第1部は長谷川晶一氏の現在の活動の原点となっている部分を中心にお話を伺った。著書にスポーツを題材にした作品の多い長谷川氏だが、「僕は自分をスポーツライターと思ってはいないんです」という。いったいどのようにして現在の活動に至ったのだろうか―…

 第1部は長谷川晶一氏の現在の活動の原点となっている部分を中心にお話を伺った。著書にスポーツを題材にした作品の多い長谷川氏だが、「僕は自分をスポーツライターと思ってはいないんです」という。いったいどのようにして現在の活動に至ったのだろうか――。

※この取材は6月14日にオンライン形式で行われたものです。

中学・高校時代から編集者になりたいと思っていた


ヒクソン・グレイシー氏(右)に取材をする長谷川氏

――早大生時代はどのような学生でしたか

 商学部だったのですが、早稲田大学に行きたくてしょうがなかったんです。僕は1浪ですが、早稲田に行くなら2浪でも3浪でもしようと思っていました。その理由の一つとしては、僕が入学した1990年頃、早稲田はマスコミに強いという話があります。父が週刊誌の編集者だった僕は、中学・高校時代から編集者になりたいと思っていました。だったら早稲田かなと。あと、やっぱり野球が好きなので、早慶戦が好きだったんですよね。でも慶応はかっこつけているというか、自分には合わないという印象があって、早稲田の方が自分の趣味嗜好(しこう)にもあっているのかなと。学部はどこでも良くて、合格発表が一番早い商学部の入学手続きをしました。入学してすぐ、ルポルタージュ研究会、通称ルポ研という、ノンフィクションやドキュメンタリーに対する自分なりの問題意識を研究して、文章にまとめて発表するというサークルに入りました。ただ、入ってから知ったんですが、ガチガチの政治サークルだったんです。全共闘世代の人が作ったような。今も民青とか革マルとか、政治的な組織はあると思うのですが、いわゆる政治的な匂いの強い団体でした。当時は薬害エイズが問題となっていたのですが、その問題とかを研究して、取材して文章を書くという。でも、僕は全然そういうのに興味が無くて、スポーツノンフィクションを書きたかったので、そのサークルの中では異質だったんだけど、もう少しカルチャー寄りの文章を実際に取材して書くということをやっていました。最初は早稲田松竹や池袋文芸坐のような名画座の館主に取材をし、「レンタルビデオが普及し始めた時代に、どうして映画産業にこだわるのか」というドキュメントを書きました。政治的でもなければ左翼的でもないんですが、それを書いたらOBが僕の雑誌を見てくれて、そこで最初の商業誌でのライターデビューをしたんですよね。大学1年の時かな、原稿を書くようになりました。当時はエロ本も紙の文化だったので、それも書きましたね。AV現場にいって撮影現場を取材したり、AV女優にインタビューしたり。そういうことをしていた4年間でした。

――編集の仕事に最初に興味を持たれたのはお父様の影響だったのですね

 そうですね。父は週刊誌の芸能担当の編集者だったんです。芸能人のスキャンダル、恋愛だとか、破局だとか、妊娠、出産のようなものを追いかけていました。印象的だったのが、誘拐事件が発生した時に、子どもの人命尊重をするために、詳細な報道をしていなかったこと。犯人が逮捕されたり、誘拐された子どもの身柄を確保できたりした段階で、ようやく発表されるといったことがありました。父が帰ってきた時に、埼玉の方で誘拐事件があって、その取材が大変だったと漏らしたことがあったんです。当時の僕は小学生だったので、お前も気をつけろって話だったんですが、その後誘拐された男の子が遺体で見つかったとニュースで流れました。世間ではそのニュースが報道されたのは初めてだったのに、僕は1週間も前から知っていたわけですよ。だから、世の中には情報を先に知っている人がいるんだ、ということも衝撃でした。単純な話なのですが、だったら最初にその情報を知る人になりたい、という気持ちが芽生えていきました。今思えば最初の編集者へのあこがれだった気がします。

――そこからスポーツライターを志したきっかけは何ですか

 僕は自分をスポーツライターと思ってはいないんです。自分自身はノンフィクションライターだと思っていて、スポーツだけを書くつもりはありません。大学でもスポーツノンフィクションはもちろん書いたんですけど、それ以外の方が多いです。今年の4月にゲイタウンとして名高い新宿二丁目のLGBTの方々を取材した本を出版しました。なので、スポーツだけに特化して書いているわけではないんです。でも、実際にスポーツをたくさん取材しているので、そう言われることも多いです。僕はノンフィクションを書きたかったので、その中で、スポーツを書こうというのは最初明確ではありませんでした。いくつかのテーマの中で、スポーツを書くというのもあるな、と。ただ、入社して13年目の2003年に出版社を辞めて、結果的にスポーツもの、特に野球ものばっかりになりました。それはなりゆきで、たまたま野球雑誌から仕事をもらって書いているうちに、女子野球に出会って。女子野球を追いかけていると、「長谷川さんプロ野球も好きでしょ」という流れから「プロ野球選手のインタビューをしませんか」と。いわゆるゴーストライターになって、「選手名義の本を書きませんか」だったり。なので、自分が戦略的に考えて仕事をしたというよりは、頂いた仕事をして別の仕事をもらっているうちに、自然に野球の仕事が多くなっていった感じです。

