追憶の欧州スタジアム紀行(19)連載一覧>>ジグナル・イドゥナ・パルク(ドルトムント)「ドイツW杯、稲本潤一は我慢すべき一線を越えてしまった」はこちら>> ローマ・オリンピコで行なわれた1995-96シーズンのチャンピオンズリーグ(CL)決…

追憶の欧州スタジアム紀行(19)連載一覧>>
ジグナル・イドゥナ・パルク(ドルトムント)

「ドイツW杯、稲本潤一は我慢すべき一線を越えてしまった」はこちら>>

 ローマ・オリンピコで行なわれた1995-96シーズンのチャンピオンズリーグ(CL)決勝。ユベントス対アヤックス戦のスタンドは、アヤックスのチームカラーである赤色が、その3分の2を支配した。

 CL決勝のチケットは毎回、出場した両チームに各3分の1、地元に3分の1の比率で分配される。ローマはイタリアの首都。地元のサッカーファンは、同国人のよしみでユベントスを応援するものだと普通の日本人は思うだろう。当時の筆者がそうだった。

 だが、実際は違った。地元のローマ人は全面的にアヤックスの応援に回った。ローマのオリンピコは、ユベントスにとってアウェーの舞台と化していた......とは、当コラムの8回目(スタディオ・オリンピコ編)で記した内容の一部になるが、筆者は翌シーズン(1996-97)の決勝の地でも、このローマで体験したものと同種のカルチャーショックを味わうことになった。

 舞台はミュンヘン五輪スタジアムで、対戦カードはドルトムント対ユベントスだった。チケットの3分の1を割り当てられたミュンヘン人が応援したのは、ドルトムントではなくユベントス。よってスタンドは、黒と白のユベントスカラーが3分の2を占めることになった。ミュンヘン人もローマ人同様、同国人のよしみで自国のクラブを応援することはなかった。CLの本質を語る時、この2試合は欠かせない事例になる。

 事実上のアウェーで戦うことになったドルトムントは、そのハンディにも負けずユベントスに勝利した。前評判を覆して欧州一の座に就いた。クラブ史上初めて。ドイツ国内において、バイエルン・ミュンヘン一強時代に風穴を開けた。

 そして翌1997-98シーズン、ドルトムントとバイエルンは、CLの準々決勝で相まみえることになった。



ドルトムントの本拠地、ジグナル・イドゥナ・パルク

 ミュンヘン五輪スタジアムで行なわれた第1戦は0-0。ドルトムントホームの第2戦は98年3月18日、ネーミングライツによって2005年以降、ジグナル・イドゥナ・パルクに名称を変ることになったヴェストファーレンに、48500人の観衆を集めて行なわれた。

 当時のドイツには、陸上トラック付きの総合スタジアムが多く存在した。ミョンヘン五輪スタジアムはその代表で、スタンドがピッチから遠く、傾斜角も緩い、眺望の悪いスタジアムとして知られていた。ヴェストファーレンは、それとは対局の関係にあった。スタジアムではバイエルンに勝っていた。

 サッカー専用で傾斜角も鋭い。当時のスタンドは現在のように、スタンドが屋根に全面的に覆われてはいなかったが、反響率は高かった。正面スタンド左側のゴール裏席に陣取る「ドルトムンター」の声が大きかったこともある。

 1点を争う試合はまさに互角。文字どおり白熱の好勝負となった。そのゴール裏席から、幾度となく聞こえてきたメロディが、ペット・ショップ・ボーイズの「ゴー・ウエスト」だった。ヴェストファーレンのヴェスト(ドイツ語の西)と引っかけているのか定かではないが、時のドルトムンターの定番曲になっていて、その歌声がスタジアムにこだますると、試合は喝を入れられたかのように活気づくのだった。

 ドイツの3月は寒い。ハーフタイム。スタンドの記者席からプレスルームに暖を取りに戻りたくなるものだが、筆者はその場に留まった。密閉度の高いスタジアムに、パンチの効いたノリのいいポップミュージックが大音量で流れていたからだ。聞かずにはいられないというか、「この歌は誰の?」と調べたくなるナイスな選曲を、寒さを忘れて堪能した。

