サッカー名将列伝第9回 エメ・ジャケ革新的な戦術や魅力的なサッカー、無類の勝負強さで、見る者を熱くさせてきた、サッカー界の名将の仕事を紹介する。今回は、1998年にフランス代表を初のワールドカップ優勝に導いたエメ・ジャケ。当時、メディアの厳…
サッカー名将列伝
第9回 エメ・ジャケ
革新的な戦術や魅力的なサッカー、無類の勝負強さで、見る者を熱くさせてきた、サッカー界の名将の仕事を紹介する。今回は、1998年にフランス代表を初のワールドカップ優勝に導いたエメ・ジャケ。当時、メディアの厳しい批判を受けながらも独自のチームづくりを貫き、結果を出した監督だ。その手法は前大会のワールドカップで2度目の世界一に輝いたフランス代表にも受け継がれている。
カントナのいないチームで攻撃の中心になったのは、ジネディーヌ・ジダンとユーリ・ジョルカエフだが、このふたりを同時に起用することも少なかった。ベストメンバーがどれで、システムがどうなるのか、まるで見当がつかなかった。
とどめはワールドカップメンバー22人を発表する日に、28人を発表したことだ。まだ登録期限前だったとはいえ、メディアと国民に告知する記者会見で6人も多い選手を発表して、「優柔不断」という印象は決定的になっている。
ただ、まったく一定しないメンバーとシステムで試合を重ねても、フランスはほとんど負けていない。「親善試合の世界チャンピオン」と皮肉られもしていたが、ブラジル、ドイツ、イタリア、オランダといった強豪相手に負けなかったのは事実である。
また、4バックをリリアン・テュラム、ブラン、デサイー、ビセンテ・リザラズで組んだ試合は不敗で、2年後の00年ヨーロッパ選手権までそれはつづき、ついに1敗もしないままだった。
強固な守備を基盤としたチームづくりは、結果的に大成功だったと言える。また、「優柔不断」の批判も実は当てはまらない。「ジャケは信念がない」とも言われたが、それは完全な誤解だろう。言わば、「決めない」という信念を貫き通したからだ。決めなかったのは確かだが、決断力がないというより「決めないことに決めていた」のだ。
<実験を繰り返す手法>
ジャケ以前のフランスはテクニカルで攻撃的だった。それがフランスらしさだと思われていた。脆さも内包していたが、それもまた「らしさ」と考えられていた。
ジャケ監督は従来の「フランスらしさ」に価値を置かず、新たなフランスらしさを手に入れている。移民系選手のフィジカルの強さを前面に押し出し、強固な守備をベースにしたプレースタイルに変換した。
強化方針もその後に影響を与えている。メンバーを固定せず、実験を繰り返す手法だ。メンバーを固定化して連係を深化させる従来の方針を採っていない。1回試せば、それで終わり。よくても悪くても繰り返さない。
強化期間が長いわりには強化日数をほとんど取れず、招集して、試合をして、解散というサイクルの代表チームにおいて、特定のメンバーに依存した特定のプレースタイルに重きを置いていなかった。4年という長いスパンは、深化させ完成させたチームを維持できなくなる危険をはらんでいるからだ。実験をつづけたのは「可能性」を探るためだったと思う。
1つのチームを深化させるのではなく、さまざまな選手の組み合わせによる可能性を探る。チーム力は右肩上がりにはならないが、どんな相手、状況にも対応できる手はつくっておく。最終的に22人を選抜したあと、ジャケは4-3-2-1と4-2-3-1の2つにシステムを絞り込んだ。
出自がさまざまな選手で構成されるフランスは、多様性のシンボルとなったが、ジャケは台頭していたニコラ・アネルカを最終メンバーから外している。結束を重視し、内紛のもとになりそうな要素を注意深く排除した。もちろんカントナも選ばなかった。
18年に2度目のワールドカップ優勝を成し遂げたデシャン監督のチームづくりは、ジャケと非常によく似ている。多様性、結束、あえて固定しないスタイル......ジャケ以降の「フランスらしさ」だった。
エメ・ジャケ
Aime Jacquet/1941年11月27日生まれ。フランス・ロワール県出身。現役時代はサンテティエンヌやリヨンでプレー。監督としては80年代にボルドーでリーグ優勝3度とクラブの黄金期をつくった。93年にフランス代表監督に就任。98年、自国で開催されたワールドカップでフランスを初優勝に導いた。その後は長くフランスサッカー協会のテクニカル・ディレクターを務めていたが、06年に引退している