父の日プレゼンツボクシング・粟生隆寛の「父子鷹」 粟生隆寛は、ボクシングと出会った日のことを覚えていない。 ホームビデオに映る幼き日の自分の姿を見て、父を相手に初めてミット打ちをしたのが3歳であったことを知る。2009年3月、粟生隆寛は…
父の日プレゼンツ
ボクシング・粟生隆寛の「父子鷹」
粟生隆寛は、ボクシングと出会った日のことを覚えていない。
ホームビデオに映る幼き日の自分の姿を見て、父を相手に初めてミット打ちをしたのが3歳であったことを知る。
2009年3月、粟生隆寛はついに世界チャンピオンになった
父・広幸さんが25歳の時に、息子・隆寛は生まれた。
当時、プロテストの受験資格は29歳まで。以前から格闘技が好きだった広幸さんは、28歳の時に一念発起し、近所のボクシングジムに入門。プロを目指した。3歳だった粟生も父に連れられ、一緒にジムに行くことが日常になる。
しかし、仕事中のケガにより、広幸さんは指の腱を切るケガをしてしまい、プロになることをあきらめざるをえなかった。粟生親子の物語は、果たされなかった父の夢を息子に託し……というものではない。
粟生が振り返る。
「もちろん、親父がうまくボクシングをやるように導いてくれたんだと思います。ただ、『ボクシングをやれ』と強要されたことは一度もなかった。
子どもって父親と遊ぶのが好きですよね。ボクシングが父との遊びの一環で、よその家で親子がキャッチボールをやるように、うちでは親子でミット打ちが日常の風景だったんです」
ボクシングをやることを強制しなかった理由を、広幸さんはこう言う。
「誰かに何か言われて奮起する程度の覚悟で強くなれるほど、ボクシングは甘くないですから。ボクシングに限らず、あいつによく言っていたのは『これはお前の人生。決めるのはお前だ』ということでした」
もちろん、優しいだけの父ではなかった。
粟生親子は後楽園ホールに足しげく通っては、ボクシングジムの会長に「この子のスパーリング相手になってくれるような同年代の選手はいませんか?」と声をかけるようになる。スパーリング相手が見つかると、自宅の千葉県千葉市から東京、茨城など、関東一円のジムに父の運転で出稽古に行くようになる。
粟生が不甲斐ないスパーリングをした日の帰り道、車内は地獄だった。
「運転中なのに、親父の裏拳が飛んでくることがありました。ヤバイなって日は、裏拳が届かない助手席の窓際ギリギリに座るようにしてましたね(笑)」
反対に、いいスパーリングをした日の車内は天国だった。
「ファイトマネーというか、お小遣いをくれるんです。いいスパーをした日は、今日はいくらかなとかワクワクしてました(笑)」
小学4年生の時、『将来の夢』をテーマに作文の宿題が出ると、粟生は原稿用紙にたった一行「ボクシングで世界チャンピオンになりたい」と書いた。大きく残った余白には、チャンピオンベルトの絵を描いた。「作文をズルするためだったんですけどね」と、粟生は少し恥ずかしそうに笑う。
「憧れていた川島郭志さんがWBC世界スーパーフライ級王者だったんで、WBCのベルトを描いたんです。ただ、世界チャンピオンになりたいと思っていましたけど、本当になれるとは思えなかった。野球少年がプロ野球選手に憧れる感覚に近かったと思います」
しかし、夢への距離は加速度的に縮まっていく。
粟生は中学生になると、各県のインターハイ代表選手も多く参加する名門・習志野高校ボクシング部の合宿に参加するようになる。そして、中学生ながら各県のインターハイ代表選手を倒すことも多かった。
二人三脚で練習に励んでいた粟生親子の関係に大きな変化が訪れたのは、粟生が習志野高校に進学した時だった。
「あとは監督に任せる」と、父は指導に関して以後口を出さないと宣言し、実際に一切のアドバイスを止めた。その変化を粟生は「技術的にも、もはや父のキャパを超えてしまったから」と考えていた。
それは、半分正解で、半分は間違っている。広幸さんが言う。
「もちろん、私のキャパオーバーもあります。ただ、それ以上に指導者がふたりいたら、選手が不幸でしょ? ふたりの指導者の板挟みになったら、本人がかわいそうじゃないですか。指導者はひとりであるべきです」
小4で粟生が本格的にボクシングを始めてから広幸さんは、その日のトレーニング内容、こなしたラウンド数、走った距離、タイムなどの詳細を記した練習ノートを作っていた。1年に1冊、小4から高校3年までの9年間で計9冊の練習ノートが、今も自宅に保管されている。
高校生の息子の練習には一切、口を出さなかったが、部活から帰宅後、粟生にその日の練習メニューを聞いてはノートに記録し続けることは止めなかった。
