元デビスカップ日本代表で、戦後初のプロテニスプレーヤーとして活躍した石黒修(いしぐろ・おさむ)さんが、11月9日午前5時50分、腎盂ガンのため都内の病院で死去した。80歳だった。 石黒さんは1936年8月、長崎県長崎市生まれ。 1949…

 元デビスカップ日本代表で、戦後初のプロテニスプレーヤーとして活躍した石黒修(いしぐろ・おさむ)さんが、11月9日午前5時50分、腎盂ガンのため都内の病院で死去した。80歳だった。

 石黒さんは1936年8月、長崎県長崎市生まれ。

 1949年、兵庫県尼崎市の甲南中学に入学、テニス部に入部した。甲南高校時代に高校総体のシングルスで全国優勝を飾った。

 1955年、慶應義塾大学に入学、57、58年にインカレ2連覇。在学中の夢は「デ杯プレーヤー」で、大学4年生でその夢を叶える。

 卒業後は三菱電機に入社してプレーを続け、1961年の全日本選手権シングルス初優勝を含め、シングルスで3度、ダブルスで3度、混合ダブルスで3度優勝、1965年には3冠を達成した。

 1963年、ウィンブルドンで自己最高成績の3回戦進出を果たす。

 1965年、デ杯監督を務める。

 1966年、インターナショナル・トーナメントから引退。

 1971年、プロ転向を表明し、戦後初のプロテニスプレーヤーとなる。世界のテニス界が1968年にオープン化され、日本も世界に取り残されぬようにと先陣を切った。そのときのことを「プロ選手として活動することよりも、プロの組織をつくることがより大きな目的だった」と、のちに話している。

 そのプロ転向が、翌1972年の日本プロテニス協会設立につながり、初代理事長となる。

 1978年、日本プロテニス協会主催の国際トーナメント「セイコー スーパー テニス」を開催し、10年間トーナメントディレクターを務めた。日本のテニスファンに超一流のプレーを観る機会をつくり、日本テニスの発展に大きな貢献をした。

 2008年、ITF(国際テニス連盟)功労賞を受賞。

 日本プロテニス協会名誉顧問を務める一方で、全日本ベテラン選手権のシングルス優勝やウィンブルドンでの試合観戦など、テニスへの深い愛情を持ち続けた。

 葬儀・告別式は15日午後1時から、東京都渋谷区南平台町18の13、聖ドミニコ カトリック渋谷教会で行われる。喪主は長男・実(みのる)さん。俳優の石黒賢さんは次男。

 故人のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

(テニスマガジン/Tennis Magazine)