父の日プレゼンツテニス・錦織圭の「父子鷹」 錦織圭と”30歳”という数字が重なった時、思い出…
父の日プレゼンツ
テニス・錦織圭の「父子鷹」
錦織圭と”30歳”という数字が重なった時、思い出すことがある。
父親の清志さんが、かつてふと漏らした「あいつには、30歳になっても飛んでいてほしいけん……」のひと言。
ひじにメスを入れた錦織が復帰のシーズンを戦っていた、10年前のジャパンオープンの日であった。

プロ転向前、17歳になったばかりの錦織圭
錦織圭にテニスを授けたのが父であることは、今や広く知られた「始まりの物語」だろう。
学生時代にテニスの奥深さに魅せられた清志さんは、仕事で訪れたハワイで目にした、通常よりひと回り小さいラケットに引き寄せられる。
「ジュニア用のラケットがあるんだ……」
そんな好奇心から手に取ったラケットを、そのまま購入し、お土産として持ち帰った。
子どもたちに多くのチャンスを与えることは、錦織家の方針だったのだろう。姉弟は様々な習い事に触れ、とくに長女は深く水泳に打ち込んでいた。
ただ、父にしてみれば、水泳は一緒にできない。レースを応援しに行っても、子どもの姿がよく見えない寂しさもある。
「でも、テニスなら、一緒に子どもたちと遊んでやれるよな」
そんな思いに導かれ、ふたりの子どもにラケットを手渡した。圭が5歳、姉が9歳の時である。
「圭の負けず嫌いは、想像を絶するものがある。だからこそ、テニスは彼にとって楽しいものでなくてはならないんです」
清志さんからはこの言葉を、一度ならず聞いてきたように思う。
テニスを楽しむ心——。それは、ラケットとともに父が息子に授けた、最大のプレゼントだったかもしれない。
つらくなって止めるようなことなく、ずっと楽しく続けて欲しい……。
父がそう強く願った訳は、自身のほろ苦い経験にも根ざしている。
野球少年だった清志さんは、地元の少年野球団で3、4番を任されるチームの主力だった。しかし、中学に進学して野球部に入ると、頭を丸め、来る日も来る日も球拾いだけをさせられる。
「なんて無駄な時間を過ごしているんだろう……」
自尊心も傷つけられ、入部から3カ月ほどして、耐えられずに部を去った。だが、その時に味わった挫折感や「俺は根性がないのかな」という自責の念は、しばらく消えなかったという。
時が経ち、父となった清志さんは、「自分の子どもたちには、そんな想いは絶対にさせまい」と誓った。
とくに、大の負けず嫌いで、テニスのゲーム性にのめり込む息子の姿に、清志さんは自分によく似たものを感じたという。だからこそ、なおのこと父は「楽しい」や「遊び心」に重きを置いて、子どもたちにテニスを教えた。
それでも、子どもたちの腕も上がり、練習に熱がこもり出すと、厳しいことを言うべき場面も増えていく。そんな時、損な役回りを引き受けたのは、4歳年長の姉だった。
圭はきつい言葉を浴びせると、萎縮してしまうところがある。その点、お姉ちゃんは適度に流しながら処理する能力がある。そう感じていた父は、息子に言いたいことも、姉に言い聞かせる形で間接的に伝えたという。
「お姉ちゃんには、ストレスだったかもしれないな」
後年、父は申し訳なさそうにこぼした。
圭が米国フロリダ州のテニスアカデミーに渡ったのも、父が描いた青写真どおりだったかもしれない。
島根に生まれ育った「地方の子」である圭が、いい環境を獲得するには、小学生の間に全国優勝しなくてはいけない。
そう思っていた父の胸中を知ってか知らずか、圭は小学6年生時に全国大会三冠を成し、盛田正明テニスファンドの奨学生として、親元を離れてアメリカに渡る。
その時、父は安堵したという。
「この土地では、いつも何かに追われている感じだった。だから圭がアメリカに行った時は、正直、ホッとしたんですよ。これで、自分の役目は果たしたな……と」
錦織圭、中学2年の夏だった。
「最初は、怖いという気持ちと、行ってみたいという思いが半々だったと思います。でも、最終的には『せっかくのチャンスなのだから、自分を試してみたい』と思い、自分の意志で決めました。親や周囲がどう考えたかというよりも、やはり自分のことですから」
渡米から4年経った、17歳の夏。ロサンゼルスでATPツアー本戦初出場を果たした錦織は、朴訥ながら強い意志の宿る口調で、はっきりとそう言った。「自分で決めた」のひと言が、一連のコメントのなかでも取り分け強く立ち上がる。
ただ、その8年後にあらためて同じような質問をぶつけると、世界のトップ10に定着しはじめた25歳は、やや異なる見解を口にした。
「子どもの頃は、親にやらされている感はありましたよ。ただそこは、すっごい難しいと思うんですよね。親が押してくれないと、子どもの力だけでは無理なところもあるし、でも、親が押しつけすぎてもダメだし。誰かが道を作ってくれないと、子どもが導かれないのかな……と」
そのように感じるようになったのは、ここ2、3年のことだとも彼は言った。
もうひとつ、この時の彼の言葉で忘れがたいものがある。それは、こちらが何気なく口にした「フェデラーは楽しそうにテニスをしている」という発言への反応だ。
「俺もよく言われるけれど……、楽しくない時に『楽しそうだねって』って言われると、あ、そう見られているんだって思う時があります。
テニスは、楽しいですよ。ただ、楽しいけれど、プレッシャーや身体の痛みとの戦いだったり、勝つために努力しているけれど、うまくいかない時のほうが多いので。楽しいは楽しいけれど、それだけでは難しいです」
「楽しむ」という言葉に示した、ささやかな拒絶反応。それはもしかしたら、遅れて来た反抗期に近い感情だったのかもしれない。
30歳となって迎えた、今シーズン。
錦織はメスを入れたひじのケガが完治せず、1月の全豪オープンを欠場。そのまま公式戦のコートに立つことなく、新型コロナウイルス感染拡大によるシーズン中断期に突入した。
13歳から暮らすフロリダ州ブラデントンも、厳格なロックダウンを施行。錦織もテニスはおろか、外出すらままならない日が続いた。
その停止したスポーツ界のなか、錦織はトップアスリートによる音声発信サービス『NowVoice』を用いて、世の少年・少女たちに次のようなメッセージを送っている。
「30歳になっても、まだまだたくさんできることが増えているし、足りないところも見えたりするので、それを楽しんでできている今っていうのは、本当に幸せなことかなと思います」
かつて抵抗を示した「楽しい」の言葉を、彼は柔らかく口にしていた。
テニスの楽しさを、いつまでも忘れないでほしい。遊び心を失わず、テニスを長く続けていてほしい……。
25年前に父から受け取ったプレゼントは、今も息子のなかに、たしかに息づいている。