――出版社を辞めてフリーライターに転向した理由を教えてください

 最初に言ったように、小学生の頃から出版社に入りたかったので、大学を卒業した時点で夢はかなったわけです。実際に就職してみたら、想像以上に楽しかったんです。なので、会社が嫌で辞めたとかそういうのではありません。経験やキャリアを積むと、できる仕事が段々大きくなっていきます。1冊まるまる任されたり、ライターやカメラマン、企画責任者を指名するディレクションしたりする楽しみもありました。でもさらに昇進すると、現場から離れてお金を計算したり。場で取材をして書くことからどんどん遠ざかっていくんですよね。やれる仕事や権限は大きくなって、売り上げや広告収入も一種のやりがいではあるんですけど、ただ、僕はあまりそういうのをやりたくなかった。それに、後輩も多く入ってきて、今度は面倒を見ないといけなくなる。それもあまりやりたくなかったです。どう褒めたらいいかわからないし、どう厳しくしていいのかわからない。もどかしくて、自分がやった方が早いと思ったりして、全部仕事をしてしまったりしました。そのタイミングでさらに昇進のお話が出て、そこで辞めたいと話しました。でも、会社が嫌になったわけではないし、仕事も嫌いではなかったです。出版社で仕事をしていた当時は、毎号20ページほど自分で自由にできるページを任されていました。もちろん自分で取材をするということもあったんですが、様々なライターさんにそれぞれの記事を書いてもらっていました。その時、スポーツライターの方々がとても楽しそうに仕事をしていて、大学時代の気持ちがよみがえってきたことでも辞める決心をできましたね。

――ノンフィクションライターのやりがいは何ですか

 フリーランスなので、会社員と違って、自分の身は自分で守らないといけないし、自分で稼いでご飯を食べないといけないし。自分が出版した本が売れないと次の仕事ももらえないので、常に危機感はありますね。ただ、一個売れたとか、面白いとなると、次につながる。16年間の積み重ねです。最初は売れないといけないとか、クオリティの高いものにしないといけないという気持ちでがんじがらめになっていたんですけど、今は自分の興味のあるテーマというか、ここ10年くらい出している本は明確で、自分が読みたい本なんです。あるテーマを知りたいとなった時に、参考書籍があれば満足できるんですが、その本が無い場合は自分で書くしかない。資料を集めて整理して、関係者に話を聞く、その作業は本当に楽しいですね。僕は、ノンフィクションライターというのはシンガーソングライターと同じだと思っています。シンガーソングライターというのは作詞作曲をして自分で歌いますよね。ノンフィクションライターはまず資料を集めて、話を聞いて、書くという作業をします。シンガーソングライターが作詞作曲して歌うことが全く別の作業であるように、僕の資料を集めて、話を聞いて書くというのも全く別の作業なんです。僕は資料を集めて話を聞くことが特に好きです。でも書くのは嫌い。大変だし地味だし、基本的には一人の作業で、これ本当に面白いのかなとか思いながら書いているので。話を聞いた以上は書かないといけないし、出版社に本を出すと言った以上は書かないといけないので、アウトプットしない限りは仕事になりません。なので、頑張っている感じですね。

――取材するときに工夫されている点はありますか

 外国人の取材をすることもあるし、幼稚園児、おじいちゃん、犯罪者の人も取材する。自分の置かれた環境と全く違う環境の人ばっかりなんです。なので、自分の固定観念は一切持たないようにしています。資料を集めて整理して、基本的にはその人のデータは頭に入っていて、だいたいこんな答えが返ってくるというのは想像できています。いわゆるその仮説を持っていくのですが、それにこだわりすぎないようにしています。絶対に仮説は持って行った方が良いとは思うんです。その通りになったら仮説が正しいことになるし、仮説が違うと、「僕はこう思っていたけど実際はこうなんだ」と驚くことができます。なので、仮説が正しくても楽しい、正しくなかったらより楽しいという。なので、仮説は持って行った方が良いと思います。

――質問内容にも固定概念は入れないようにするということでしょうか

 仕事にもよるのですが、例えば、雑誌の仕事だと、6月18日にNumberの最新号がでますが、今回は埼玉西武ライオンズ(西武)の特集なんですよ。その中でも何本か記事を書いたのですが、その時は辻(発彦)監督に何を聞くかの依頼をもらっているので、その反応を見ながら質問を続けますね。辻監督は3、4冊ほど本も出版されていますが、それも全部読んで行きました。例えば1冊目と2冊目で内容が微妙に違う場合があって、実際はどちらなのかを聞くには調べていかないといけないですし。編集者のオーダーにも答えないといけないという面では、ある程度質問はしっかり作っていかないといけないと思います。ただ、柔軟性を持たないと、決められた先入観通りにしかならくて、仮説通りだと読んでいる方も面白くないですから。そこには驚きや感動が生まれないので、注意しながら書いています。ただ、単行本を執筆するとき、100時間以上の取材となると、質問を全てかっちり決めるのはほぼ無理です。1日の取材ではなくて、何日もかけて行うものですから、時には職場にいったり、家に行ったり、飲み屋に行ったり、旅行をしたり、いろいろなシチュエーションになると、フリージャズのような、アドリブの連続です。質問は、発表する媒体やテーマによって決め込む場合と、決め込まない場合があるということですね。

