オリンピック出場がサッカー人生に与えた影響第1回:2004年アテネ五輪・大久保嘉人(前編) アテネ五輪を振り返って、当時の戦いぶりについて語る大久保嘉人本来であれば、2020年7月22日から8月9日の日程で開催される予定だった東京五輪。…

オリンピック出場がサッカー人生に与えた影響
第1回:2004年アテネ五輪・大久保嘉人(前編)




アテネ五輪を振り返って、当時の戦いぶりについて語る大久保嘉人

本来であれば、2020年7月22日から8月9日の日程で開催される予定だった東京五輪。新型コロナウイルスの感染拡大の影響によって、1年後に延期されることになったが、サッカー選手にとって、五輪とはどういう舞台になるのだろうか。また、五輪はその後のサッカー人生にどんな影響をもたらすのか。まずは、2004年アテネ五輪に出場した大久保嘉人に話を聞いた――。

 アテネ五輪は、2004年8月に開催された。

 その2年前、2002年日韓共催W杯が開催され、日本は初の決勝トーナメント進出を果たしてベスト16入り。そんな日本代表の躍進があって、国内は空前のサッカーブームにあった。その後も、中田英寿をはじめ、中村俊輔、小野伸二、稲本潤一ら個性あふれた選手たちが欧州の舞台で活躍するようになって、日本代表は常に大きな注目を集めていた。

 サッカー界への関心が高まっているなか、山本昌邦監督のもと、アテネ五輪を目指す代表チームが結成された。

 その代表チームは、五輪出場切符をつかむまで、非常に苦しんだ。アジア最終予選のUAEラウンドでは、3戦目となるUAE戦を前にして、下痢などで体調を崩す選手が続出。ふらふらの状態になりながら、何とか勝利を得て、日本ラウンドに戻ってきた。

 日本ラウンドでも、初戦のバーレーン戦に敗れるなど、大苦戦。土俵際に追い詰められるなか、”最終兵器”として送り出されたのが、大久保嘉人(当時セレッソ大阪。現在は東京ヴェルディ)だった。

「オレは(最終予選の)日本ラウンドから(再び五輪代表に)呼ばれたんだけど、実は最終予選の前に(テストマッチの)日韓戦でしょうもないプレーをして、山本さんに怒られて、UAEラウンドは外された。それが、悔しくて……。日本ラウンドでメンバーに選ばれたら、『やってやる!』と思っていた。

 でも、その初戦(のバーレーン戦)、チームに呼ばれたのはいいけど、試合に起用されずに(チームが)負けて、『なんで(オレは)使われんの?』って思っていた。で、2戦目(のレバノン戦)で、オレと阿部(勇樹)が先発で起用されて、『もう点取るしかない』って思って、必死でプレーしたね」

 大久保の活躍があって、レバノン戦、UAE戦と2連勝。日本は最終予選を突破して、3大会連続の五輪出場を決めた。

 だが、選手たちにとっては、ここから本当の戦いが始まる。最終予選は、代表メンバー20名だったが、五輪本大会は18名。しかも、オーバーエイジ(OA)枠で3名選出されれば、生き残るのは15名。代表入りは、極めて狭き門となるからだ。

「五輪には出たいと思っていた。あの当時は、海外(のクラブ)に簡単に行ける時代ではなかったので、『五輪で活躍して海外に行く』『五輪で自分の名前を売る』――(五輪は)そういうチャンスの場だと考えていた。

 でも、山本さんは『OA枠を使う』って言っていたんですよ。その時、名前が挙がっていたのが、(小野)伸二さんとタカさん(高原直泰)。『これは、ヤバいな』と思った。

 タカさんはA代表のエース。そんな人がメンバー入りしたら、当然FWの枠が減るわけだし、絶対にひとりはレギュラーから外れるわけじゃないですか。(平山)相太は選ばれるだろうから、オレと(田中)達也とかが『危ないな~』『怖いな~』と思って、いやぁ~(OA枠の選手は)『もう来ないでよ』って思っていた(苦笑)」

 結局、OA枠でのメンバー入りが期待された高原は、肺動脈血栓塞栓症の再発もあって選出されず、OA枠からは小野とGK曽ヶ端準の2名が選ばれた。大久保も無事、メンバー入りを果たした。

 当時のチームは、OA枠の選手が入ることによって、チーム作りにおける難しさを感じることはなかったのだろうか。

「それは、なかったね。伸二さんは経験もあるし、あのプレースタイルなんで、周囲の選手のことがよく見えていたと思う。実際、初めての練習試合で、すごくいいパスが来たのを覚えている。最初から、中盤のキーマンになっていたと思うよ」

 小野がチームに合流する前から、チームの状態は非常によかったという。同世代で、中学校や高校の時から、下のカテゴリーの代表などで、ほとんどの選手が一緒にプレーしており、「はじめまして」という選手は皆無だった。

「(代表メンバーは)みんな、顔を知っているし、プレースタイルも何となくわかっていたんで、やりやすかった。とくに仲がよかったのは、松井(大輔)さんと(田中マルクス)闘莉王。

 高校時代は、松井さんが(学年が)ひとつ上の先輩なんで、最初は喋れなかった。鹿児島実高では、みんな丸刈りなのに、松井さんだけロン毛で。それでもう、ファンタジスタのようなプレーをしていたから、(遠目で見ながら)『すごいな』って思っていた。

