私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第15回初めての日本代表で経験した「ドーハの悲劇」~ 三浦泰年(3)(1)はこちら>> (2)はこちら>> アメリカW杯アジア最終予選のイラク戦――。 後半44分、日本は2-1でリードしていた。こ…

私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第15回
初めての日本代表で経験した「ドーハの悲劇」~ 三浦泰年(3)

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 アメリカW杯アジア最終予選のイラク戦――。

 後半44分、日本は2-1でリードしていた。このまま勝てば日本サッカー界史上初となるW杯出場が決まる。アメリカへのチケットは、もう指先までかかっていた。

 武田修宏のセンタリングが相手ボールになり、すぐに森保一が取り戻した。そして、ラモスに預けると、前線のカズにラストパスを出した。そのボールが相手に引っ掛かり、カウンターを受け、コーナーキックを与えてしまった。


試合後、弟・カズが立ち上がるまでそばにいた三浦泰年

 photo by AFLO

 ベンチでは、都並敏史がレフリーに仕切りに「時計、時計」と声を出していた。都並は、もう自分を止められないようだった。三浦は、その声を複雑な感情を抱いて聞いていた。

「選手がいろいろ言うとレフリーへの印象が悪いじゃないですか。それは、監督のオフトが言うべきことだと思っていたんです。ただ、気持ちは都並さんと同じでした。早く終われ、早く終われ、それしか思っていなかった」

 後半45分過ぎ、コーナーキックがラストプレーだった。相手のショートコーナーからカズが切り替えされ、クロスが上げられた。ボールの行方を追うと、ゴールに吸い込まれていくのが見えた。

「その瞬間は、『えっ』という感じでした。それからは頭が真っ白ですよ」

 ゴンは、ベンチ前に倒れ、伏していた。同点弾を決められた選手たちは、ゲームを続ける余力がもう残っていなかった。再開のキッキオフとほぼ同時に試合終了を告げる無情の笛が鳴り、選手たちはピッチにヘナヘナと座り込み、倒れ伏した。

 柱谷は両手で顔を覆って号泣していた。ラモスは、ピッチに座り込んだまま動けずにいた。そして、カズも放心状態でピッチの上に座り込んでいた。

 三浦は、カズがいる所に向かって歩いていった。

「それはよく覚えています。試合が終わって、ピッチに座っているカズの横に行って、何かを言うわけでもなく、立っていた。あれだけW杯に賭けてきたからね。カズの無念さや悲しみは痛いほどわかった。僕らは兄弟だけど、選手としても一番好きなのがカズだったんです。

 自分が代表に呼ばれなくても自分のチームのように応援することができたのは、カズの存在があったから。カズが僕の代わりに走っている、ボールを蹴っているという感覚があった。だから、代表に呼ばれてカズと一緒にプレーできるのが、すごくうれしかったし、この楽しい時間が少しでも長く続いて欲しいなって思っていました……」

 しかし、最後にサッカーの神様は三浦兄弟を、そして日本を奈落の底に突き落とした。三浦は再びカズが立ち上がるまで、その場を離れなかった。

 ドーハからしばらくして、三浦は、ふとこんなことを思ったという。

「あの時、僕の行くべき場所は弟のカズのところではなく、むしろゴンとか他の選手のところだったのかなぁって思ったんです」

 三浦は、カズがブラジルから戻り、W杯に出場することにすべてを賭けてきたことを誰よりも理解していた。掴みかけていた目標を目前で失い、ショックを受けた弟の気持ちを思いやることは自然なことだろう。

 ただ、このチームには三浦が信頼するラモス、柱谷、都並、ゴンら多くの仲間がいた。

 三浦は、93年読売クラブから清水エスパルスに移籍するのだが、その時は誰にも何も言わずに移籍を決めていた。相談したら迷いが生じ、決断がブレて移籍できなくなると思い、あえて相談しなかったのだ。

 事後報告をしたところ、戸塚哲也や都並に「何言ってんだ。今までお前のことをこんだけ可愛がってきたのに、事後報告かよ」と言われた。だが、読売クラブの選手たちは言動は荒っぽいものの、その言葉には愛情があり、常に仲間思いだったのだ。

「カズのところに行き、みんなのところに行かなかったのは、逆に自分が慰められてしまう。もしかしたら弱い自分を見せてしまいそうで怖かったのかもしれないですね」

 三浦は、そう言って静かな笑みを浮かべた。

 ドーハから10年後、2003年に三浦はヴィッセル神戸で現役を引退した。通算258試合出場(JFL81試合含む)11得点、日本代表は93年のアジアアフリカ選手権とドーハのサウジアラビア戦、イラン戦の3試合の出場だった。

「86年に読売に入って17年で引退。短いですよ、カズはまだ現役なんで(苦笑)。カズよりも丈夫な体に産んでもらい、カズよりも技術をつけてくれた人がいたのに自分は早く引退した。あらためてカズのすごさがわかります」

 その後、三浦は指導者の道を歩むことになる。

 2011年にキラヴァンツ北九州の監督に就任。つづいて東京ヴェルディ、チェンマイFC、カターレ富山を指揮した。2017年には鹿児島ユナイテッドFCの監督を務め、18年にはクラブ初のJ2昇格を果たした。

