あるテニスの試合を「最高の試合だ」と思わせるものは何だろう。会場、大会、プレー、試合の中で繰り広げられるドラマ、そこへ至る因縁など。2005年「ウィンブルドン」女子シングルス決勝、ビーナス・ウ…

あるテニスの試合を「最高の試合だ」と思わせるものは何だろう。会場、大会、プレー、試合の中で繰り広げられるドラマ、そこへ至る因縁など。2005年「ウィンブルドン」女子シングルス決勝、ビーナス・ウイリアムズ(アメリカ)対リンゼイ・ダベンポート(アメリカ)の試合にはそのすべてがあった。テニス関連ニュースサイトTennis.comが伝えている。【実際の映像】2005年の壮絶な戦いの女子決勝戦

両選手とも既に大会の歴史に名を残していた。ダベンポートは1999年に、ビーナスはその後2年連続で優勝。だが、テニスでは時の流れは速い。ダベンポートは2000年を最後にグランドスラムで優勝から遠ざかっていた。

2004年に「ウィンブルドン」で、ダベンポートはこれが最後の出場となるのか尋ねられた。「その可能性は高いけれど、まだ決めてはいないわ」と当時28歳だったダベンポートは答えた。

その年ダベンポートは、後に優勝するマリア・シャラポワ(ロシア)に準決勝で敗退。同じ年、ビーナスは2回戦で世界30位だったカロリーナ・スプレーム(クロアチア)に敗れて姿を消していた。

だが引退しなかったダベンポートは、2005年に素晴らしいテニスをしていた。「全豪オープン」で準優勝したダベンポートは「ウィンブルドン」で第1シードとなり、4回戦でキム・クライシュテルス(ベルギー)を、準々決勝で前年の「全米オープン」覇者スベトラーナ・クズネツォワ(ロシア)を、そして準決勝ではアメリー・モレスモー(フランス)という強敵たちを次々と倒していった。

ビーナスにとってそこまでは苦しいシーズンだった。「全豪オープン」では4回戦で、「全仏オープン」では3回戦で敗退。だがビーナスのコート全面を守り、攻撃できるオールコートのスキルは、ここ「ウィンブルドン」で最も輝き、最も自信を取り戻すことのできる場所だった。第14シードだったビーナスは1セットも落とすことなく決勝に進出。特に準決勝では前年覇者であったシャラポワを7-6(2)、6-1で下していた。

ダベンポートとビーナスは互いに知り尽くした相手だった。そこまで26回対戦しており、ダベンポートの14勝12敗。だがここ「ウィンブルドン」では、ビーナスの3戦全勝だった。

ビーナスは語っている。「彼女と私は似たタイプのプレーヤーだと思う。コートカバー能力とサーブは、私が少し上かも。でも彼女と対戦するのは、自分と対戦するような感じ」

決勝はどちらも素晴らしいプレーで、深くパワーのあるグラウンドストロークを打ち合った。序盤はダベンポートが優勢で第1セット5-2のリードを奪い、そのまま6-4でセットを取った。

第2セットは接戦で、4-5でサーブしていたダベンポートはビーナスのセットポイントをしのぎ、次のゲームでブレークしてサービング・フォー・ザ・チャンピオンシップとなった。だがビーナスはあきらめずブレークバック、タイブレークを7-4で制して試合はファイナルセットにもつれ込んだ。

後にダベンポートは、「試合の中で何度も何度も流れが変わった。ビーナスはあきらめることなく戦い続けた。彼女は絶対に心が折れることはないのよ。私が勝利に近づいた時ほど、彼女は素晴らしいテニスをした」とインタビューで語った。

そのパターンは第3セットでも続いた。ダベンポートは4-2とリードしたが、すぐにビーナスがブレークパック。4-5、30-30でビーナスがダブルフォールト、ダベンポートのマッチポイントとなった。だが追い詰められた時ほどビーナスはチャンピオンのように戦い、バックハンドのダウンザラインを決めた。

7-7からビーナスがダベンポートをブレークし、勝利はビーナスへ。ビーナスにとっては3度目の「ウィンブルドン」制覇で、決勝でマッチポイントをしのいでの優勝は1935年のヘレン・ウィルズ(アメリカ)以来だった。

決勝の前日にビーナスは「ウィンブルドン」の大会関係者と会い、男女の賞金金額を同じにするよう要請していた。そして翌日の決勝で、ビーナスとダベンポートは「ウィンブルドン」女子シングルス決勝ベストマッチとも言われる試合をして見せて、要求の正当さを証明したのだ。その2年後、「ウィンブルドン」の男女の賞金額は同じになり、ビーナスは大会4度目の優勝を遂げたのだった。

(テニスデイリー編集部)

※写真は2005年「ウィンブルドン」でのビーナス(左)とダベンポート(右)

(Photo by Clive Brunskill/Getty Images)