追憶の欧州スタジアム紀行(15)スタンフォード・ブリッジ(ロンドン) フラム・ブロードウェイ駅徒歩5分。チェルシーのホーム、スタンフォード・ブリッジは、プレミアに複数在籍するロンドンのクラブの中で、街の中心地に最も近いスタジアムになる。…
追憶の欧州スタジアム紀行(15)
スタンフォード・ブリッジ(ロンドン)
フラム・ブロードウェイ駅徒歩5分。チェルシーのホーム、スタンフォード・ブリッジは、プレミアに複数在籍するロンドンのクラブの中で、街の中心地に最も近いスタジアムになる。ピカデリー・サーカス駅周辺を銀座とするならば、三軒茶屋、駒沢大学前あたりか。フラム地区の閑静な住宅地の一角にある。世田谷公園にスタジアムが建っている感じだ。
初めて訪れたのは1999年11月2日。チェルシーがチャンピオンズリーグ(CL)に初めて出場した1999-2000シーズンのことだ。
チェルシーの本拠地、スタンフォード・ブリッジ(ロンドン)
苦い思い出として記憶されている。CLはご承知のように火曜日、水曜日に行なわれる。筆者は、チェルシー対ヘルタ・ベルリン戦を観戦取材しようと、火曜日スタンフォード・ブリッジに出かけた。ところが周辺に観衆らしい姿はない。スタジアムには照明が点っていて、中からは選手が発する乾いた声が響いていた。頭の中が真っ白になった。行なわれていたのは前日練習で、試合日は翌日の水曜日だった。
水曜日はバレンシアに移動して、その対PSV戦を観戦することになっていた。さらにその翌日の木曜日には、バレンシアから帰国の途につく予定だった。予定を変えてロンドンに延泊すれば、日本行きの航空券を買い直す必要が生じる。そんな経費はもちろん出るはずがない。試合当日、ロンドンから後ろ髪を引かれるようにバレンシアへ向かうことになった20年前の記憶は、いまだ鮮明だ。
チェルシーはこの1999-2000 シーズン、1次リーグ、2次リーグを勝ち抜き準々決勝に進出した。
対戦相手はバルセロナ。そして、スタンフォード・ブリッジで行なわれた第1戦に3-1で先勝した。カンプノウで行なわれる第2戦に大きな望みをつないだ。
ところが終わってみれば5-1の大敗。チェルシーは合計スコア4-6で敗れた。好試合と言えば好試合だった。しかし、バルサとチェルシーとの間にはこの時、まだ少なからぬ差を感じたことも事実。ジャンルカ・ビアリ監督率いるチェルシーは、この当時、欧州ではまだポッと出のチームという印象だった。
チェルシーが再びCLの舞台に立ったのは、それから4シーズン後の2003-04シーズンになる。筆者がスタンフォード・ブリッジに出かけたのは、ロンドンダービーとなったその準々決勝対アーセナル戦だ。
通算スコア3-2でチェルシー。スタンフォード・ブリッジで見たチェルシーの試合の中で、3番目に面白い試合だった。では、2番目はどの試合かと言えば、続いて行なわれた準決勝対モナコ戦になる。
グループリーグをモナコと同組で戦い、敗退したPSVのフース・ヒディンク監督は、その時、こう言ったものだ。
「モナコはCLで優勝する力がある」
実際、モナコは伏兵ぶりを発揮。準々決勝では優勝候補のレアル・マドリードを大逆転で下していた。監督はその5年前のCLではチェルシーのリーダーとしてプレーしていたディディエ・デシャン。因縁めいた試合となった。
ルイ2世スタジアムで行なわれたモナコホームの第1戦は3-1でモナコ。スタンフォード・ブリッジに場所を移して行なわれた第2戦は、前半45分までチェルシーが2-0とリードした。
合計スコア3-3。このまま終わればアウェーゴールルールでチェルシーの勝ち。ところが、チェルシーは前半のアディショナルタイムにモナコに1点を返され、さらに後半15分、フェルナンド・モリエンテスにこの試合の同点弾を叩き込まれてしまう。合計スコアは3-5。チェルシーはファイナリストになれなかった。
チェルシーを下したモナコは、ゲルゼンキルヘンで行なわれた決勝でジョゼ・モウリーニョ監督率いるポルトと対戦した。勝ったのはポルト。翌シーズン、チェルシーが、デシャン監督率いるモナコに勝って欧州一になったモウリーニョを監督に招いた大きな理由のひとつかもしれない。
スタンフォード・ブリッジの収容人員は4万1000人余り。この頃からチェルシーは、プラス2万人のスタンドがほしいというビッグクラブになっていった。しかし、スタジアムはいまもって増築も改築もされていない。新築の計画があったそうだが、立ち消えになったとのこと。立地のよさと小ささを売りにする、粋な都会的スタジアムのままでいる。