「口は出さない。ただ、つないだ手を離してはいないよと伝えたかった」
きっと、その思いは通じていた。
粟生は「あの人、口下手なんです。人前では感情を表情に出さないですしね」と父の印象を語る。
高校3年の国体で優勝し、高校6冠を達成。リングから降りた瞬間、客席の父と目が合った。粟生以外なら、仏頂面に見えただろう。だが、粟生は一瞬でわかった。
「あ、喜んでる」
当時、史上初となる高校6冠を達成した高校時代、粟生にはボクシング以外で忘れられない思い出がある。
ある日、理由は忘れてしまったが、父と腕相撲をすることになった。父の手を握って「レディーゴー」の掛け声を発した直後のことだった。
「高校1年だったかな。ゴーって言った瞬間、『勝てちゃう』って感じたんです。親父は絶対的な存在というか、超えちゃいけない存在みたいに感じていたんでしょうね。力を抜いて、わざと負けたんです。あの時、なんか、うん、なんとも言えない気持ちになったのを、今でも覚えています」
高校を卒業した粟生は、帝拳ジムの門を叩く。
広幸さんは練習ノートを記録することもやめ、粟生の後援会長となった。
「もはや私にできるのは、あいつの試合会場の客席を一席でも多く埋めることくらいですからね」
粟生は2003年9月にプロデビューし、2008年10月にWBC世界フェザー級王者オスカー・ラリオス(メキシコ)に挑戦。
試合は、粟生が4Rにカウンターでダウンを奪うも、意地を見せるチャンピオンを仕留めきれず、判定にもつれる。12R終了のゴングが鳴った瞬間、両腕を高く突き上げるチャンピオンと対照的に、粟生は右腕を申し訳なさげに肩の高さまで上げた。その瞬間を、粟生が振り返る。
「終わった瞬間、『勝った!』と確信が持てなかった。半信半疑、どっちかなって。判定を待つ間、いろんなことが頭をよぎって。試合を日本でやっている、ホームアドバンテージみたいなものが多少でもあるとしたら勝てるかな、とか」
しかし、1−2の判定で粟生は敗れる。ホテルの部屋に戻った粟生は、ひとり泣いた。
「情けなくて泣きました。ホームアドバンテージ!? 一瞬でもそんなことを思った自分が恥ずかしくて泣きました」
息子のプロ初の敗戦を客席から見ていた父は、「爆発力というか、野性味のようなものがない。性格が優しすぎるのが弱点なのかもしれない」と振り返る。
もちろん、それは粟生本人もわかっていた。
「殴られた瞬間、『この野郎!』と殴り返せる選手の試合を見て、無い物ねだりじゃないですけど、うらやましく感じてました。そういう本能的なスタイルに、見ている人は惹かれるし、華を感じる。
ただ、同時にカッとなって前に出るのはリスクを負うことになる。相手の誘いに乗ってしまうことにもなるんで。
僕はカッとなる前に、『なぜ相手のパンチが当たったのか?』と考えてしまう。ボクシングをよりスポーツとして捉えていたんだと思います。パンチを当てる・避ける技術をリング上で競う競技だと。
何よりファイタータイプに憧れがあっても、スタイルを変えることで、積み上げてきた今のボクシングが壊れてしまうかもしれないという恐怖が強かった」
敗戦から半年後、2009年3月にラリオスとのダイレクトリマッチが決まった。
ゴングと同時に前に出る粟生。腹は決まっていた。
「リスクを背負わなければ勝てない。何かを得るためには、何かを捨てなければいけない」
試合は再びフルラウンドまでもつれる。残り10秒を告げる拍子木がなると、粟生はすべてを出し尽くさんとばかりに、さらに前に出た。そして試合終了のゴングが鳴り響くと、リングに倒れ込み突っ伏した。
「倒れこんだのは、喜びのあまりというより、胸を張って『勝った!』と思えた瞬間、全身の力が抜けたんです。腰が抜けたって表現が一番近いと思います」
判定3−0。
リング上でチャンピオンベルトを巻く息子を、広幸さんは客席から見つめていた。
「まさか本当に世界チャンピオンになれるなんて。不謹慎な表現ですが、あの瞬間、死んでもいいと思いました。ああ、きっとこの後の人生で、この瞬間よりうれしい瞬間は訪れないだろうなと」
しかし、粟生は初防衛戦であっけなく王座陥落する。
スーパーフェザー級に階級を上げ、再び世界戦のチャンスが巡ってきたのは、2010年11月だった。
粟生のベストバウトの呼び声も高いWBC世界スーパーフェザー級王者ビタリ・タイベルト(ドイツ)との一戦。3Rに粟生が左カウンターで王者からダウンを奪うと、その後も優位に試合を進め、3−0の判定勝ち。日本人7人目となる世界2階級制覇に成功した。
しかし、リング上の勝利者インタビューで粟生が語ったのは、勝利の喜びや、王者陥落からの努力の日々についてでもなく、「これで長谷川(穂積)さんにつなげられました」の言葉だった。
