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MotoGP最速ライダーの軌跡
ホルヘ・ロレンソ 中

世界中のファンを感動と興奮の渦に巻き込んできた二輪ロードレース界。この連載では、MotoGP歴代チャンピオンや印象深い21世紀の名ライダーの足跡を当時のエピソードを交えながら振り返っていく。 4人目は、ホルヘ・ロレンソ。向こう気と愛嬌をもち、人間味あふれる王者の歩みをたどっていく。

 ホルヘ・ロレンソが2008年に最高峰のMotoGPクラスへステップアップしたことは、ゴシップ好きな欧州レースメディアにさまざまな話題を提供した。



2008年、開幕戦カタールGPでMotoGP初表彰台を獲得したホルヘ・ロレンソ

 06年と07年の2シーズンに中排気量250ccクラスを圧倒的な勝利数で連覇した事実は、最高峰の昇格に十分過ぎる実績で、誰にも否やはなかった。注目を集めたのは、ロレンソが所属を決めたヤマハファクトリーチームには、MotoGP界の生ける伝説、バレンティーノ・ロッシがいることだった。

 スーパースターのロッシは、一挙手一投足が大きな注目を集め、その発言は大きな影響力をもつ。また、彼は時々のライバルに対して強烈な闘争心を掻き立てることで、己のモチベーションを高く保つ傾向も広く知られている。

 08年当時のロッシは29歳。最高峰クラス9年目のシーズンで、体力・知力・経験の全てが、いわば脂ののりきった絶頂期だった。一方のロレンソは、中排気量クラスを連覇してこれから最高峰へデビューしようという21歳の若者である。

 ヤマハが、ロッシの次の時代を担うライダーを必要としていたのは事実だ。ロレンソをファクトリーチームに抜擢(ばってき)した理由のひとつでもあった。ロッシ自身も、それを敏感に察知していた。だからこそ、自分の地位を脅かしかねない若いロレンソの台頭を警戒し、敵愾心(てきがいしん)といっていいほどの露骨なライバル意識をあらわにした。

 このシーズン、ロッシはブリヂストンタイヤを装着し、一方のロレンソはミシュランタイヤを使用していた。その背景の事情については、少し説明の必要があるかもしれない。

 ヤマハへ移籍してきた04年と05年にチャンピオンを獲得したロッシは、06年はニッキー・ヘイデンに、07年はケーシー・ストーナーにタイトルを奪われていた。08年こそは、何としてでも王座を奪還しなければならない重要なシーズンだった。そのために、ロッシは使用タイヤをミシュランからストーナーと同じブリヂストンへスイッチした。これは、昨年度王者と同一条件で争えば、自分は絶対に負けないという強烈な自信の表れでもあった。

 一般的に、タイヤメーカーはチームと供給契約を結ぶため、1チームに選手が複数人いる場合は、全員が同じタイヤを使用する。しかし、08年のヤマハファクトリーチームは、ロッシがブリヂストンへ鞍替えし、チームメイトのロレンソは従来どおりにミシュランを使用するという変則的な体制になった。

 これに伴い、チームのピットガレージは、両選手の間が、高い衝立(ついたて)で仕切られることになった。異なるタイヤメーカーの情報をそれぞれ秘匿するためだ。しかし、同時にその衝立は、ロッシがロレンソに抱くライバル意識と、その反作用としてロレンソからロッシに向けられる対抗意識という、ふたつの強い個性を衝突させない緩衝材として、「壁」の役割も果たしていた。

 実際に、ロレンソは最高峰クラスにデビューした瞬間から、ロッシが強烈に意識せざるを得ないほどの高いパフォーマンスを発揮した。



MotoGPデビュー時から実力を見せつけたロレンソ

 デビュー戦の開幕戦カタールGPから第3戦のポルトガルGPまで、3連続ポールポジション。レースリザルトは、デビュー戦で2位表彰台、第2戦で3位、そして第3戦ではついに優勝。ロッシが警戒するのも当然であることを、自らの走りで証明してみせた格好だ。

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 しかし、好事魔多しというとおり、次の第4戦中国GPでは派手なハイサイドクラッシュで左右の両足を負傷。しかし、そんな満身創痍(そうい)の状態でも、ロレンソはチームスタッフの手を借りてマシンにまたがり、決勝レースに臨んだ。結果は4位。

