MotoGP最速ライダーの軌跡(3)ケーシー・ストーナー 上 世界中のファンを感動と興奮の渦に巻き込んできた二輪ロードレース界。この連載では、MotoGP歴代チャンピオンや印象深い21世紀の名ライダーの足跡を当時のエピソードを交えながら…

MotoGP最速ライダーの軌跡(3)
ケーシー・ストーナー 上

世界中のファンを感動と興奮の渦に巻き込んできた二輪ロードレース界。この連載では、MotoGP歴代チャンピオンや印象深い21世紀の名ライダーの足跡を当時のエピソードを交えながら振り返っていく。
3人目は、ケーシー・ストーナー。類まれな才能で圧巻のレースを繰り広げた彼の歩みをたどっていく。

 ケーシー・ストーナーは、最高峰クラスのMotoGPに昇格して2年目の2007年にチャンピオンを獲得した。



2006年、LCR時代のケーシー・ストーナー

 紛れもなく、天才である。それは、シーズン全18戦中10勝を含む14回の表彰台獲得、という圧倒的な成績がなにより雄弁に物語っている。さらに言えば、そのシーズンはホンダからドゥカティのファクトリーチームへ移籍した最初の年でもあった。

 この卓越した成績が、彼のぬきんでた能力によるものであることは明らかだが、その事実を認めたがらない声も、実は07年当時には少なからずあった。

 ある者たちは、MotoGPの技術規則変更によりエンジン排気量が990ccから800ccになったことがドゥカティに利したからだ、とまことしやかに言った。またある者たちは、ストーナーは先進的な電子制御技術に頼った現代的なライディングの申し子なのだ、と皮肉ぶって評した。

 そんな斜に構えた半可通の言葉を聞くたびに、ストーナーのクルーチーフを担当していたクリスチャン・ガバリーニはいつも内心で苦笑していたという。実は、ストーナーは電子制御の介入をできる限り排し、右手首の繊細な感覚でスロットルを操作することを好むライダーだったからだ。彼の傍らでマシンセットアップの方向性を束ねるガバリーニは、彼のずば抜けたライディング技術を誰よりもよく知っていた。



才能溢れる走りで観客を魅了したストーナー

 11年に、ガバリーニはストーナーとともにホンダファクトリーのレプソル・ホンダチームへ移籍した。そして、そのシーズンも17戦中10勝を含む16回の表彰台獲得という圧倒的な成績でチャンピオンを獲得した。

 もはや、ストーナーの天才を疑う者はいなかった。だが、翌12年5月、フランスGPが始まる直前のル・マンサーキットで、ストーナーはその年限りで現役活動から退くと明らかにした。あまりに突然の発表だった。当時、ストーナーは26歳。11月の最終戦を終える時には27歳だが、その若さでグランプリシーンを去る決意をしたことに人々は驚き、大きな才能の退去を惜しんだ。しかし、いつもと同じ穏やかな口調で引退の決意を述べるストーナーの表情には、悔いのかけらも見えなかった。

 そんなストーナーが世界選手権へ初めてフル参戦をしたのは02年、16歳で250ccクラスにエントリーした時だ。

 当時の所属先は、かつて有力ライダーだったルーチョ・チェッキネロがプレイングマネージャーを務めるLCR(ルーチョ・チェッキネロ・レーシング)の250ccクラスチームだ。抜擢と言っていい。

 ストーナーは、ときおり上位陣の争いに顔をのぞかせることもあったものの、それよりも、転倒したライダーの名前を確認してみたらこの選手だった、ということが多かったように記憶する。いずれにせよ、見慣れない名前だったので、プロフィールを知人に尋ねたところ、フル参戦を開始したばかりの新人オーストラリア人選手で、いきなり中排気量クラスへデビューしたらしい、ということがわかった。

 ルーキーの登竜門である125ccクラスをスキップし、いきなり中排気量の250ccクラスにデビューしたのだ。ストーナーの自伝『Pushing the Limits』(日本語版未発売)によれば、125ccクラスにはすでにシートの空きがなかったためだという。だが、ストーナーがスペイン選手権に参戦した時代に、チームを指導していたアルベルト・プーチ(元500ccクラスライダー・現レプソルホンダチームマネージャー)がチェッキネロに推薦し、LCRの250ccチームと契約を交わすことになったのだ。