――記事執筆にあたって工夫している点はありますか

 先ほど話したノンフィクションライターとしての仕事の中では最後の『書く』という作業ですね。せっかく調べて、いい材料があるのに、どう調理するかという問題になってきます。そのプレッシャーがあるからこそ、大変だったり、辛かったりと思うんですけど。意識していることの一つとしては、ノンフィクションライターなので嘘は書かないということです。涙ながらに言ったのか、それとも笑みをこぼしながらニヤニヤ言ったのかというのは、受け手の印象が変わってくるじゃないですか。笑っていた方が悲しみがより伝わってくる場合もあるけど、実際の表情とは違うのに書きたくなるのをいかに止めるかというのが、大事ですね。自制心と言うか。書いていてトランス状態に入ると、キーボードを勝手に押しちゃいそうになるんです。繰り返し印刷して推敲、修正していくのですが、そこでも過剰な演出をしないことは意識していますね。

――野球との出会いはいつですか

 小学校低学年くらいの時には地上波が流れていたので、その頃から見てはいました。記憶は定かではないのですが、親と一緒に後楽園球場で巨人戦を見に行ったりしたそうです。明確に覚えているのは、10歳の時、小学校4年生の時に、ヤクルトのファンクラブに入ったこと。当時僕は千葉市に住んでいたのですが、千葉から遠いけど行ける距離だったので、神宮に行って、若松勉さんの大ファンになって、それから40年ずっとヤクルトファンをやっています。プレーヤーとしても野球をやっていて、左利きで足が速かったので、1番・センターで小中とプレーしていました。早稲田時代も草野球サークルに入っていましたね。ファンとしては小学校2年から、プレーヤーとしては小学校4年生からということになります。今もまだバッティングセンターに行ったりします。たまに新宿(のバッティングセンター)に行きます。

――大学に入学した当時はヤクルトの黄金期だったと思うのですが、どのように楽しんでいましたか

 今もそうなんですけど、みんなでワイワイ見るのがあまり好きではなくて、ゆっくりじっくり見るのが好きなんです。今はヤクルトの本を出しているので、ヤクルトファンの方とか球場で挨拶してくれたり、ヤクルトファン仲間はたくさんできたのですが、小中高大はずっと周りに一人もヤクルトファンがいませんでした。野球ファンは何人もいたのですが。ただ、神宮はよく行っていましたね。大学3、4年生の時にヤクルトが優勝したのですが、3年生の時は14年ぶりの優勝だったので、バイト代を全部つぎ込んで見ていました。大学4年の時はバイト代をつぎ込むのがばかばかしくなったので、神宮でバイトを始めました。バイトしながら試合が見られると思って、警備員のバイトをしていました。1992年、1993年はヤクルトと西武が7戦ずつ戦って、2年間で14試合あったのですが、それは全試合見に行っていました。ファンとして。なので、大学時代が一番熱心に野球を見ていたと思いますね。

――大学野球を見に行くことや取材に行くことはありましたか

 取材は何度かあるし、東京六大学はよく見ていましたね。 ただ、夜にプロ野球の試合があると、そっちに時間を取られてしまいます。お酒が好きなので、終わった後に必ず飲みに行ってしまいますし。つまり、原稿を書くのが必然的に昼間になってしまうんです。なので、デーゲームの六大学野球を見ることはほとんど無くなってしまいましたね。でも、例えば昼間に神宮でヤクルト選手の取材があると、終わるころに大学野球をやっているんです。その時は早稲田じゃなくても見ますね。で、そのまま夜になるのを待って、ヤクルト戦を見るということは何回かありました。

>>第2部『女子野球』―男子野球とは全く違う魅力がある―に続く

(取材・編集 池田有輝、小山亜美、中島和哉 ※取材協力 早燕会)

◆長谷川晶一(はせがわ・しょういち)

1970(昭45)年5月13日生まれ。ノンフィクションライター・スポーツを中心にノンフィクション作品を執筆。主な著書に『いつも、気づけば神宮に 東京ヤクルトスワローズ9つの系譜』『プロ野球12球団ファンクラブ全部に10年間入会してみた!』(ともに集英社)、『幸運な男 伊藤智仁 悲運のエースの幸福な人生』(インプレス)など多数
※長谷川氏のTwitter(@HasegawSh)より

◆早燕会(そうえんかい)

東京ヤクルトスワローズを応援する、早稲田大学中心のインカレ野球観戦サークル。86年設立。19年に現会長前田が事実上消滅していた早燕会を復活。主に神宮での観戦会や、草野球などの活動を行っている。現在、会員37名。詳しくは早燕会Twitter(@soenkaiwaseda)まで