> 16勝を挙げて最多勝に輝いた2018年より、2019年に刻んだ「1勝」の記憶が鮮明に残っている。 2019年4月12日、本拠地メットライフドームでオリックス戦に先発した多和田真三郎(西武)は7回一死までパーフェクトピッチング。相手先発の…

 16勝を挙げて最多勝に輝いた2018年より、2019年に刻んだ「1勝」の記憶が鮮明に残っている。

 2019年4月12日、本拠地メットライフドームでオリックス戦に先発した多和田真三郎(西武)は7回一死までパーフェクトピッチング。相手先発の山岡泰輔とスコアボードにゼロを並べる投手戦を繰り広げるなか、9回を投げ切り被安打2で無失点に抑えた。すると9回裏に味方打線が1点を奪い、劇的なサヨナラ勝ちを飾った。



2019年は開幕投手も務めた多和田真三郎

「もっと気持ちの入った投球を見せていかないといけないなとずっと思っていたので、今日はそれができてよかったと思います」

 菊池雄星がシアトル・マリナーズに移籍した2019年、多和田は自身初の開幕投手に抜擢された。ところが2戦目まで「相手に向かっていく気持ちが足りない」というふがいない投球を続け、迎えた3戦目、ようやくエースが期待に応えた。

 これで波に乗っていくかと思われたが、好投しても打線の援護に恵まれず、ピンチで踏ん張り切れずに崩れる。白星に恵まれない日々を過ごすうち、徐々に状態を悪化させていった。

 当時、誰も予想しなかっただろう。前年の最多勝投手が翌年、わずか1勝に終わることを。この1勝を最後に、長らく勝利の女神から見放されることを----。

 多和田が自律神経失調症を患っていると発表されたのは、2019年12月23日だった。同時に西武は、彼を契約保留選手にすることを明かしている。

 一般企業なら自律神経失調症を患った社員に対し、一定の時間をかけて社会復帰を支援するという選択もできるだろう。

 ただしプロ野球選手は個人事業主であり、基本的に1年契約が繰り返されるなか、球団には抱えられる選手数の枠もある。諸々の事情を踏まえ、球団はどんな選択をするのか。翌年1月、囲み取材で渡辺久信GMに問う機会があった。

「チームの一員としてやっていけると判断すれば、契約はする。ただ、契約のために焦らせてもしょうがない。これは彼の状況次第。チームとして動いている以上、これまでの経緯を我々は知っているので、そのあたりがクリアにならないとなかなか契約はできない」

 多和田の噂はいろいろ聞いていた。ミーティングへの遅刻や欠席も珍しくなく、投手会には顔を出さない。嘘か実(まこと)かわからないが、夫婦関係に関するものもあった。そして2019年シーズン終了を前に、人知れぬまにクラブハウスのロッカーはきれいさっぱり片付けられていた、と----。

 自律神経失調症の公表から半年以上経過した今年7月30日、球団は支配下選手契約を結んだことを発表。渡辺GMは以下のコメントを出した。

「心身ともにチームに合流しても大丈夫と主治医の診断書もいただき、本人と話をした。契約できたので、今後戦力になってもらいたい」

 沖縄出身の多和田は同郷の先輩、山川穂高の足跡を追うように、中部商業、岩手県の富士大学を経て、2015年ドラフト1位で西武に入団した。

 大学時代は1年秋の明治神宮大会でノーヒットノーランを達成。4年春には右肩腱板に炎症を起こし、春の全日本選手権と秋季リーグの登板を回避したなか、西武は1位指名した。

 背番号18という特別な番号を与えられた男は、1年目は7勝5敗で防御率4.38。まずまずの成績でルーキーイヤーを終えた。

「ライオンズの18番をもらったので、いずれはエースになりたいと思っています」

 開幕前にそう話した2年目は5勝5敗で防御率3.44に終わったが、翌年、16勝5敗で最多勝に輝いた。

 しかし、メディアでの露出は決して多くなかった。口下手で多くを語らず、心の内を読み解きにくいため、記事にしにくいのだ。

 西武を中心に取材する者として、個人的にも後悔があった。最多勝に輝いた2018年、多和田の記事を1本も出せなかったことだ。

 翌年こそはエース街道を歩む男の内面に迫れればと、登板を追いかけた。開幕から2試合は持ち味を発揮できなかったが、3戦目は見違えるような投球を披露した。

 ハイライトは0対0で迎えた9回二死一、三塁。4番・ロメロを迎えた場面だ。初球はスライダーで空振りを奪ったあと、内角に速球を4球続けて空振り三振に斬ってとった。

 この配球が、実に多和田らしかった。

「2球目にインコースに行くのは嫌だったので、首を振りました。詰まった当たりが野手の間に落ちて1点というのが一番嫌だなと自分の頭にあったけど、それでも(捕手の森)友哉がインコースのサインを出したので、これは行くしかないなと」

 昭和の時代、プロ野球のエースには"お山の大将"タイプが多かったと言われる。対して平成生まれの多和田は、そうした一面をまるで感じさせない。むしろ沖縄生まれのイメージどおり、のんびりした性格だ。そんな男は強気な森に引っ張られ、腹をくくって内角に投げ切った。

