サッカースターの技術・戦術解剖第15回 カリム・ベンゼマ<ロナウドの突破力+ジダンのテクニック> カリム・ベンゼマは9歳からリヨンの育成組織でプレーし、トップチームの試合ではボールボーイをしていた。17歳の時にトップチームでデビューする…
サッカースターの技術・戦術解剖
第15回 カリム・ベンゼマ
<ロナウドの突破力+ジダンのテクニック>
カリム・ベンゼマは9歳からリヨンの育成組織でプレーし、トップチームの試合ではボールボーイをしていた。17歳の時にトップチームでデビューすると、3シーズンで主力となり、20歳でリーグアンの得点王を獲った。当時のリヨンは黄金時代で、ベンゼマは6~7連覇のエースとして活躍している。
32歳になったベンゼマ。万能型の選手として今後はどんなスタイルを見せるのだろうか
187cmと体格に恵まれ、パワフルだがスピードもすばらしく、テクニックについてはアレックス・ファーガソン(当時のマンチェスター・ユナイテッド監督)が「(ジネディーヌ・)ジダンと似ている」と評していた。
ベンゼマの憧れの選手は、ブラジルの”フェノメノ”、ロナウドだった。ロナウドのプレーをよくマネしていたというが、ハーフウェイラインぐらいからひとりでドリブルしてゴールしてしまう究極のソロプレーは、リヨン時代のトレードマークだった。これは現在のレアル・マドリードではあまり見られなくなったプレーである。
ドリブルでゴールへ迫っていく単独プレーは”ラッシュ”とも呼ばれる。リオネル・メッシは現代サッカーでラッシュを許されている稀少な選手だが、かつてはスーパースターたちの代名詞のようなものだった。ペレやディエゴ・マラドーナは相手を次々に抜き去ってゴールを重ねていたし、ヨハン・クライフも時折そうしたプレーを見せていたものだ。ベンゼマが憧れたロナウドは、これの最高峰と言えるかもしれない。
ベンゼマがラッシュを封印した理由はわからない。やらなくなったのか、できなくなったのかは不明だが、レアル・マドリードでのベンゼマは「ロナウド」から「ジダン」へ少し寄っていく。クリスティアーノ・ロナウドのためにスペースをつくり、ボールを渡す役割にシフトしたのだ。9番としての完璧な資質に恵まれながら、フランスでよく言う「9.5番」になっていった。
<万能型の選手に成長>
2009年、レアル・マドリードへ移籍したベンゼマは「ニコラ・アネルカの再来」と期待されていた。
ニコラ・アネルカは、フランスのクレールフォンテーヌ国立サッカー養成所の出身。2歳上に同じ養成所出身のティエリ・アンリもいたが、当時はアネルカこそがフランスの未来を背負って立つ逸材とされていた。テクニック、フィジカル、センスのどれもがずば抜けていたのだ。
パリ・サンジェルマンでデビューするや、すぐにアーセナルに引き抜かれ、プレミアリーグ優勝の原動力になった。レアル・マドリードでもチャンピオンズリーグ優勝に貢献している。ただ、期待されていたほどの活躍はできなかった。ジネディーヌ・ジダンやティエリ・アンリをはるかに超えるスーパースターになるはずだったが、そうはならなかった。
アネルカの場合、簡単に言うと取り巻きが悪すぎた。さらに誤解を恐れずに言えば、都市郊外の治安の悪い地域で生まれ、育ちが悪かった。それは彼らの世代の宿命でもあり、ベンゼマもそれと無縁ではないのだ。
ベンゼマのレアル・マドリードでの最初の2シーズンは、ゴンサロ・イグアインとのポジション獲得競争で苦闘している。転機は11年の夏。フランス代表監督のローラン・ブランと、レアル・マドリードのスポーツディレクターだったジダンの助言で、ベンゼマはダイエットに挑戦した。
クリニックでひと夏を過ごし、8kgの減量に成功している。プレシーズンマッチでは7試合8ゴールと効果はてきめんだった。軽さはプレーの幅を広げ、隠れていた能力を発揮する助けになった。
リヨンで「ロナウド」だったベンゼマだが、レアル・マドリードでは違う「ロナウド」、クリスティアーノ・ロナウドがいた。センターフォワードのベンゼマは左ウイングのC・ロナウドのためにスペースを空け、時には守備を肩代わりするなど、C・ロナウドに得点させるための黒子的な役割をこなしていく。個人技だけでなくチームプレーもできる万能性は、レアル・マドリードで生きていくための重要なツールになった。
C・ロナウドがユベントスへ移籍し、ベンゼマはいよいよエースとしての振る舞いを求められたが、すぐに新しいC・ロナウドとも言えるエデン・アザールが来ている。現在32歳。経験豊富なベンゼマにとって、C・ロナウドほど得点マシーンではないアザールとの協調は、さほど難しくもないはずだ。
<移民系の選手>
15年11月、ベンゼマはフランス警察当局によって逮捕された。容疑はフランス代表の同僚である、マシュー・ヴァルブエナへの恐喝である。最終的に無罪が確定したのだが、この一件でベンゼマは18年のワールドカップメンバーから外れている。
発端はヴァルブエナが友人を通じて携帯電話のデータを移行した際にデータを抜き取られ、犯罪グループからの恐喝が始まったことだった。ヴァルブエナは警察へ被害届を出し恐喝はなくなった。そこへ、合宿で顔を合わせたベンゼマから流出映像の件を解決してくれる友人がいるので、会ってみろと勧められた。問題はそのベンゼマの友人に犯罪歴があり、すでに警察からマークされていたことだった。ヴァルブエナはベンゼマの仲介を金銭目的の恐喝と受け止め、ベンゼマ逮捕へ至る。
結局、ベンゼマは純粋にヴァルブエナを助けようとしただけだったのだが、幼馴染みの友人に犯罪歴があったことから、疑いの目が向けられたという成り行きである。
しかし、逮捕後に政府要人から「スポーツ選手は模範的であるべき。代表に居場所はない」などと発言があり、フランス協会も無期限活動停止処分を決める。ベンゼマはヴァルブエナを非難し、協会は「和を乱さないため」との理由でユーロ2016への招集を見送った。ディディエ・デシャン監督もこれを受け入れたため、ベンゼマは「人種差別主義者たちに屈した」と監督を批判し、フランス代表と決別することになってしまった。
フランスのサッカーは、移民系の選手たちで成り立っていると言っていい。そして移民系は都市郊外に集中している。比較的家賃が安く、仕事のある都市に近い郊外は、やがて移民ばかりが住む街として荒んでいった。
アネルカ、アンリ、ベンゼマなど、ほとんどの移民系選手は都市郊外出身者だ。彼らの幼馴染みに犯罪歴があっても、珍しくもないと言っていい。清廉潔白、一点の染みもない模範生を求めるほうが、世間知らずで無理な要求と言える。無実の身に降りかかった世間の冷たい仕打ちに対して、「人種差別」とベンゼマは激しく反発した。10年南アフリカW杯で起きた、フランス代表内の移民系選手の一斉蜂起による分断と、根は同じである。
ベンゼマと同じアルジェリアにルーツを持ち、ベルベル人の血をひくジダン監督がレアル・マドリードにいるのは、ベンゼマにとっては幸運なのかもしれない。ベンゼマが不調だった時期、ジダンは「彼は才能だ。そしてレアル・マドリードの才能は勝つべきである」と庇った。ジダンは自らの出自を巧みに”漂白”してきたが、ベンゼマの悲しみと怒りを共有しているに違いないのだ。