力道山の妻が語る「馬場・猪木」の記憶 前編後編:アントニオ猪木への”指導”の裏にあったもの>> 1953年(昭和28)年の7月30日、力道山(本名・百田光浩、出生名・金信洛)が中心となって日本プロレス協会が結成さ…

力道山の妻が語る「馬場・猪木」の記憶 前編

後編:アントニオ猪木への”指導”の裏にあったもの>>

 1953年(昭和28)年の7月30日、力道山(本名・百田光浩、出生名・金信洛)が中心となって日本プロレス協会が結成されてから67年が経った。

 力道山は、生まれ故郷の朝鮮(現・北朝鮮)でスカウトされ、15歳で大相撲の二所ノ関部屋に入門。関脇まで昇進しながら昭和25年の九月場所前に引退し、建設会社への勤務を経てプロレスラーに転身した。




戦後にプロレスラーとして絶大な人気を誇った力道山(写真/妻・田中敬子さん提供)

 日本プロレス結成翌年の昭和29年2月19日には、柔道家の木村政彦と組んでシャープ兄弟と闘った蔵前国技館での一戦が、放送が開始されて間もないテレビの電波に乗った。外国人レスラーを必殺の空手チョップでなぎ倒す雄姿は、戦争で傷ついた国民に光を与えた。

 爆発的なプロレス人気を巻き起こし、国民的なヒーローになった力道山は、昭和38年6月、当時22歳だったキャビンアテンドの田中敬子さんに熱烈なプロポーズをして結婚。しかし――。同年12月に暴力団員に刺されたケガが原因で、39歳の若さで急逝した。

 今回、わずか半年間だけ「力道山の妻」になった敬子さんに当時のことを聞くことができた。今でも夫が遺したさまざまな言葉や思い出は鮮明に覚えているそうで、亡くなる直前には、敬子さんに「あと3年でプロレスをやめる」と打ち明けていたという。引退後は事業に専念し、実業家として日本の発展に貢献する理想を描いていた。

「主人は、弟子たちが体を壊したり、レスラーとして食べることができなくなった時を考えて、ゴルフ場やスポーツランドをこしらえるなど、事業を広げていたんです。選手にも、よく『俺が一生面倒みるから気にするな』って言っていましたよ」

 自らが発展させたプロレスという文化がさらに隆盛していくよう、後進の育成にも務めていた。中でもスター候補として期待したのが、昭和35年4月に入門した馬場正平。のちのジャイアント馬場だった。

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当時の力道山と敬子さん(写真/妻・田中敬子さん提供)

 馬場は、新潟の三条実業高校を中退し、17歳でプロ野球の読売ジャイアンツに入団。2メートルを超す長身の投手として期待されたが、一軍登板は3試合のみという成績で入団5年目の昭和30年に戦力外になった。その年に大洋ホエールズ(現・横浜DeNA)に移籍するも、明石キャンプの風呂場で転倒したケガにより引退する。

 馬場はレスラー転向を決意し、力道山の元を訪れて弟子入り。力道山も、馬場のずば抜けた体格、「元巨人」というブランドにほれ込んだ。敬子さんも「主人は、最初から馬場さんをスターとして育てるつもりだったと思います」と明かしたように、デビューから1年あまりで”出世コース”のアメリカ遠征を命じる。すると馬場は、本場のマットでメインを張るまでに成長した。

 敬子さんが力道山と結婚した当初、馬場はアメリカ遠征中で面識はなかったが、「家で団体の幹部の人を呼んで会議をする時なんかは、よく『馬場は頑張っているか。どうしている』と気にかけていました」と振り返る。夫の亡き後になって、日本プロレスのエースになった馬場との交流が生まれたが、一番の思い出は麻雀だという。

 当時、日本プロレスの事務所は東京・代官山にあった。夫の跡を継いで社長に就任した敬子さんだったが、ほどなく退任し、顧問として団体を見守った。事務所の中には「麻雀部屋」があり、この頃に会社へ行くと、馬場は幹部社員、経理士らと頻繁に卓を囲んでいたという。

「馬場さんは麻雀が好きで、よく事務所に来てやっていましたよ」という敬子さんは、馬場が麻雀に興じる姿を傍で見ているだけだったが、そのうちにルールを自然に覚えて、一緒に卓を囲むようになった。

 穏やかで冷静な馬場の性格は麻雀の手にも現れていたようで、「性格そのままの慎重派でしたけど、強かった」そうだ。それ以上に強烈な印象として残っているのが、あの大きな手だった。

「当時は全自動卓なんかありませんでしたから、すべて手で牌を混ぜるんですけど、あの大きな手で牌を回すんです。みなさんと『牌を2つ持っていってもわからないね』なんて笑っていました」

 私生活で「麻雀仲間」だった馬場に、新居を紹介したのも敬子さんだった。馬場は巨人時代から、のちに結婚する元子夫人と人知れず交際していた。実は、兵庫県明石市に住む元子夫人の両親が馬場との交際に猛反対しており、馬場が日本のマットに定着してから、元子夫人は実家を飛び出して東京で同棲していた。

 そんな2人に敬子さんが斡旋したのは、力道山と敬子さんが暮らしていた赤坂の「リキ・アパートメント」の一室だった。地上8階のアパートメントは、力道山が敬子さんと結婚する直前の昭和38年に完成。力道山は大田区池上の豪邸から引っ越し、最上階の8階すべてを住居にした。

 力道山の急逝後、敬子さんは住んでいた8階をいくつかの住まいに分割し、賃貸マンションとして貸し出した。8階には直通の専用エレベーターが設置され、中庭にはプールがあったという。そこには当時、絶大な人気を得ていた俳優の伴淳三郎、田宮二郎ら多くの著名人が住んでいたが、「もっとも豪華な住居を馬場さんに貸した」という。

 師匠・力道山が住んでいた場所で元子夫人との事実上の新婚生活を始めた馬場は、その後、日本プロレスを退団して昭和47年10月に全日本プロレスを旗揚げ。ほどなくして馬場夫婦は住まいも広尾に移し、昭和57年には結婚を公表するが、夫妻の原点には敬子さんの存在があったのだ。

 そんな馬場との秘話を明かした敬子さんだったが、「実は、主人は馬場さんよりも、猪木さんを気にかけていたんです」と続けた。

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