 バイクナンバーは、ストーナーの子どもの頃からお気に入りだった66番を使用するつもりでいたようだが、他の選手がすでに使っていた。そこで、スペイン選手権時代にプーチが割り振った27番を使うことになったという。ちなみにこの時、26番を使用していたのが、後に生涯の好敵手となるダニ・ペドロサだ。二人はともに、これらの番号を引退するまで愛用し続けることになる。

 グランプリデビューを果たした02年シーズンは、何戦かでシングルフィニッシュを果たしたものの、飛び抜けて目立つようなパフォーマンスを発揮した訳ではなかった。翌03年は、125ccクラスにスイッチ。前年同様にチェッキネロのLCRチームから参戦した。第9戦ドイツGPで2位に入って初の表彰台を獲得した後、鮮烈な印象を与えたのは、キャリア2回目の表彰台になった第12戦リオGP(ブラジル)だった。

 このレースでストーナーは、ペドロサやアンドレア・ドヴィツィオーゾ、ホルヘ・ロレンソたちと最終ラップの最終コーナーまで激しいバトルを繰り広げた。結局ロレンソが優勝し、ストーナーはわずか0.232秒差の2位でチェッカーフラッグを受けた。

 レースを終えたストーナーが「勝つ自信はあったんだけど、まさかジョージが最後にアウト側から仕掛けてくるとは思わなかった」と述べた時、「ジョージ」とは誰のことを話しているのかと混乱しかけたが、数瞬後にホルヘ(Jorge)の文字を英語読みしているのだとわかり、妙に得心した。当時のストーナーは17歳、ロレンソは16歳。ロレンソはまだ母国語のスペイン語以外はあまり話せなかった。当時おそらく彼ら二人の間にまだ交流はなく、記者会見などでストーナーは紳士的にロレンソをファーストネームで呼んでみた、という程度の間柄だったのだろう。

 翌戦のパシフィックGP(ツインリンクもてぎ)でも2位表彰台を獲得したストーナーは、最終戦のバレンシアGPで初優勝。ランキングは8位で終えた。04年も125ccに継続参戦し、05年に250ccへ復帰。02年と違って充分な経験と実力を身に付けており、ペドロサとチャンピオン争いを繰り広げた。しかし、シーズン終盤の地元オーストラリアGP決勝レースで転倒したストーナーは、王座の可能性が消え、年間タイトルはペドロサが獲得した。

 05年の250ccチャンピオンとなったペドロサとランキング2位のストーナーは、06年に最高峰のMotoGPクラスへステップアップした。共にホンダ陣営ながら、ペドロサはファクトリーチームのレプソル・ホンダ、ストーナーはサテライトチームのLCRからの参戦だった。ペドロサは開幕戦で2位表彰台を獲得し、一方のストーナーは第2戦カタールGPで大いに存在感を発揮した。

 カタールGPは当時、現在のようなナイトレースではなく、他のレース同様に日中のイベントとして開催されていた。ストーナーがヨーロッパからカタールに向かうフライトにトラブルが生じ、ドーハ空港へ到着したのは金曜午前のフリープラクティスのわずか1時間前。即座にサーキットへ駆け込みレザースーツに着替え、文字どおりバイクに飛び乗って走行に臨んだ。

 にもかかわらず、このセッションで最速タイムを記録。以後のセッションでもトップタイムを続々と記録し、ポールポジションを獲得した。フレディ・スペンサーに次ぐ史上2番目の最年少ポール記録(20歳173日)だった。

 日曜の決勝レースは5位で終えたが、次の第3戦トルコGPは優勝まで0.200秒差の2位表彰台を獲得した。その後は、表彰台に肉迫するものの転倒も多く、最高峰クラス初年度の年間総合順位は8位。小排気量時代からこの頃までのストーナーに共通するのは、切れ味の鋭い速さも発揮するけれども転倒が多い、という振幅の大きな不安定さだった。

 しかし、そのイメージは、翌07年にドゥカティファクトリーチームへ移籍して一変する。(つづく)

【profile】ケーシー・ストーナー Casey Stoner
1985年10月16日、オーストラリア・クイーンズランド生まれ。イギリスやスペインのロードレース選手権参戦を経て、2002年からは世界選手権入り。06年にMotoGPクラスにLCR所属でデビュー。07年にはドゥカティのファクトリーチームに移籍し、初の年間王者を獲得する。レプソル・ホンダチームに移った11年にもシリーズチャンピオンに輝いた。12年に二輪界から引退した。