粟生の試合の次に控えていたのは、わずか1カ月前に最愛の母を亡くした長谷川のWBC世界フェザー級王座決定戦だった。
試合後、控え室で囲み取材を受ける粟生。長谷川の試合が始まるのを知ると、「すみません」と記者に頭を下げ、長谷川の応援のためリングサイドに駆け出した。
粟生の優しさは、ボクサーとしては弱点だったのかもしれない。しかしその優しさは、人としての大きな魅力のひとつだったのは間違いない。
2015年5月、3階級制覇を狙った粟生はレイムンド・ベルトラン(メキシコ)とWBO世界ライト級王座決定戦を行なう。しかし、前日計量でベルトランが体重超過。粟生が勝利した場合のみ王座獲得となるという条件で試合は行なわれるも、粟生は2RにTKOで敗れる。
父・広幸さんは「これで終わりだと思った」と、その試合を振り返る。
「引退した今だから言えますが、ここでやめてほしかった」
しかし、試合から3週間後、薬物検査を受けたベルトランから筋肉増強効果のある違反薬物スタノゾロールの陽性反応が出る。
そのニュースを知った粟生は父に言った。
「これって、神様が俺にボクシングを続けろって言ってるんじゃないのかな?」
この時、粟生は31歳。3歳からずっと息子のボクシングを見てきた父はわかっていた。
「反射速度、確実に遅くなっていました。間違いなく衰えが始まっていた」
「やめておけ」と言葉が何度も溢れそうになったが、広幸さんはその言葉を飲み込む。
「ニュースを聞いた翌日から練習を再開したんです。懸命にトレーニングする姿を見ていると『辞めろ』とは言えませんでした」
昨年、広幸さんは還暦を迎える。すると、粟生が銀座の寿司屋に誘い、ふたりきりで食事をすることになった。
粟生が、少し照れ臭そうに言った。
「ふたりともアルコールが得意じゃないってこともあるんですが、この日、初めて親父とお酒で乾杯しました。ニガッと思ったんですが、なんか今日くらいはと思って、1杯だけですけど飲み干しました」
乾杯のあとはたわいもない会話が、とりとめもなく続いた。ボクシングの話は一切しなかった。
年が明け2020年1月、粟生は父に電話を入れる。
「もういいかな、と思ってる」
察した父は短い言葉を返した。
「お前の好きにすればいい。無事で終えてさえくれれば、それでいい」
そして4月、粟生は引退を決心したことを父に告げる。
返事はひと言だった。
「そうか、わかった」
粟生の現役最後の試合となったのは、2018年3月の対ガマリエル・ディアス(メキシコ)戦。父だけでなく、本田(明彦)会長もまた粟生の衰えに気づいていた。ディアス戦後、粟生は幾度となく「試合をさせてほしい」と頭を下げても、会長は「何に関しても協力するが、試合に関してだけは協力できない」と首を縦に振ることはなかったからだ。
4月6日、粟生はSNSのライブ配信で引退を発表。この日は粟生の36歳の誕生日だった。
「僕が世界チャンピオンになれたのは、父の協力だけでなく、ものすごい周りの人のサポートがあったからです」
そして、続ける。
「結果論かもしれませんが、チャンピオンになれた、なれないは関係なく、ボクシングをやってよかったと心から思います。多くの出会いも、経験も、味わえた充実感も、全部ボクシングと出会えたからこそ。引退した今、あらためて本当にやりたいことをとことんやれたんだと感じます。
気がついたら始まっていたボクシング人生。気がついたらボクシングにハマっていた。好きになっていた。僕にボクシングを始めるきっかけを与えてくれた父には感謝しきれない」
引退した粟生へのメッセージを求めると、広幸さんは言葉短かに言った。
「ありがとう。よくがんばったね」
最後に、粟生が高校時代に腕相撲をして手心を加えたエピソードを広幸さんに伝えると、「あの頃はまだ力仕事をしていたし、まだ私のほうが強かったと思っていました」と笑った。
ただ、まだまだだな、とばかりに、父に勝ちを譲った息子に語りかけるようにこう続けた。
「遠慮せず負かせばよかった。あいつと過ごしたどの時間も、忘れがたい思い出ばかりです。世界チャンピオンになった瞬間は、もちろんうれしかった。ただ、同じくらい忘れられないのが、高校を卒業して帝拳ジムへ入門した日のことです。
もちろん、ボクサーとしても社会人としても、まだまだ半人前でした。ただ、あの日が、隆寛が独り立ちした日。ああ、大きくなったなと、うれしさと寂しさがないまぜになった感情は、今も忘れられません。
子が親を超えていくこと、自分の足で立てるようになること。うれしくないわけないじゃないですか」