 ドーハの経験は、監督になった三浦の指導に大きな影響を与えているという。

 最終予選の韓国戦に勝ったあと、三浦はカズと抱き合って喜んだ。最終予選は韓国に勝ってW杯に出場するというのが大きな目標だったからだ。しかし、監督目線で考えると、韓国戦はW杯予選を突破するうえでの1試合でしかない。その試合に一喜一憂している場合ではなかった。

 また、イラク戦は最後にボールキープを徹底できず、ラストプレーでW杯への出場権を失った。勝つことの難しさ、サッカーの恐さを身に染みて感じた。

「監督になってから1点リードした状態で試合の終わりになると、ベンチから出ていって『もう終わりじゃねーか』とレフリーに何度も言っていた。『あれだけキャリアのあるヤスさんがなぜ、あんな見苦しいことするのか』と言われるけど、どんなに見苦しくても勝つためには必要なことだと思うんです。

 また、僕は試合に勝っても選手を喜ばせないし、むしろ怒っていた。例えば鹿児島の目標はJ2昇格で、1試合に勝ったからといって喜んでいる場合じゃない。選手には『絶対、最後まで気を抜くな』とよく怒鳴っていました。そういう監督になったのはあのイラク戦、ドーハの経験があったからです」

 勝っても怒鳴り散らす監督に選手の反応は、「えっ、何言ってんの?」ではなく、「そういう考え方もあるんだ」と受け入れてくれたという。三浦があまりにもしつこく言うので、選手も次第に理解し、結果に一喜一憂しなくなった。



 今は新しい目標に向かって進んでいる三浦泰年

「唯一、試合後、ニコリと笑えたのは、鹿児島でJ2に昇格した時かな。やっぱりサッカーは最後まで何が起こるかわからない。多くの人があの経験を忘れてきているけど、少なくてもドーハにいた人間は、それが刻み込まれていると思う」

 三浦は、自分に言い聞かすように、そう言った。

 ドーハでの経験を活かしてきたが、三浦自身はこれまで「ドーハの悲劇」について話をしてこなかった。選手として味わった最も辛い経験であり、W杯に行けなかった責任を感じていたことは理解できるが、27年間の沈黙は長い。

 なぜ、ドーハを封印していたのだろうか。

「ドーハでW杯に行けず、自分たちの責任を果たせなかったことはとても辛かった。その歴史の当事者になった人間が『ドーハはいい経験になった』とか、口が裂けても言えないと思ってずっと生きてきました。正直に言うと今までドーハが嫌いだったんです。僕のせいで(W杯に)行けなかった。そこで何を自分が感じたとか、何が起こったとか、思い出すのもイヤでした。

 それにドーハがあるから日本はW杯常連国になれたのではなく、アメリカW杯に出場できなかったから、日本サッカーの進歩が10年遅れた。だから、日本のサッカーがまだここまでの力なんだという風に考えるべきだと思う。そういう意味でも僕らがドーハで勝てなかったことの責任は、とても大きいんです」

 当事者の三浦にとっては酷な経験だったが、彼が感じたことと彼が残したくれたものは別だ。「ドーハの悲劇」は、サッカー界のみならずスポーツ界に大きな教訓になった。ドーハがあったからフランスW杯最終予選で追い込まれたアウェーの韓国戦では最後まであきらめずに戦って勝ち、ジョホールバルで歓喜の瞬間を迎えられた。

 ドイツW杯でチームがバラバラになり、惨敗して生まれた教訓は南アフリカW杯で「ドイツを繰り返すな」という合言葉になり、ベスト16を達成した。歴史的な教訓とは何かが起きる度に、巻物のように継ぎ足され、次世代へ活かされていくものだ。

 では、なぜ今、三浦はドーハを語る気持ちになったのか。

「自分が先に進めなくなった時、昔をもう一度、分析し直すというか、検証することはすごく大事。だからドーハのことを話すことで今の自分の見つめ直し、次のステップにいきたいと思っています」

 その次のステップとなるのが、ブラジルでの指導者としての挑戦だ。

 昨年11月、三浦はブラジルのサンパウロにあるソコーロSCのU-20チームの監督に就任した。ブラジルのクラブを指揮する史上初の日本人監督になり、今年1月にはネイマール、カカらも経験した若手の登竜門的な大会であるコパサンパウロというユース大会に出場した。その大会で契約は終了したが、多くのメディアに取り上げられ、その厳格な指導が高く評価された。今後も新たなオファーが届く可能性があり、指導者として活躍する夢を描いている。

「ドーハのあと、レオン監督に『こういう時は練習を休まず、すぐに試合に出た方がいい』と言われて、帰国後数日で富山でのプレーシーズンマッチに出場したんです。その結果、落ち込んでいる暇もなく、すぐにサッカーに集中できた。今の時代は、選手に強く言うとパワハラになってしまう。でも、本来、選手が強くなるのはそういうことだと思うんです。これから、またそういう強さが求められる時代になってくると思うし、そこに古いこと、新しいことをミックスして、滅法強い監督になりたいですね(笑)」

 三浦の勝利への執着はリミットがなく、それはまさに「執念」とも言えるものだ。勝つために1分1秒油断しない、気を抜かない、当たり前のことを何度も厳しく言い続けられるのは、自らの経験に裏づけられているからだろう。

勝負に勝つために必要なことの多くは、ドーハで学んだ。

三浦の厳格な指導には、ドーハの匂いが今も色濃く残っている。

(おわり)