 この年にチームの総監督を務めていたヤマハ発動機の中島雅彦は「シーズン序盤の活躍、3連続ポール(ポジション)から3戦目で勝ってしまう適応力の高さには驚いた」と述べ、さらに中国GPでの転倒についてはこう話した。

「下のクラスから上がってきた若いライダーを今まで何人も見てきたけれど、1年目は大抵、壁にぶち当たるものなんですよ。序盤3戦の走りには驚きましたが、でも、やっぱり『ああ、その壁はやはりホルヘにもあったんだなあ』とも思いました」

 その後、ロレンソは第11戦U.S.GPの際にも派手なハイサイドを喫して転倒し、レースを1周目でリタイアした。その時がロレンソにとって、「おそらくシーズンの底だったのだろう」と中島は言う。

「ケガをしてうまくいかない時期が長引くと、落ち込んでなかなかはい上がれないものだけど、さすがに250ccクラスでチャンピオンになったのはダテじゃない。ホルヘのただものではない精神力の強さを感じましたね」

 ロレンソは、この5年後にさらに強靱な精神力を見せる。13年のオランダGP初日に転倒して、左鎖骨を骨折。以後のセッションはキャンセルすると思われたが、夕刻にバルセロナへ飛んで夜に手術を敢行。チタンプレートを挿入して8本のスクリューで固定し、翌日にはサーキットへ帰還した。そして、決勝日午前のドクターチェックで走行可能との診断を得て、決勝レースに参戦。5位で完走を果たしたのだ。

 レース終了直後に、中島はピットボックスで憔悴(しょうすい)しきったロレンソの傍らへ歩み寄った。「おまえはヒーローだよ……」、感極まった中島には、ひとこと言うのが精一杯だった。

 デビューイヤーの08年に話を戻す。ロレンソは年間ランキング4位で1年を終え、タイトルはロッシが獲得した。翌09年は、全選手のタイヤがブリヂストンのワンメークになり、ロレンソは完全にロッシと同一条件のマシンパッケージになった。そして、最高峰クラス2年目の習熟とも相まって、彼らはチームメイト同士で激しいタイトル争いを繰り広げてゆく。チャンピオンを争う直接のライバルになったことにより、ふたりの関係はさらに一触即発の度合いを高めていった。

 09年のカタルーニャGPは、ふたりのそんな張り詰めた緊張関係を象徴するレースになった。

 勝負は、ロレンソとロッシの2台があっさりと後続を引き離し、トップを入れ替えながらバトルを続ける一騎打ちになった。最後の2周は、ロレンソがロッシの前を奪うと即座にロッシも反応するという固唾を呑む展開だった。そして、最終ラップの最終コーナーで、前にいたロレンソが最後も抑え切るかと見えた、その一瞬。ロッシがイン側へ飛び込んでコーナーを先に立ち上がり、0.095秒差先にチェッカーフラッグを受けた。

 シーズンの推移も、まさにこのレース同様に緊迫した展開になった。最後はロッシがロレンソを凌ぎ切って、通算9回目の世界タイトルを獲得した。

 だが、10年はロレンソのシーズンになった。年間18戦中9勝。表彰台を逃したのは2レースのみ。しかも、その2レースとも4位でゴールという高い安定度で、チャンピオンの座に就いた。タイトルを決めたのは最終戦4戦手前の第15戦マレーシアGP。圧倒的に優勢なシーズンだった。

 王座に就いたマレーシアGPの決勝日夕刻、ロレンソはチャンピオン獲得の記者会見を終えると、チームマネージャーのウィルコ・ズィーレンベルグを壇上に呼んだ。2人はいきなり壇上で、クイーンの『We Are The Champions』を歌い始めた。やや調子っぱずれな声がなんとも微笑ましく、彼らの人柄の一面がうかがえるような気がする、そんなひとときだった。

 一方、10年をランキング3位で終えたロッシは、自他共にエースライダーと認められていたヤマハファクトリーチームを離れ、ドゥカティへ移籍した。 (つづく)

【profile】 ホルヘ・ロレンソ Jorge Lorenzo
1987年5月4日、スペイン・マジョルカ島パルマ・デ・マジョルカ生まれ。幼少期からミニクロスのレースに参加。2002年に競技規則の出場最年少15歳の誕生日を迎えると同時に、125ccクラスに出場し、グランプリデビューを果たす。05年に250ccクラスにステップアップし、06年、07年の2年連続で年間王者に輝いた。08年、最高峰MotoGPに参戦。10年、12年、15年にタイトルを獲得した。19年に引退。