 そうして、五輪代表で一緒になった時、オレが(同じ九州の名門)国見高出身ということで、松井さんが声をかけてきてくれて。なんか、松井さんのアホみたいなノリが面白くて、楽しくて。『こいつ、イケるな』って(笑)」

 この時に仲よくなった松井、闘莉王とは、6年後の2010年南アフリカW杯でも、日本代表メンバーとして、ともに活躍することになる。

 アテネ五輪代表チームは、ドイツで合宿を行なったあと、ギリシャに移動し、本番を迎えることになった。だが、このチームに対する、日本のメディアやファンの期待感は決して高くはなかった。

「オレら『谷間の世代』って言われていたからね」

 大久保は苦笑しながら、そう言った。

 彼らのひと世代上と言えば、1999年ワールドユース(現U-20W杯)・ナイジェリア大会で準優勝という快挙を達成し、2000年シドニー五輪や2002年日韓共催W杯の代表メンバーにも、多くの選手が名を連ねた「黄金世代」である。まだ海外移籍が難しい時代に、すでに海外でプレーする選手もいて、若くして日本代表の中心となって活躍している選手が多かった。

 その世代と比較され、日本代表はもちろん、所属クラブでもなかなかレギュラーの座をつかめない大久保らの世代は「谷間の世代」と揶揄されていた。そのため、アテネ五輪でもあまり期待されていなかったのだ。

「伸二さんやタカさんらと比べられてもね。『そりゃ、そうだ』って感じだった。自信はあったけど、『”黄金世代”とは違うよ』って。

 だから、アテネに入っても、メダルを獲らなきゃいけないとか、そんな緊張感とかはまったくなかった。オレらは”谷間の世代”だし、(見る側にしたら)『どうでもええんやろ』って思っていた。

 でも反面、内心では『見ておけよ』っていう思いは、みんな持っていたと思う。それが、オレら世代ががんばるための、ひとつのキーワードになっていた」

 迎えたアテネ五輪。日本はグループBに入って、パラグアイ、イタリア、ガーナと同組だった。初戦は、南米の雄であるパラグアイと対戦した。壮絶な撃ち合いの末、日本は3-4で初戦を落とした。

「初戦は、自分が点を取ったことと、那須(大亮)のミスしか覚えていない(笑)。今(みんなで)集まってもその話になって、那須をイジっている(笑)。

 試合後、宿舎に戻って、冗談まじりで『おまえのせいで負けたんだから、坊主やな』っていう話になって、那須が本当に丸刈りにしたんですよ。初戦で負けたんで、もう負けられない状況に追い込まれたけど、那須のその姿を見て(気持ちを)切り替えられましたね。まだ2試合あるし、『次のイタリアに勝つぞ!』っていう感じで、チームはひとつになった。

 個人的にも、達也からのパスを受けて、トゥーキックで相手の股を抜いて、完璧なゴールを決めることができた。初戦で点が取れてホッとしたし、乗っていけたんだけど……」

 続くイタリア戦は、開始3分にデ・ロッシに華麗なオーバーヘッドでゴールを決められ、さらにエースのジラルディーノから強烈な2発を食らって、前半だけで3失点。阿部のゴールで1点を返したが、厳しい展開を強いられた。

「デ・ロッシのスーパーゴールはすごかったし、ジラルディーノのゴールも半端なかった。強いし、うまいし、男前やしね。強いチームって、そういう強烈なスーパーゴールが決まるんですよ。でもオレらは、オレのヘディングシュートを含めて、決定的なチャンスがありながら、決めることができなかった。

 まあ、そもそもイタリア相手に2点先制されたら、ダメでしょ。イタリアは点を取ったあとの戦い方がうまいし、守り方とかも知っている。オレらは、2点取られて余裕がなくなった。その差だな、って思ったね」

 後半、日本は1点を返したが、2-3で敗れて2連敗。グループリーグ敗退が決まった。



アテネ五輪ではグループリーグ敗退に終わった日本。photo by(C)IML/AFLO FOTO AGENCY

 グループリーグ最後のガーナ戦は大久保のゴールで1-0と勝利したが、日本は1勝2敗でグループB最下位に終わった。それでも、大久保は世界の同世代との戦いによって、たしかな手応えを感じたという。

「最後のガーナ戦は、1試合は勝って帰りたいと思っていたので、そのなかで勝利につながるゴールを決められたのは大きかった。グループリーグを突破できなかったのは、オレらの実力。でも、個人的には『やれるな』って、手応えを感じた。

 実は、今でも覚えているプレーがある。イタリア戦で左サイドからドリブルで抜いていったんだけど、前からも、後ろからも、横からもディフェンスが来ていたんですよ。普通だと、そこで無理していくことはない。でも、五輪なので、誰が見ているかわからないから、チャレンジしてみようと思って、そのまま仕掛けていったら、抜けた。それが、自信になったし、その自信を五輪で得られたのは、大きかった。

 ただ、世界との差を感じた部分もあった。ジラルディーノは普段からセリエAでやっていて、世界の一流選手と戦っているから、大舞台にも慣れていた。『国際経験の差があるな』って思ったね。だから、五輪が終わってからすぐ、『海外に行かないといけない』と思った」

 アテネ五輪で大久保は3試合出場2得点。2ゴールという結果が、若い選手の視察に来ていた海外クラブのスカウトたちに、インパクトを残したことは確かだった。日本に帰国すると、大久保のところには海外クラブからのオファーが届いていたのである。

(つづく)