27歳で得点王&MVP、横浜F・マリノスFWの「遅咲きでも才能を開かせる方法」 サッカーJ1・横浜Fマリノスの日本代表FW仲川輝人が「THE ANSWER」のインタビューに応じ、「遅咲きのキャリア論」について持論を語った。昨季、27歳にして…
27歳で得点王&MVP、横浜F・マリノスFWの「遅咲きでも才能を開かせる方法」
サッカーJ1・横浜Fマリノスの日本代表FW仲川輝人が「THE ANSWER」のインタビューに応じ、「遅咲きのキャリア論」について持論を語った。昨季、27歳にして15ゴールでJリーグ得点王、MVPとともに日本代表初選出。大学時代の大怪我、2度のレンタル移籍など挫折を味わいながら、なぜ20代後半にして開眼することができたのか。自身の考えとともに、かつての自分のように“まだ埋もれている”中高生へ、「遅咲きでも才能を花開かせる方法」の体験談を語った。
◇ ◇ ◇
仲川輝人のプロフィールには、よくこんな一文が載っている。
「2019年に27歳でJリーグ得点王、MVP、日本代表初選出」
文字にしてしまえば、たった1行の情報でも、それまでの歩みを辿ると唯一無二の深みがある。自らを「完全に遅咲き」と評するストライカー。161センチという小さな体に秘めた才能は20代後半に差し掛かり、なぜ花開いたのか。
サッカー人生は、生まれ故郷の川崎で幕を開けた。地元の川崎フロンターレのジュニアユースからユースに昇格。トップチーム入りを逃したものの、進学した専大では3年時に関東1部リーグ得点王に輝き、「大学No.1ストライカー」と呼ばれるようになった。しかし、プロ入りを目前に控えた4年生の10月に右膝前十字靭帯断裂などの大怪我を負った。
そのまま入団した横浜F・マリノスも1年目はリハビリに費やし、2年目も出番に恵まれず。2、3年目ともにシーズン途中でレンタル移籍を経験し、4年目に再復帰すると、5年目となる昨季に大ブレークした。
過ごした時間は、栄光より挫折の方が長い人生。競争の激しいJクラブのユースと大学、生き馬の目を抜くプロの世界、転げ落ちていってもおかしくないタイミングはいくらでもあった。それなのに、である。
27歳という年齢で開眼した理由について「ハマのGT-R」と呼ばれるFWは、超攻撃サッカーで特長がハマった横浜FMのアンジェ・ポステコグルー監督との出会いとともにもう一つ、「マインドが180度変わった」という経験を挙げた。
「中学生の時だったかな。(川崎の)ジュニアユースのフィジカルコーチに『もう、お前は身長伸びない』ってはっきり言われたんです。当時から小さかったけど、少し期待していた部分はあった。なんとか167センチくらいになってくれないかな、と。でも、バシッと初めてはっきり言われたので、大きい選手に当たり負けない体を作って勝負できる選手になっていこうと決めました」
原点となったのは、中学時代の経験。体の小さい自分は「速さ」を「強さ」に変えるしかなかった。選択肢が限られる分、生き抜く術がシンプルになった。描く選手像に迷いはない。たった一つの武器を信じ続けたことが、飛躍のベースにある。
ただ、川崎ユースに上がった高校時代は「日本代表入り」を夢見ていたが、目標だったトップチーム昇格はならず。大学時代は大怪我、プロ入り後も2度のレンタル経験と、遠回りの道のり。青のユニホームをまとう夢との距離は、常にあった。
それでも、決して腐ることはなかった理由について「自分はホント、ネガティブにならず、すべてをポジティブに捉えるようにしているので、そこは大きかったかな」と振り返る。
「怪我した時も一日でも早く復帰できるように練習に励んだし、マリノスで試合に出られなかった時もレンタルに出て、いつかではなく、すぐに結果を出して、怪我をしているのにオファーをくれたマリノスに恩返しをしたいと、心の中にとどめて。その恩返しを探し続けながら、サッカー選手として人間として成長していこうと考えながら過ごしていた。そんな、ここ3、4年ですね」
「誰かのために」を思い、自分の武器と自分の夢を信じる。まだ埋もれていた時代、仲川を支えていたのは、この構図だった。
周りと自分を比較して生まれる焦り、宇佐美&柴崎らの存在をどう見たのか
しかし、どれだけ自分の才能を信じていても、周りと自分を比較すれば焦ってしまうもの。例えば、同じ程度の実力と思っていたライバルがきっかけを掴み、先に活躍の舞台を得ていく。中高生世代であれば、焦りはなおさらだ。
仲川自身も、そんな境遇を味わってきた。同じ92年生まれは「プラチナ世代」と言われ、宇佐美貴史、柴崎岳ら逸材がひしめき、特に若い年代から海外に飛び出して活躍していた。
「正直言うと、悔しかったですよね」と、本人は率直な思いを打ち明ける。
「彼らは憧れでもあったし、でも超えてなきゃいけないと思った。早くに海外に行って試合に出ている。それに負けないように努力し続けないと、この先はないし、自分の夢である日本代表もないと思った。なんで自分はそこまで行けないんだろうという葛藤もあったけど、それを発破にして、自分は彼らより何十倍も努力しないと追いつけない、練習するしかないと思っていました」
その過程で「日本代表」という夢が揺らぐことはなかったのか。そう問うと「それはなかったです」と言い切る。「どんな時も日本代表になるために何をしなければいけないか、逆算しながら学生生活を過ごしていたし、プロになってレンタル先でもずっと考えていたことだったから」。自然と言葉に力がこもっていた。
