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MotoGP最速ライダーの軌跡
ホルヘ・ロレンソ 上

世界中のファンを感動と興奮の渦に巻き込んできた二輪ロードレース界。この連載では、MotoGP歴代チャンピオンや印象深い21世紀の名ライダーの足跡を当時のエピソードを交えながら振り返っていく。
4人目は、ホルヘ・ロレンソ。向こう気と愛嬌が印象的な人間味あふれる王者の歩みをたどっていく。



2005年に250ccクラスにステップアップしたホルヘ・ロレンソ

 ホルヘ・ロレンソが、己のライディングを顧(かえり)みる大きな転機になったレースは、2005年の日本GPだったという。

 この年は、125ccクラスから250ccクラスへステップアップした最初のシーズンだった。日本GP当時の彼は、優勝こそまだ経験していなかったものの、ポールポジションと表彰台はともに複数回獲得していた。中排気量でのレース初年度だったが、小排気量時代から培ってきた自分に対する自信がどんどん深まっていた時期だった。

 ロレンソはこの時期すでに、後年に彼の代名詞になる”Por Fuera”(ポルフエラ:大外からのオーバーテイク)を、自らのキャッチフレーズとして標榜していた。そして、レース中は相手選手と接触するような強引なバトルも平気で仕掛けていく傍若無人な乗り方を自分の「スタイル」としていた。その荒っぽいライディングは批判も少なくなかったが、「それならば実力でねじ伏せてみろ」とばかりに反発を示し、他のライダーや関係者からの苦言にもあまり聞く耳をもっていなかった。

 そんな矢先に、日本GPの決勝レースでアクシデントが発生した。

 秋空のツインリンクもてぎで、ロレンソはライバル選手たちと三つ巴の激しい2位争いを繰り広げていた。緊密なバトルが最高潮に達した最終ラップ、バックストレート手前の右へ小さく旋回するヘアピン進入の際、強引に後方からイン側へマシンをねじ込もうとした時だった。減速が十分でなく、左斜め前にいたマシンを大きく弾き飛ばす格好になって自分自身も接触で転倒。リタイアとなってしまった。



250ccクラス時代のロレンソ

 過失を重く見たレースディレクションは、ロレンソの次戦参戦を取り消す処分を下した。出場停止処分期間中に、スタイルと自負していたはずのライディングや勝負の方法について、「果たして妥当なものであったのか」と、ロレンソは熟慮し、真摯に反省した。その結果、「クリーンなファイトスタイルに切り替えなければならない」という結論に至った。

 このエピソードは、後年になって他のライダーから危険な勝負を仕掛けられた場合に、必ずといっていいほど自らの転換点としてロレンソは例に挙げた。「二輪ロードレースは格闘技のようなコンタクトスポーツではない」、「ほんの少しのミスが重大な事故につながる可能性もあると認識しなければならない」と、相手に対して猛省を促した。

 彼自身についていえば、当時の反省を経た結果、クリーンなファイトを信条としながらも向こう気の強さと克己心をも併せ持つユニークなスタイルの選手へ成長していった。

 そんなロレンソが、グランプリシーンに初めて登場したのは02年。最高峰クラスが2ストローク500ccから4ストローク990ccのMotoGPへ移り変わった節目の年だ。

 同年のシーズンは、鈴鹿サーキットの日本GPで開幕した。ロレンソは125ccクラスのデルビファクトリーチームからエントリーすると公表されていたが、ピットボックスに彼の姿はなかった。当時まだ14歳で、ルールが定める参戦最低年齢の15歳に達していなかったためだ。

 第2戦の南アフリカも欠場。ようやく世界選手権のデビューを果たしたのは、地元グランプリの第3戦スペインGPだった。15歳の誕生日を迎えた土曜のセッションから、晴れて走行が可能になった。このレースは22位で完走。以後も、経験豊富な選手たちに揉まれながらポイント圏内に届くか届かないかというレースが続き、年間ランキング21位でデビューイヤーを終えた。

 翌03年も、シーズン序盤から転倒リタイアや、完走してもポイント圏外のレースが続いた。つまり当時の彼は、よくいる未熟な若手ライダーのひとりで、決して強い存在感を発揮していたわけではなかった。そんな状態だったロレンソが、その名を一気に世に知らしめたのは同年第12戦のブラジルGPだ。