 0-0で迎えた後半戦。スタジアムはすっかり劇場化していたが、応援のボルテージは、試合が進むにつれてトーンダウンしていった。暢気に応援歌を歌っている場合ではないと、ファンがピッチに鋭い視線を投げかける時間が増えたのだ。応援の集団性が低下する姿に、この一戦の重みを垣間見た気がした。ピッチには個人の感情が乱れ飛ぶようになった。

 試合は延長に突入。その前半3分だった、ドルトムントに先制点が生まれたのは。得点者はスイス代表FWステファヌ・シャプイサ。

 このまま終わればドルトムントの勝ち。しかし、バイエルンが1点奪えば、アウェーゴールルールに基づき、それは事実上の逆転弾に値する。

 両軍選手はよく走り、よく闘った。スピードも120分間、最後まで落ちなかった。ドイツサッカーの真髄を見るような、力感のこもる一戦だった。

 延長後半14分、ドルトムントが最後の時間稼ぎのための交代を行なうと、ドルトムンターは全員で飛び跳ねながら「ユール・ネバー・ウォーク・アローン」の合唱を開始した。そしてタイムアップ。

 すると、逆サイドのゴール裏席に陣取っていたバイエルンサポーターは、持参した応援旗に火を点け、燃やし始めたのだ。火の手はスタンドのあちこちで上がった。その衝撃的かつ退廃的な光景に、こちらの目は釘付けになった。

 前で述べたように、バイエルンは前のシーズンのCL決勝でユベントス側に付いた。自国のよしみでドルトムントを応援しなかった。それも不思議だったが、こちらも不思議である。

 1998年3月は、フランスW杯の開幕まで3カ月という時期だった。日本はCLどころではなかった。ファンの関心はW杯という国別対抗戦一色に支配されていた。サッカーに対する日本人のカルチャーギャップが、最大値を示していた瞬間と言ってもいい。この時、ヴェストファーレンの記者席に座っていた日本人は、筆者を含めて3人のみだった。

 バイエルンサポーターが立ち去った後もなお、スタンドのあちこちで火が燃えさかる、どこか幻想的な炎を眺めながら、CLの真髄について考えた。

 都市国家を中心に発展を遂げてきた欧州にとって、相性がいいのは、国別対抗戦というより都市対抗戦。まず国別対抗戦ありきの日本とは歴史的な背景が違う。

 ちなみに、それから8年後、日本代表はこのスタジアムで国別対抗戦を2度、戦っている。ひとつは2006年ドイツW杯に向けた準備試合として行なわれたボスニア・ヘルツェゴビナ戦。そして、その本番におけるW杯のグループリーグ第3戦である。玉田圭司のゴールで先制しながら、1-4で敗れたブラジル戦だ。

 1997-98シーズンに戻れば、バイエルンを倒したドルトムントは、続く準決勝でレアル・マドリードと対戦。第1戦アウェーで2-0、第2戦ホーム0-0、通算0-2で敗退した。そしてレアル・マドリードは、アムステルダム・アレナ(現ヨハン・クライフ・アレナ)で行なわれた決勝でユベントスを倒し、32シーズンぶりの優勝に輝いた。

 その決勝を前に、バルセロナ市内ではユベントスの旗が飛ぶように売れた。市民はそれを家々の窓辺に掲げて、試合を観戦。「マドリード負けろ!」とユベントスを目一杯応援した。

 CLでドルトムント対バイエルンの一戦が脚光を浴びたのは2012-13シーズン。両者は決勝で対決した。会場となったロンドンのウェンブリー周辺は、ドイツ人サポーターで埋め尽くされた。その中には、1シーズン前まで在籍した香川真司のレプリカユニフォーム「KAGAWA 23」を身に纏うドルトムンターの姿を何人も確認することができた。

 ヴェストファーレン改めジグナル・イドゥナ・パルクは、UEFAから最上級に当たるカテゴリー4のスタジアムとして認定されている。2000-01シーズンのUEFA杯(現在のヨーロッパリーグ)決勝リバプール対アラベスを開催したことはあるが、CL決勝はない。ミュンヘンとベルリンに持って行かれている。

 立ち見が許されているブンデスリーガ使用時の定員8万1360人(CL、国際試合等では6万6099人)は、ドイツでは最大規模。同じ敷地に建て増しを繰り返している、器の割に収容人員が多い、密状態を楽しむにはもってこいのスタジアムである。