遠回りで花開いたサッカー人生。昨季の活躍で一躍、子供たちから憧れられる存在となったが、そんな自身の経験と思考を次世代に伝える機会があった。6月25日、登場したのは「オンラインエール授業」なるものだ。
「インハイ.tv」と全国高体連が「明日へのエールプロジェクト」の一環として展開。インターハイ中止により、目標を失った高校生をトップ選手らが激励し、「いまとこれから」を話し合おうという企画で、現役の日本代表ストライカーが“先生”になった。
印象的だったのは、大学時代に大怪我を負った日のエピソード。プロ入りを目前に控え、さぞ傷ついたのではないかと思いきや、本人は「落ち込んだのは1日だけ。翌日だけ、家でしょぼーんとしていたかな」と笑う。その理由が、仲川らしかった。
「その翌日には、いかに早く練習ができて、サッカーができる体に戻せるかを考えていた。ずっと落ち込んでいても、何も状況は変わらない。すぐに切り替えること。試合で失敗した時も一緒。失敗することはいいことだと思うし、次の成功にどうつなげていくかを考えながら、今もやっている。怪我をした時も、怪我する前よりひと回りパワーアップすることを目標にしていました」
落ち込んでいても、何も変わらない――。それは身長の問題も、そうだ。背が小さい選手へ向け、仲川は「自分も悩んでいたことはあるけど、悩みを捨てることで、いかに強みを伸ばすかという思考に変えていってもらいたい」と言い、さらに「このプレーなら絶対に負けないというものを今からでも見つけ出せれば、プロサッカー選手になることも可能だから」と背中を押した。
今回のインタビューを行ったのは、その授業後のこと。今はまだ、周りに後れながらも「将来は絶対にプロになりたい」「日本代表として戦いたい」と、かつての仲川のように大志を抱いている中高生はどんな思いを持つべきか。本人に聞いた。
「自分が好きな言葉は『努力』と『向上心』。周りに負けているなら周りより努力しないと上手くならないのは当たり前のこと。専大では向上心という言葉を大切にしていた。当時は朝7時から1時間から1時間半くらいしか練習ができない環境。その中でいかに成長できるか、一日一日上手くなるために一秒たりとも無駄にしてはいけないと思って意識高く練習していたから上手くなれた。
あとはサッカーを楽しむということは絶対に忘れてはいけない。いくら自分が上手くなりたいといっても、サッカーはチームでやるもの。一人では絶対にできない。だから、楽しくサッカーをしていないとチームの士気が下がるし、一人が欠けるとチームとして持たなくなることがある。楽しんでサッカーをやることを第一にして成長してほしい。それは学生のみんなにも伝えたい」
他人の能力を羨んでいても、自分の境遇を憂いていても、才能は伸びない。身体的な不利、大きな怪我、どんな逆境も乗り越えてきた遅咲きの男の言葉は、それを教えてくれる。
回り道をしたから見られる景色「腐らないことの大切さを知った」
近年は若い才能が次々と芽吹いている。例えば、18年に横浜FMで一緒にプレーした久保建英は19歳にして世界最高峰のスペインリーグで活躍している。
「羨ましいですよ、それは」と笑った28歳は「あの歳でリーガで普通にプレーできちゃっているし、凄い選手になるとは分かっていたけど、ここまで速いスピードは『ちょっと、ちょっと』という感じもありますよ」と言う。
もちろん、成長の早い遅いに良し悪しなどない。ただ、周囲より回り道をしながら歩み、いろんな景色を見てきたサッカー人生だったから、得られたこともあると信じている。
「自分の経験からすると、マリノスに入って練習もろくに参加できない時間の方が長かった。1年目は怪我をしていて、活動できたのは2か月くらい。次の年からキャンプに参加したけど、11対11(の22人)でやる紅白戦にも入れない。そんなレベルが2~3年続いて、試合に出たいという気持ちがあったレンタル移籍という選択をした。ただ、練習に参加できない、試合に出られない、そんなことは関係なく、絶対腐らないことだけは守っていました。
ろくに練習すらできなかった立場なので、腐らないことの大切さを知ることができた。サッカーが好きだから、腐らなかったのはあると思うけど、人によっては真面目に練習しなくなってしまうとか、深い時間まで夜遊びをして朝の練習にいいコンディションで臨めないとか、そういうこともあるから。その中で、自分は腐らないで練習してきたことが今につながっているし、それが27歳という年齢でMVPにもなれた要因と、僕は思っているので」
人生は栄光だけで埋まるほど短くなければ、挫折だけで終わるほど長くもない。雌伏の時を経て、輝き始めたサッカー人生は27歳だった2019年に本当の幕開けをしたと言っていいだろう。
昨季の活躍からリーグを代表する“顔”の一人になり、自覚は深まった。
「自分にプレッシャーをかけているのは確かで、プレッシャーを楽しんでもいる。さらに気を引き締めないと思うし、実際に気は引き締まったと思う。その中で、もっと『仲川輝人』を世の中に出していければいいと思っています」
コロナによる中断を経て、再開したJリーグ。果たして、仲川輝人のプロフィールには2020年以降、どんなキャリアが刻まれるのか。残された余白に加わる一文一文が、まだ見ぬ才能にとっての希望となる。(THE ANSWER編集部・神原 英彰 / Hideaki Kanbara)