密閉性は高い。ピッチまでの距離も近い。反響率が高いスタジアムだ。そして思いのほか男臭い。目立つのは男性ファンの姿だ。女性客は10人に1人。2人はいない。正面スタンドには、会社帰りとおぼしきスーツ姿の、仕事できる系サラリーマンが目立つ。
敷地内に四つ星ホテル(「ミレニアムホテル」)が併設されていることも特徴のひとつになっている。サッカーと直接関係ない商業施設、娯楽施設を併設した複合的かつ多機能的な方向性は、スタジアムが探るべきものとして2000年になった頃から、明確になっていた。
ホテル併設もそのひとつ。CL級のクラブでは、バイヤー・レバークーゼンのバイアレーナの「リントナー・ホテル」が先駆けだったと思う。かつて川口能活が在籍したノアシェラン(デンマーク)のスタジアムも、スタンドの上階がホテルという面白い造りだった。スタンフォード・ブリッジもそうした意味で進歩的なスタジアムと言えた。完成した当時、ホテルの内部を覗いたことがあるが、モダンでデザイン性も高かった。
フラム・ブロードウェイ駅まで徒歩5分。治安もトッテナム・ホットスパーやアーセナルのスタジアム周辺より遙かによい。試合が行なわれない日でも普通に泊まりたくなるロケーションだ。
ホテルがいつ完成したのか、正確には知らないが、遅くても2005年3月8日にはオープンしていたと記憶する。スタンフォード・ブリッジで見た一番の名勝負は、その日に行なわれたCL決勝トーナメント1回戦、チェルシー対バルサの第2戦になる。
カンプノウで行なわれた第1戦は2-1でバルサ。かつてバルサでアシスタントコーチを務めたチェルシーの監督モウリーニョに、容赦なくブーイングが浴びせられた試合でもあった。
第2戦は戦前から大いに盛り上がっていた。チェルシーに取材申請書を送ると、「記者席満席につきお断り」と初めて却下された。仕方がなく、高額なチケットを購入。一般席から観戦することになった。
チケットを販売している業者に話を聞けば、日本人は400人程度来るという話だった。日本からのツアー客が200人。個人旅行者100人。現地在住の日本人100人――という内訳らしい。スタンフォード・ブリッジの定員が4万人強なので、観衆の約100人に1人が日本人だった計算になる。
大学生の旅行シーズンと重なっていたこともある。当時の大学生は4年間に2度、3度と海外旅行に出かけることも珍しくなく、欧州サッカー観戦はその一番の人気ツアーだった。ゴールシーンやダイジェスト版を確認するのがせいぜいになっている現在とは、まったく違う世界が展開されていた。隔世の感とはこのことだ。昔のほうが断然、よかったとつい言いたくなる。
筆者が観戦したのは正面スタンドの2階席。眺望は1階の前列にある記者席より何倍もよかった。ピッチを真上から俯瞰することができた。
チェルシーが3点連取すれば、バルサもロナウジーニョが2点入れ返しスコアは3-2となった。合計スコアは4-4ながら、バルサがアウェーゴールルールで逆転した状態にあった。5年前のチェルシーはここからズルズルと失点の山を築いたが、モウリーニョのチェルシーは堪えた。そしてジョン・テリーのゴールで再逆転に成功する。
忘れられないのは、隣に座っていた70代後半とおぼしき老夫婦だ。チェルシーの勝利を告げるタイムアップの笛が鳴った瞬間、その顔は真っ赤に染まっていた。血管が切れてしまうんじゃないかと心配になるほど、興奮冷めやらぬ表情で、こちらに話しかけてきた。
「私はチェルシーファンひと筋だが、これまで見てきた中でこの試合が一番だった。その原因はバルセロナにある。相手がバルセロナだったから、こんないい試合になったんだ。バルセロナに感謝したい」
ご老人は敵を讃えることを忘れなかった。ノーサイドの精神を見た気がした。劇的な勝利を見た瞬間、こうした台詞を吐ける人はザラにいない。ただし、そう言いたくなるほど、面白い試合だったことも事実だ。
チェルシーの勝利を喜ぶ人、バルサの敗戦を悲しむ人。スタンド観戦した400人の日本人もそれぞれだったと思うが、それ以上に、単純明快な感想もあったはずだ。「面白かった!」。サッカーの魅力を再発見させられた試合。筆者にとって素直な感想はこちらのほうだった。
チェルシー対バルサ戦を現場の特等席で俯瞰できた喜び。それから15年経ったいまなお、サッカーファンを続けている大きな動機のひとつになっている。