数人の記者に囲まれて話している途中だった。 涙が出そう。そう言った。「自分の人生を、こうやって聞いてくれる人がいる。そんな日が来るなんて」 ジャパンに選ばれたんですもの。みんな知りたいですよ。苦労して桜のジャージーに指をかけたプロップのこ…

 数人の記者に囲まれて話している途中だった。
 涙が出そう。そう言った。
「自分の人生を、こうやって聞いてくれる人がいる。そんな日が来るなんて」
 ジャパンに選ばれたんですもの。みんな知りたいですよ。苦労して桜のジャージーに指をかけたプロップのことを。
 11月5日のアルゼンチン戦から始まる、この秋の日本代表のテストマッチシリーズ。4つのテストマッチを戦う代表スコッド名を連ねたキヤノンイーグルスの山路泰生(やまじ・やすお)は、31歳にして初めて手にした栄誉を喜んでいる。

 東京は台東区浅草生まれの日暮里育ち。7人兄弟の末っ子である(5男/姉兄姉兄兄兄)。第三日暮里小学校を卒業し、中学に進学するときに西へ向かった。敬けんなクリスチャンだった父のすすめもあり、神父(カトリックの司祭)となるべく学びの日々を送るためだった。
 長崎南山中に入学し、聖ルドヴィコ神学院で神学生として暮らした。お祈りで一日が始まり、一般の教科に加えて神父になるための基礎を学び、一日をお祈りで終える。部活動は禁止されていた。大柄な体は、余暇の時間にバスケットボールを楽しむときに使うぐらいだった。
 そんな生活が揺らいだのは中学3年の期末考査の時だった。東京に住む父が脳梗塞で倒れた。しばらくして他界。
「遠くにいて悲しい知らせを聞くのは嫌だな。そう思って東京に帰ろうと思いました」
 高校1年になっていた。家族や学校と話し合った。神父への道は諦めても、残り3年間最後まで学校に通おう。そんな結論に行き着いた。
「姉兄たちに(特別な)目標がないのなら東京に戻るな、と言われました」
 神学院を出て、一般学生と同じ寮に移り住んだ。高校1年の秋だった。

 16歳の転機。しかしそれは挫折でなく、出会いを呼んだ。
 気づけば、周囲にラグビー部の部員たちがいた。中学時からことあるごとに声をかけてくれていた市山良充先生が、部員たちに「1年8組の山路を勧誘してこい」と指示したのだ。
 野球をしたかった思いにフタをして流れに身を任せた。楕円の世界の水は自分に合っていた。ラグビーを始めてわずかな期間でリザーブからながら九州大会に出場し、その後もめきめき力をつける。レギュラーの座も手に入れた。推薦枠で大学へ進学できるほどになった。
 明治大学のセレクションは面接で失敗。その結果、当時関東大学リーグ戦3部だった神奈川大に進むことになった。しかし、のちに人生を振り返ってみればこれも幸運だった。
 2部との入替戦に進出できたのは1年時だけも、同大学のOBがいるキヤノンのラグビー部がちょくちょくグラウンドにやって来て練習していたから縁ができた。リーグ戦3部の知る人ぞ知るスクラメイジャーは、一時は東芝とのパイプもできかけたが、自分のことをよく知ってくれているチームでプレーを続けることになった。
 入社したのはキヤノンビーエム神奈川という当時の販売会社。ラグビー部のチーム名は現在のイーグルスでなく「セレナーズ」というニックネームだった。関東社会人リーグに所属していた。

 神奈川大グラウンド。大宮の河川敷。辰巳。千葉。YC&AC。淵野辺。よみうりランド。そして現在の町田。
 入社後にまわった営業先の羅列ではない。2007年度に入部してからこれまでの練習グラウンドの変遷である。現在のイーグルスに、そのすべてを知る者は他にいない。
「1年目は仕事をしっかりして、部員それぞれが自主トレという平日でした。皇居の周りを走って銭湯に行ったり。土、日だけみんなで集まって練習していました」
 2年目の途中からチームを強化する方針が固まり、千葉のグラウンドで練習することになった。近くのレオパレスに住むことになった。
「淵野辺のグラウンドはアメフトのチームと共用で、ゴールポストもなければ、地面が傾いていました」
 ジェットコースターの横で汗を流したよみうりランド時代。そして、どこよりも素晴らしい現在のホームグラウンドへ。
「試合に出られない時期もありましたが、いま、とても充実しています。兄姉も僕の試合を見に来てくれたりして、母を中心にまた家族がひとつにまとまってきた気がして嬉しいんです」

 今回、自分が日本代表スコッドに入ったこと(合宿招集)を知ったのはパナソニックとの試合(10月22日)を控えた週だった。同試合へ向けたチームミーティングの途中、永友洋司監督がチームメートの前で突然発表した。
「(テレビ番組の)どっきり(カメラ)かと思いました。音楽がかかって、陰から誰かが出てくるんじゃないかと」
 誰にもスクラムで負けたくない。負けない自信もあるけれど、まさか自分がそんな立場になるとは思っていなかったから驚いた。
 ジャパン合流後はジェイミー・ジョセフ新ヘッドコーチと話し、「スクラムと10年のキャリア(トップリーグでの経験値)を評価した」と告げられた。
「自分の試合を見てくれていたんだな、と。これからまだ伸びると思っていると言ってもらいました。その期待を裏切りたくないし、今季はまだキヤノンでは勝利につながるスクラムをあまり組めていないので、ジャパンではそこにもこだわりたい」

 25歳の頃、この秋からジャパンのスクラム指導にあたる長谷川慎コーチの指導を受けたことがある。同コーチがヤマハ発動機での現職に就く前年、半年に渡ってイーグルスのFW強化に力を注いだときのことだ。それ以来、そのときの教えがいつも自身の真ん中にあるから代表チームで再会できることになった縁が嬉しい。
「慎さんの教えるチームのスクラムを倒したい。その思いでやってきました。自分がうまくいっていないときにも、よく声をかけてもらっていました。そんな人とまた一緒にやれることになった。恩返しをしたいですね」
 6年前によみうりランドのグラウンドで教わった金言をメモしたものは、スクラムの秘訣が詰まった一冊のノートのようになった。それが当時もいまも、自分を支えている。
「ジャパンでの合流初日、感動したんですよ。いろんなコーチにスクラムを教わりながらも、自分の中でぶらすことなく、ずっと大事にしてきたものがそこにはあったので」
 まず、信じることから始めよ。
 コーチの教えを。仲間を。自分を。スクラムの神から最初に教わったことを、これからも大切にしていく。レオニッサのヨゼフ(山路の洗礼名)が、もうすぐ世界と戦う。