根本陸夫外伝〜証言で綴る「球界の革命児」の知られざる真実連載第14回証言者・島田正博(2) 根本陸夫を「オヤジ」と呼んだのは、野球人だけではない。かつて、西武の名物マネージャーとして知られた島田正博もそのひとりだった。それは根本が"裏方"ま…
根本陸夫外伝〜証言で綴る「球界の革命児」の知られざる真実
連載第14回
証言者・島田正博(2)
根本陸夫を「オヤジ」と呼んだのは、野球人だけではない。かつて、西武の名物マネージャーとして知られた島田正博もそのひとりだった。それは根本が"裏方"まで可愛がっていた証とも言えるが、元・国土計画の社員だった島田は当初、野球界の常識を知らなかった。
西武球場の広報を3年間務めた島田が、二軍マネージャーに就任して1年目の1982年2月、高知・春野キャンプ。初めてプロ野球チームの現場に携わった途端、戸惑いがあった。とりわけ、首脳陣の行動が理解できず口論になった。島田がその時を振り返る。
監督としては結果を残せなかった根本陸夫
「オレはどちらかと言えばサラリーマンの一般常識でものをしゃべる。コーチ連中は野球界の常識でしゃべる。ものすごいギャップがあって、あの頃、オレもまだ若かったから、『それは違うでしょー!』って怒ったことがあったんです。そしたら、あるコーチに『島田、ちょっと来い!』って怒鳴られて......。『おまえはどんなつもりでいるんだ?』って散々、怒られました。
怒られても意味がわからない。細かい内容はもう覚えていないのですが、『この人たち、なんてわがままなんだ?』と思ったのはたしかです。それで頭に来て『オヤジならわかってくれる』と思って根本さんに電話したら、またそこで怒られてね」
一般社会では非常識でも、野球界では常識──。すべて納得するまで数年かかったというが、それでも島田は根本に頼りにされた。たとえば、絶不調に陥った選手がいると、どこか気分転換できる場所に連れて行くように言われる。あるいは選手の行きつけを尋ねられ、思い当たる店を教える。同年からフロント入りした根本にとって、チームの情報源になっている面もあった。
「あの頃の二軍マネージャーって、ありとあらゆることをやる必要がありました。やっぱり、若い選手はいろんな面でトラブルを起こしがちですから、医者や警察、弁護士といった人たちをとにかく押さえておかないといけない。選手の行動半径はもとより、健康状態を把握しておく必要もありました。時には"反社"がからんだ事件も起きて大変でしたよ」
ファームのある選手が所沢市のスナックで飲んでいる時、腕に墨が彫られた男と殴り合いのケンカになりながら、表沙汰にならずに済んだことがあった。この事件、一夜のうちに根本が解決したと伝えられているのだが、じつは陰で島田が動いていた。
「ケンカもそう、女性関係もそう。本当に面倒だったけど、たまたま対処できる人間を知っていたから事なきを得たんです。あとは交通事故、交通違反と......、写真週刊誌の女性問題もあったな。あれは出版社から事前に連絡が来るので、そこで『ちょっと待て』と、写真を差し替えてもらう。その借りをつくったら返さないといけないわけだけど、返したのかどうか(笑)」
一方で、二軍の現場では、根本の行動を疑問に感じる時もあった。しばしば練習の視察に来るのはいいとして、行きすぎた指導がなされていた。
「ひょこっと来て、若いピッチャーをつかまえて教えるんです。それで暗くなるまで投げさせる。当然ですけど、コーチは嫌がってね......。で、投げさせられた選手は誰も伸びていない。かえって潰れるんじゃないかと思っていました。
たしかにオヤジは選手を集めるのがうまくて、選手を伸ばすためのコーチを育てるのもうまかった。でも、本人が技術を教えたらダメ。監督としての采配もダメでしたね。100年やっても勝てないですよ。戦術がいい加減だから」
西武監督の1年目、根本は開幕当初から三塁に山村義則、遊撃に大原徹也を起用し続けた。いずれもミスが目立ち、守りで大きな穴になっているにもかかわらず代えない。若手成長株だった遊撃の真弓明信は阪神に移籍し、内野のリーダーになるはずだった二塁の山崎裕之が負傷離脱中という事情もあった。
とはいえ、引き分け2つをはさんで開幕12連敗となっても代えないのを見て、島田は「何やってんだ、このオッサン......」と思っていた。のちに一軍マネージャーとして監督の東尾修に仕え、ベンチ入りしてからは「根本監督では勝てるわけがなかった」と気づかされた。
「東尾には勝負師の勘がありました。たとえば、ピッチャーの交代とか代打とか。ベンチの選手たちが『ここで代打? 違うだろ』とか小声で言ってる時があるんです。でも、そこで成功すると『やっぱり監督は大したもんだな』ってなる。根本のオヤジにはそういうのがないですから。オレみたいな素人にもわかるぐらい、はっきり違いました」
1981年10月、監督を辞して球団管理部長となった根本が、ヤクルトを初優勝に導いた広岡達朗を新監督に招聘した。この時、島田は「これで勝てるな」と確信したという。
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実際に同年は西武として初の日本一を達成し、年々強化されたチームは常勝軍団になっていく。その間、島田は徐々に根本の存在の大きさを感じることになる。
「ファームなのに、キャンプでも試合でも、やたらと客人が多いんです。とくに、広島時代からオヤジの子分だった岡田悦哉さんが二軍監督の時は。みんな"根本陸夫の関係者"ですよ。試合で地方に遠征すると、必ず『知り合いです』って地元の人が来る。いちいちおべんちゃらを言わないといけなし、面倒だなあと思いながら、これが人脈なんだと思い知らされました」
全国に6000人とも言われた"根本人脈"。近鉄のスカウトだった当時、逸材を探し求めて各地を回ったことが始まりだった。
訪れた高校だけでも1000校近くにのぼり、必然的にそれぞれの地域で球界以外の「知り合い」も増えていく。それが根本にとって貴重な情報源となり、大きな財産になった。まして、西武では新たな情報網を自らつくっている。
根本は毎年、引退した選手全員に「家族証」を送った。西武球場へのフリーパスだが、球団OBにとっては西武に在籍した証となる。各地元で飲食店経営や営業職など他業種に転身しても、客であれ、取引先であれ、元選手と気づいた相手にパスを見せる。野球話に花が咲くうちに「地元の逸材」の話が出れば、OBは自費でその選手を見に行き、球団に動向を知らせてくれるのだ。
つい最近、巨人が「OBスカウトを発足する」と発表した。全国各地の球団OBに有望選手の情報提供など協力を求め、正規のスカウト活動につなげるという。対象は少年野球チームの指導に当たっているOBで、<日本球界初の取り組み>と報じられたが、形は違えど、西武は約40年前から実践していたわけである。
ともあれ、これらの情報網が新人獲得戦略に生かされ、球団の黄金期を築くことにつながっていった。その間、根本が以前にもまして「怖いもの知らず」になっている、と島田は感じていた。時代が昭和から平成に移り変わった頃、ひとつの事件が起きかける。
「西武球場での一軍の試合開催日です。昔あった第三球場で『高校生を見る』ってオヤジが言い出したんです。プロ、アマの関係がよくなりかけていた時だけに、もう、ちょっと勘弁してくれ......と思って、オヤジに泣いてすがって『やめてくれ』って言いました。そしたら『オレが新聞記者に言えば、書きはせん』と返された。怖いもの知らずだから平気なんですよ」
つづく
(=敬称略)