関節捻挫で全治2〜3週間と診断された。

 しかし、脳震盪(のうしんとう)は起こしていないとして、フリーに強行出場。結果は、2位だった。さらに、3週間後のNHK杯にも出場。4位にとどまったがポイントで6位となり、GPファイナルに進出し、大会連覇を果たした。

 彼のすさまじい意地を、見せつけられ続けた期間だった。

 GPファイナルは連覇を達成した羽生だが、試練は続いた。年末の全日本選手権で3連覇を果たした直後に、それまで断続的に続いていた腹痛により検査入院すると、尿膜管遺残症(にょうまくかんいざんしょう)と診断されて手術をした。2週間の入院と、1カ月の安静療養が必要になった。さらに、翌年2月に練習を再開した直後にも右足首を捻挫。2週間休養を余儀なくされた。

 復帰後出場した3月の世界選手権で連覇は達成できなかったが2位。さらに4月からの国別対抗戦にも出場した。思わぬアクシデントに見舞われた波乱のシーズンをやり切ったのは、五輪王者の意地があったからこそだろう。

 世界選手権後の囲み取材で、羽生は試合に出続けた理由をこう話した。

「自分が現役のスケーターだからです。それ以外は何もないですね。そこには別に不思議な感覚はまったくなくて、僕は日本代表として選ばれたわけですし、戦わなくてはいけないという義務感のようなものもあります。だからケガをしてしまったのは、アクシデントもそうですが、自分の管理不足が少なからずある。反省すべき点があると思います」

 また、インタビュー時には、次のように語った。

「周りの人たちが支えてくれていることを、五輪以上に感じたシーズンでした。ドクターや医療的なサポートもかかりつけで、『本当に恵まれているな』と。もし僕が地方大会で下の順位を争っているような選手だったらニュースになることもなかったし、こういう体制でみなさんが支えてくれることもなかったと思います。

 みなさんに心配してもらったからこそ、フィギュアスケートのみならず、スポーツでこういう命に関わるような事故が起こり得ることを、みなさんも考えてくれた。その面でも恵まれているし、五輪チャンピオンになったことは、特別だと思いました。ソチ五輪の男子シングルのチャンピオンは僕だけですし、どう歴史が変わっていってもそれは一生変わらない。

 今回のリンクで起きた事故は、僕が一生背負わなければいけないものだと感じています。フィギュアスケートだけではなく、他のスポーツでもあり得ることだと思う。医学的な専門知識はないけれど、こういう事故が起こることや脳震盪の危険性など身をもって伝えていけたらなと思います」



ソチ五輪の金メダルを手に微笑む羽生

 厳しい戦いとなった14ー15シーズンだが、羽生は戦い続けられたことに満足していた。

 もし、中国杯の後に、ドクターが「脳震盪は起こしていない」と診断していなかったらーー。また、強行出場した結果、GPファイナル進出をあきらめざるを得ない順位で終わっていたらーー。

 そうした状況になっていたら、「ショックを引きずったまま何もできず、シーズンを棒に振ってしまっていたのではないでしょうか」と語っていた。肉体的にも技術的にもマイナスの要素はあったが、ゆえに得たものもあったという。羽生は、「マイナスとマイナスを掛け合わせてプラスに変換できる」とも述べた。

「(衝突の後)自分は何をすべきなのか、今のコンディションで何ができるのかを常に考えながらやってきました。後半に4回転を入れる義務感はありましたが、できなかったから......(だめだった)という気持ちはあまりないです。昨年(14年)の夏の間は、フリーもSPも後半に4回転を入れてノーミスでできる状態になっていたので、そういった経験を踏まえていけば、これからまた一歩進化していけるのではないかと思います」

 羽生は、続ける。

「3月の世界選手権の間、(取材を受ける際に)僕は『人生』という単語を連呼していました。(波乱のシーズンの経験が)これから先の人生を考えると、重要になると思います。もちろん、五輪の経験もすごく大事ではあるけど、このシーズンもまた違った意味で、貴重なものではないかと考えています」

 そして、あらためてフィギュアスケートが自分の人生そのものであるという思いを強くしたという。

「スケートは、4歳の時に姉の影響で始めたのですが、ここにきてスケートがさらに好きになってきています。スケートを通して自分の人生観だったり、人間としてのあり方のようなものを少しずつ感じ始めていると思います」

 負けも経験したことで、取り戻したものもある。羽生の初心でもある、「挑戦し続ける心」だ。

「来シーズンはもちろん、後半の4回転ジャンプをやりたいです。夏に追い込んで体を作って、挑戦したい。今の僕は、追う立場ですから」

 そう言い切った羽生は、シーズン一番の明るい表情を見せてくれた。苦しさの中でも、五輪王者の意味を考えるシーズンになったのだろう。
(つづく)

(*2015年4月発行『Sportiva 羽生結弦から始まる時代』掲載「激闘の1年」から一部抜粋し、再構成・加筆 )

【profile】 
羽生結弦 はにゅう・ゆづる 
1994年12月7日、宮城県仙台市生まれ。全日本空輸(ANA)所属。幼少期よりスケートを始める。2010年世界ジュニア選手権男子シングルで優勝。13〜16年のGPファイナルで4連覇。14年ソチ五輪、18年平昌五輪で、連続金メダル獲得の偉業を達成。2020年には四大陸選手権で優勝し、ジュニアとシニアの主要国際大会を完全制覇する「スーパースラム」を男子で初めて達成した。 

折山淑美 おりやま・としみ 
スポーツジャーナリスト。1953年、長野県生まれ。92年のバルセロナ大会から五輪取材を始め、これまでに夏季・冬季合わせて14回の大会をリポートした。フィギュアスケート取材は94年リレハンメル五輪からスタートし、2010年代はシニアデビュー後の羽生結弦の歩みを丹念に追っている。