サッカースターの技術・戦術解剖第14回 ミラレム・ピャニッチ<縦に落ちるFK> 落ちるフリーキック(FK)は、1950~60年代の名手ジジ(ブラジル)の"フォーリャ・セッカ"がオリジナルと言われている。壁を越えてストンと落ちる軌道から「枯れ…
サッカースターの技術・戦術解剖
第14回 ミラレム・ピャニッチ
<縦に落ちるFK>
落ちるフリーキック(FK)は、1950~60年代の名手ジジ(ブラジル)の"フォーリャ・セッカ"がオリジナルと言われている。壁を越えてストンと落ちる軌道から「枯れ葉」の名がついた。
中盤の底の位置でレジスタ(司令塔)としてプレーするピャニッチ。
ジジは「ボールの上を蹴って縦回転を与える」と説明している。ところが、ボールの中心から上を蹴って壁の上を越すのがまず難しい。昔の重いボールでこれが蹴れたジジは、ブラジルが初優勝した1958年ワールドカップのMVPである。
ユベントスのミラレム・ピャニッチもFKの名手で、壁を越えて鋭く落とすシュートを得意としている。何と言っても確実に落としてくるのでGKには厄介だ。シュートを防ぐために壁があるのに、そこを越えてスピードのあるシュートが枠へ入ってくるなら、壁の意味はない。GKとすれば壁で塞いでいるほうも注意をしなければならない。ところがピャニッチは、横にカーブさせるFKもうまいので、GKはヤマを張れないのも厳しい。
2013-14シーズンからの2年間、ピャニッチのFK成功率は18.4%で、ヨーロッパ最高だった。ローマでプレーしているころだ。ローマでは"イル・ピッコロ・プリンチペ"(小さな王子)と呼ばれていた。クラブのレジェンド、フラッチェスコ・トッティが王様なので、ピャニッチは王子。身長は180cmなので背が低いわけではなく、年齢が若かったのでピッコロだったようだ。ユベントスでは"イル・ピアニスタ"(ピアニスト)。技巧的で、ある意味古典的なMFである。
ボスニア・ヘルツェゴビナで生まれたが、少年期にボスニア戦争が起こったためにルクセンブルクへ移住している。父親も下部リーグの選手だった。7歳からルクセンブルクの地元クラブでプレーを始めると、多くの有名クラブのスカウトから注目され、14歳の時にフランスのメスのユースチームに加入した。
17歳でリーグアンにデビュー。メスが降格して、移籍先を探していた時にはアーセナル、チェルシー、バルセロナ、レアル・マドリード、ミラン、インテルと名だたるクラブから誘いがあった。ピャニッチは実家のあるルクセンブルクから遠くなるので移籍には乗り気ではなかったというが、2部でプレーするつもりもない。結局、同じフランスのリヨンへ移籍した。
リヨンにはFKの名手、ジュニーニョ・ペルナンブカーノ(ブラジル)がいた。リヨンはジュニーニョの後継者としてピャニッチに期待を寄せ、09-10シーズンにはジュニーニョがつけていた背番号8を与えている。
<レジスタ>
リヨンで3シーズン、ローマで5シーズン。ピャニッチは世界有数のMFに成長した。必殺のFKにハイレベルな技術、長短の正確なパス、ドリブル、得点感覚とオールラウンドな能力があり、セカンドトップもサイドハーフもできる。
16年、ユベントスへの移籍はピャニッチにとって転機になった。マッシミリアーノ・アッレグリ監督は、万能のピャニッチの能力を凝縮する方針を打ち出した。ディフェンスラインの前、中盤の底に置いてレジスタ(司令塔)の役割を任せたのだ。
イタリアにはレジスタの伝統がある。
60年代の"グランデ・インテル"で活躍したルイス・スアレスはその代表的な選手だった。スペイン人のスアレスは、61年にバルセロナからインテルへ移籍し、1シーズン前にバルセロナからインテルへ移っていたエレニオ・エレーラ監督の下、深いポジションからのロングパスでカウンターアタックの演出家となっていた。
近年ではミラン、ユベントスで活躍したアンドレア・ピルロがいる。リヨンでジュニーニョの後継者だったピャニッチは、ユベントスでピルロの後釜に据えられたわけだ。
ピルロもピャニッチも、もともとは攻撃的MFだった。トップ下、イタリアでトレクアルティスタと呼ばれるポジションだ。ただ、このポジションの選手としては2人とも技巧的すぎたのかもしれない。セカンドストライカーとしての得点力や、スピードが重視されるようになっていくなかで、芸術的なプレーぶりはむしろ余分とさえ見られていたかもしれない。
<引き算の美学>
ミランでカルロ・アンチェロッティ監督がピルロをレジスタとして起用したのは英断だった。
すでにこのポジションで好感触を得ていたピルロが直訴したというが、問題は守備力である。そこでハードワーカーのジェンナーロ・ガットゥーゾを"護衛"に起用し、ピルロ&ガットゥーゾのペアはのちの06年ワールドカップでイタリア優勝の原動力にもなった。しかし当初は、やはりピルロのアンカー起用は冒険とみられていた。
バルセロナで、ヨハン・クライフ監督がジョゼップ・グアルディオラを抜擢した時も、同じ不安があった。クライフの場合は、最初から中盤の底に技巧派のルイス・ミジャを起用していて、攻撃のための最重要ポジションという位置づけである。
グアルディオラの登場でチームの背骨が固まったが、グアルディオラがいなくても技巧派の誰かが起用されていたはずである。ミランの場合、ピルロのレジスタはボールを支配しきるゲームをやるという決意表明にほかならず、アンチェロッティはその一歩を踏み出したわけだ。
ピャニッチにはすでにピルロという前例があったので、レジスタ起用はそこまで冒険的ではない。その万能性ゆえに拡散されていた能力を絞り込むことで、ピャニッチの真価を引き出す狙いだろう。
攻撃能力の高いMFのポジションを下げると、相手のプレッシャーが軽減するのでプレーの精度が上がり、楽にプレーできる。余裕を持たせることで、ゲームを組み立てる能力がより引き出されることが期待できる。
ディフェンスラインの前にいる司令塔としては、70年代にリベロとして新境地を拓いたフランツ・ベッケンバウアー(当時西ドイツ)の例が挙げられる。ベッケンバウアーはMFとして、すでに世界最高クラスの名声を得ていたが、本人は「息切れ」に悩んでいたという。中盤で走り回るのではなく、リベロとして運動量をセーブできるようになって、チームを統率する役割に集中できるようになった。
現在のピャニッチも、サミ・ケディラ、ブレーズ・マテュイディといった運動量豊富な味方に支えられ、余裕を持ったプレーができるようになっている。もっと攻撃的に前方でプレーする力があるので、ピャニッチのポジションを下げるのはもったいない気もするのだが、それはピルロやベッケンバウアーにも言えることだった。
プレーを抑える、引き算することで、チームにより大きな貢献ができる場合もあるのだ。