 プラスとマイナスが引き合うように、多和田と森は名バッテリーになっていくかもしれない----。

 そんな淡い期待は、観察者の希望的観測にすぎなかった。

 翌週、4月19日のソフトバンク戦は7回途中2失点で敗戦。3回に二死から四球を出すと、3連打で2点を奪われた。「山賊打線」は相手先発の千賀滉大に8回までわずか2安打に封じられ、完封負けを喫した。

「(開幕戦が行なわれた)金曜に投げると、どうしても相手のエースと当たります。去年は(菊池)雄星さんがいて、自分が(2番手以降で)投げている立場では全然苦労もわからなかったです。このなかでいかに勝っていくかが、今後、自分の成長するところだと思います」

 この年の多和田は、決め球のスライダーとフォークをうまく操れないという問題を抱えていた。それでも何とか粘って試合をつくっていたが、勝ち星に恵まれず、迷宮に迷い込む。3回に打たれた不運な同点タイムリーを含め、6回途中4失点で降板した5月4日の楽天戦の翌日には、こう吐露している。

「フォーム的に崩れてきているので、変化球のコントロールがちょっとずつズレてきている。真っすぐも思ったところに決まり切っていないので、苦しくなっています」

 多和田の代名詞と言えるのが、独特な投球フォームだ。まるでサブマリン投手のように左足から地面深くに身体を沈み込め、上手投げとしては極めて低いリリースポイントからボールを放つ。意識的に身につけたものではなく、幼少の頃、気づけばこの投げ方をしていたという。

 日本全国から毎年優秀な選手が選りすぐられるプロ野球は、強烈な個性がぶつかり合う世界だ。熾烈な競争社会を勝ち抜くには、何らかの点で飛び抜けた能力を備えることが不可欠になる。

 多和田の類を見ない投球フォームは、投球の軌道を予測しにくいという点で武器になった。140キロ台という平凡なスピードの速球であっても、独特の球筋で向かってくるから、打者はバットの芯で捉えにくい。とりわけ右打者の内角には、えげつないツーシームや高速シンカーのようにシュート回転して向かってくる。

 そうした多和田の投球は、心身の絶妙なバランスで成り立っていたのだろう。自身が振り返ったように、スライダーやフォークをうまく操れないのは、投球メカニクスが崩れている証左だった。

 チームが5月21日、22日に行なった故郷・沖縄への遠征に帯同せず、黙々と修正に励んだ。翌日に日本ハム戦の先発を控える5月24日には、こう話している。

「キャッチボールから、スライダーの感覚を意識して取り組んできました。自分のスタイルとしてスライダーでしっかりストライクを取れると、とても楽になってくるので。今はスライダーが指に引っかかって、しっかり握ろうと思えば抜ける。逆に抜けているからしっかり腕を振ろうと思えば、指に引っかかる。悪い状態が続いています」

 迎えた日本ハム戦では、地の底に落ちた。味方打線が2回までに5点を先行、多和田自身は3回まで完璧な投球内容だったものの、4回二死、突如崩れた。中田翔への死球をきっかけに、4本のヒットと四球で一挙5失点。イニングの途中で屈辱の降板となった。

「最近、勝負どころで打たれています。 (4回の)渡邉(諒)のフォアボールもそうですけど、そういうところで抑えられていないのがよくないと思いました。勝ちもついてないので、どうしても勝ちたかった......」

 勝てずに焦る気持ちを抑え切れず、投球フォームを乱し、ボールをうまく操れない。「心技体」が崩れた。

 翌日に登録抹消。7月20日に再登録されたものの、前年の輝きを取り戻すことはできなかった。3試合続けて打たれ、再び二軍降格。以降、戦線に戻ることはなかった。

 チームがリーグ連覇へ向けて突き進んでいた9月10日、頻脈性不整脈を患っていることが発表された。そしてシーズンオフの12月、心身のバランスを大きく崩していることが伝えられる。

 沖縄生まれの朴訥な男は、マイペースな性格なのだろう。投手という、いい意味で自分本位で生きられる場所で類(たぐい)まれな才能を発揮し、2018年には最多勝を獲得した。

 だが、多くを背負って臨んだ翌年、さまざまな歯車が噛み合わず、小さな綻びから大きな傷に至った。

 自律神経失調症から復帰することが、どんなに大変な道であるかは想像できない。ひとつだけ言えるのは、心身の土台をつくり直すことが不可欠だ。周囲の視線にさらされるなか、競争社会を勝ち抜くメンタルの強さも求められる。そのうえで、初めて一軍で勝負していくことができる。

 ポテンシャルはプロでも最高峰だ。だからこそドラフト1位の評価を受け、最多勝という形で自身の能力を証明した。まだ27歳。今後プロの世界で長く活躍するためにも、心技体の好循環を長く回し続けることが求められる。

「家族の支えがあって、ここまで来ることができました。これからは家族のため、そして球団のため、一生懸命、責任を持ってがんばります」

 7月30日、支配下選手契約を結んだ多和田は、球団を通じてそうコメントした。プロ野球は勝負の世界であり、慈悲をかけられての契約ではない。球団は再び戦力になる可能性を見出しているからこそ、支配下契約したのだろう。

 チームの先発陣が伸び悩むなか、去年までエース候補と期待された男は静かに復活への道を歩み始めた。勝負の世界で与えられたチャンスは、自身の手で掴み取るしかない。