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スーパーエース・西田有志 
がむしゃらバレーボールLIFE (4)

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 現在のバレーボール男子代表で、大きな期待と注目を集めている20歳の西田有志。そのバレー人生を辿る連載の第4回は、海星高校3年時のインターハイ出場をかけたライバル校との激闘について振り返る。

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 2016年11月、春高予選の決勝で松阪工業に惜敗した海星高校。その大会後に主将を任され、3年生に学年が上がった西田は、悲願の3大大会(インターハイ、国体、春高)初出場に向けて2017年5月に開催されたインターハイ予選の三重県高校総体に臨んだ。


海星高校のエースとして活躍した西田

 photo by P&P浜松

 海星は順調に勝ち進み、決勝はやはり松阪工業高校との対戦になった。何度も苦杯をなめさせられてきたライバルを相手に、海星は大会前からある対策を講じていた。西田は当時をこう振り返る。

「松阪工業には絶対的なエースがいたんですが、その選手以外にできるだけ得点されないようにしようとチームで決めたんです。僕たちは身長が大きくなかったですし、ブロックのシステムなどもなかったですから、とにかくワンタッチをとって拾うといった技術を練習で高めていきました。チーム全体のレシーブ力も上げられたと思います」

 その策がハマり、第1セットを海星が先取する。第2セットを奪い返されるも、西田が「ペースはずっとこっちが握っていた」と話すように、鍛え上げたレシーブを軸に徐々に絶対王者を追い詰めていく。第3セットの最後はエース・西田がバックアタックで締め、海星高校史上初の全国大会出場を決めた。

 2017年7月に山形県で開催されたインターハイは、1年時から目標にしてきた舞台だ。その初試合の相手は、リーグ戦で同組になった北海道代表の東海大札幌高校。第1セットをデュースの末に落とすと、第2セットを取ったものの第3セットを奪われて敗れた。

 大舞台での硬さ、プレッシャーがあったのかと思いきや、西田は「そういうのは、まったくなかったです」と笑う。

「東海大札幌は全国でも有名なチームで、僕たちはまったくの無名校。自分たちがやれることをやるだけでした。僕たちをマークする高校なんてなかったでしょうし、緊張もせず楽に試合ができましたよ」

 海星は、続く相馬高校(福島)戦をセットカウント2-0で制し、インターハイ初勝利とともに決勝トーナメント進出を果たす。トーナメント初戦の相手は、全国大会常連の強豪・東福岡高校だったが、やはりエースに気負いはなかった。西田はチームメイトたちに「ええか、俺らが東福岡に勝てると期待してる人なんて誰もおらんで。何も気にしなくてええんや。力む必要なんて一切ないから、思い切ってやろう」と声をかけたという。

 東福岡には、ユースの日本代表で互いを高めあった選手がおり、それも西田の闘争心に火をつけた。無名の海星がセットカウント2-0で優勝候補の東福岡に土をつけるという波乱の展開に、会場がざわついた。

 続く2戦目で対戦した大阪の古豪・清風高校は、東福岡を破った海星に対しても油断なく、サーブを西田に集めて崩しにかかる。しかしサーブレシーブも得意で守備の要でもあった西田はものともせずに拾いまくり、それを強烈なスパイクで得点につなげていった。

 海星は第1セットこそ先取されたが、第2セットをデュースの末に奪い、その勢いで第3セットも制して逆転勝利。攻守で獅子奮迅の活躍をした西田だが、2年時の春高予選決勝でガス欠になって以来、体作りに力を入れてきたこともあって最後までプレーの質が落ちることはなかった。

 その次戦で千葉代表の習志野に敗れた(セットカウント0-2)ものの、初のインターハイでベスト16。海星が堂々たる成績を残すことができたのは、もちろん西田の活躍もあったが、もうひとつ要因があった。西田が2年時の秋に、海星から日本体育大学を経て「V.LEAGUE Division1」の大分三好ヴァイセアドラーでプレーした井口拓也が、バレー部のコーチに着任したのだ。

 井口は当初、西田について「三重県ではなかなかいないレベルだけど、全国では普通かな」と感じていたそうだが、「もっといい練習をさせてもっと鍛えれば、まだまだいけるんちゃうか」と期待も大きかったという。井口は西田だけでなく、自身が日体大やVリーグで経験したトレーニングや練習メニューをチームに課した。それが松坂工業を破る守備力だけでなく、ジャンプサーブを多用するなど攻撃力も向上させ、インターハイ初出場、ベスト16へとチームを導いた。

 井口は「春高ではもっと上に行こう」と目標を立て、チームのピーキングを春高本戦に定めた。

 ピーキングはスポーツにとって非常に大切な要素だ。男子バレー日本代表を例にとると、2008年の北京五輪で16年ぶりにオリンピックに出場したが、本戦では1勝もできずに5戦全敗で予選敗退となった。大会後、出場選手たちは「オリンピック予選を勝ち抜くことだけを考えていて、そこがピークになってしまった。本戦で自分たちはピークを超えてしまっていたが、他国は本戦にピークを持ってきていた」と口を揃えた。

 予選も温存するわけではないが、そこで力を使い果たすのではなく、春高本戦で勝ち進むためにチームの調子を徐々に上げていく。「春高に出場するだけでなく、そこで勝ち進むことを考えていた」という西田も本戦にピークがくるよう調整し、春高出場をかけた高校最後の戦いに臨むことになった。

(第5回につづく)