 この連載のケーシー・ストーナーの回でも記したが、その時の125ccクラス決勝レースは、ロレンソやストーナー、ダニ・ペドロサ、アンドレア・ドヴィツィオーゾという後に最高峰クラスで好敵手として激しい戦いを繰り広げる顔ぶれがそろい、コーナーごとに順位を入れ替えるバトルを最終ラップまで続けた。緊張感に満ちた大接戦を制したのが、ロレンソだ。今まで一度も表彰台を獲得したことのない少年が、125ccクラスのトップライダーたちの争いに割って入り、優勝をしたのだから、パドック中のレース見巧者(みごうしゃ)たちが驚いたのも無理はない。

 ロレンソはこの快挙により、注目を集めるライダーの一角に浮上した。とはいえ、まだかなりの荒削りであったことも事実で、同年は以後のレースで3位表彰台を1回獲得したのみ。年間総合12位という成績で終えた。翌04年は安定感を増し、3戦で優勝を飾ってランキング4位。05年から、250ccクラスへステップアップした。

 250ccクラス1年目はホンダのマシンで参戦した。だが、このシーズンのホンダ陣営トップチームは、ペドロサと青山博一の所属するテレフォニカ・モビスター・ホンダ250。また、04年に125ccクラスを制したドヴィツィオーゾもチーム体制がそのまま持ち上がる格好で中排気量にステップアップしてきた。アプリリア陣営にはルーチョ・チェッキネロ・レーシングのストーナーがいた。

 当時からロレンソの鼻っ柱の強さはパドック内で評判だったが、あるチーム関係者の話が印象的だった。

「セッション中に、ピットボックスへ戻ってくると、ホルヘは『こんなセットアップじゃ走れない、あそこをこうしてくれないとタイムを出せない』などといろいろなことを言う。しかし、とりあえず言うだけ言わせてから特にセットアップも変えずに『じゃあ、走っておいで』と伝えると『はい』といって素直に出て行く。あれで結構、愛嬌のあるライダーなんだ」

 そして、冒頭に記したとおり、この05年シーズン終盤にはやや乱暴な乗り方が裏目に出て、1戦出場停止の厳しい処分を受けるに至る。タイトルはペドロサが獲得し、ランキング2位がストーナー、3位はドヴィツィオーゾ、4位に青山。ロレンソは5位で終えた。

 06年にロレンソは、チームごとアプリリア陣営へスイッチした。それまでのシーズンとは一転した安定感の高さで8勝を挙げ、年間総合優勝を達成。07年もシーズン9勝で連覇を成し遂げた。

 250ccクラスで大きな成長を見せたロレンソは、タイトルを獲得した06年ごろからMotoGPへのステップアップが取り沙汰されるようになった。なかでも、「どうやらヤマハが彼に興味を示しているらしい」という噂は、いつしか公知の事実のように語られ始めた。

 ロレンソが250ccクラスの連覇に向けて、順調に勝利を重ねていた07年のことだ。

 7月下旬のアメリカ・カリフォルニア州ラグナセカサーキットに、ロレンソの姿があった。そこで行なわれるU.S.GPは、MotoGPクラスのみの開催。中小排気量クラスはすでにひと足早くサマーブレイク期間に入っていた。当時250ccライダーだったロレンソは、本来なら「そこにいるはずのない」人物である。ラグナセカのプレスルームで話に応じた彼は「MotoGPのレース見物に来ただけだよ」と話した。

 もちろんそれが表面上の理由に過ぎないことは、ある程度の事情を知る者の目には明らかだった。後年にロレンソ自身が明かしたところでは、やはり、翌08年からのヤマハMotoGPファクトリーチーム昇格に際して契約の詰めを行なうために、ラグナセカサーキットを訪問していたのだという。

【profile】 ホルヘ・ロレンソ Jorge Lorenzo
1987年5月4日、スペイン・マジョルカ島パルマ・デ・マジョルカ生まれ。幼少期からミニクロスのレースに参加。2002年に競技規則の出場最年少15歳の誕生日を迎えると同時に、125ccクラスに出場し、グランプリデビューを果たす。05年に250ccクラスにステップアップし、06年、07年の2年連続で年間王者に輝いた。08年、最高峰MotoGPに参戦。10年、12年、15年にタイトルを獲得した。19年に引退。