サッカー名将列伝第2回 ヨハン・クライフ革新的な戦術や魅力的なサッカー、無類の勝負強さで、見る者を熱くさせてきた、サッカー界の名将の仕事を紹介。第2回はボールを保持して攻めつづける、現在のバルセロナのサッカーの礎を築いたカリスマ、ヨハン…

サッカー名将列伝
第2回 ヨハン・クライフ

革新的な戦術や魅力的なサッカー、無類の勝負強さで、見る者を熱くさせてきた、サッカー界の名将の仕事を紹介。第2回はボールを保持して攻めつづける、現在のバルセロナのサッカーの礎を築いたカリスマ、ヨハン・クライフ監督だ。

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<2つ先の未来を行く>

 バルセロナでの監督業が終わり、指導者として第一線を退いた頃だ。TVのインタビューで、自分が率いたバルセロナの「ドリームチーム」の戦術を語り始めると、ヨハン・クライフはテーブルの上にあったフィールドを模した布(戦術布?)を手前に引き寄せた。緑色の布は手前から3分の1ほどがテーブルから垂れ下がってしまっている。そして、センターサークルにコマを1つ置き、「ここが最も重要だ」と話し始めた。

 説明する気がないのだ、自陣側の3分の1については。



1988年から96年までバルセロナの監督を務めたヨハン・クライフ

 センターサークルに置かれたのは「4番」の選手である。ドリームチームの4番は”ペップ”ことジョゼップ・グアルディオラ(現マンチェスター・シティ監督)だった。Bチームから抜擢したペップは細身の技巧派で、当時このポジションでプレーする頑健なタイプとはまるで違っていた。

 ペップをこの場所に置いたこと、フィールドの自陣3分の1について話す気さえなかったこと。この2つは、クライフ監督の考え方を端的に表している。

 1987-88シーズン、セリエAではアリゴ・サッキがミランの監督に就任し、いきなりリーグ優勝した。プレッシングという新戦術が脚光を浴びた。画期的なことが起きていると、世間がミランに注目し、強さの秘密を探ろうと”ミラノ詣で”が始まろうとしていた頃、クライフはまったく別の革命を進行させていた。

「2ステップス・フォワード」

 オランダのコーチにそう言われたことがある。クライフが指導者免許なしで監督を始めたことについて聞くと、「誰が彼にサッカーを教えるんだ?」「常に2歩先を歩んでいる」と言っていた。

 85年からアヤックスを率いたクライフ監督は3-4-3のフォーメーションを組み、全世界がプレッシングという守備戦術を知る前から、プレッシングを打ち破る方法を教えていた。たしかに1歩ではなく、2歩先を走っている。

 プレッシングが出現する前からプレッシング破りに着手していたのは矛盾しているようだが、クライフにとってそこは大きな問題ではなかったはずだ。

「人はボールより速く走れない」(クライフ)

 プレッシングだろうと何だろうと、ボールを正確に走らせれば失うことはない。プレッシングへの対抗策ではなく、いかなる守備に対しても攻撃が優位であるというスタイルをつくり始めていた。

 サッキ監督率いるミランがチャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)を制した1988-89シーズン、クライフはバルセロナの監督に就任し、カップウィナーズカップ(欧州各国のカップ戦優勝クラブが争った大会。99年に終了)を獲った。

 ただ、この時点でのバルセロナはまだドリームチームではない。最初の2シーズンは国内リーグでも優勝には届かなかった。しかし、3シーズン目にリーグ優勝するとそこから4連覇。クラブ初のチャンピオンズカップ優勝も勝ちとり(1991-92シーズン)、ドリームチームが出現している。

<戦術のキーは、4番、6番、9番>

 ペップのポジションは「クワトロ(4)」と呼ばれている。後方から確実にパスをつないで前線へ運ぶには、自分たちのDFラインの前、アンカー(錨/いかり)と呼ばれるこの位置にボールの集配に長けた選手が必要だった。守備の不安については、

「この部屋をひとりで守るのは無理だが、このソファの幅なら今の私でも守れる」

 クライフがインタビューで答えたのと寸分違わぬ言葉を、右腕だったカルレス・レシャックから直接聞いたこともある。ペップの両脇に選手を配置すれば守備範囲は狭くなり、ペップ自身の守備力は大した問題ではないという回答なのだが、そもそもそんなに守るつもりもない。

 実際、周囲が考えていたより、バルセロナはずっとボールを支配するようになった。守備をする時間そのものが減少した。ボールを持っている間は守る必要がない、ボールを持つためのクワトロであり、だからフィールドの3分の1にもさほど興味がないわけだ。攻撃は最大の防御。

 ペップの背番号は4ではなく3だったが、クワトロはポジション番号である。オランダ式は後方右から機械的に番号を割り振っていくので、4番は4-3-3の左のセンターバック(CB)の背番号なのだが、クライフは3-4-3を採用していたので4番は1つ上がってアンカーの番号になっている。そして、4番の次は6番が戦術のキーだった。

 6番はホセ・マリア・バケーロ。ポジションはトップ下である。4-3-3ではアンカーのポジション番号だが、3-4-3では4番に押し出されて1つ上がっている。バケーロはワンタッチパスの名手だった。というよりワンタッチ専門の選手で、野球のバント職人のように、味方からの縦パスを壁のようにリターンした。たとえば、DFラインから中盤のラインを1つスキップする縦パスをトップ下の6番に当てれば、1列手前の中盤の選手たちは前向きでバケーロのリターンを拾える。

 もう1つの戦術のキーは、9番。センターフォワード(CF)だが、いわゆる「偽9番」(CFの位置から中盤に引いて、ゲームをつくる役割)だ。4番、6番を経由してボールを前進させると、ウイング(7番、11番)が相手DFの間へ入り込む。相手が4バックなら、その間に3人のFWがポジションをとることになるが、そこから9番は引くのだ。

 相手CBのひとりが引く9番についていけば、相手DFライン3人の間にウイングが残り、それぞれのプレーできるスペースは大きくなる。9番に相手CBがついていかなければ、9番がフリーになる。この場合、ウイングふたりで4人のDFを釘付けにしているので、その手前には数的優位ができている。

 偽9番の代表はミカエル・ラウドルップ。フリーなら何でもできるアタッカーだった。ウイングにフリオ・サリナスやガリー・リネカーといった典型的なCFを起用していたのも、フィニッシュが大きな仕事になっていたからだろう。

<トータルフットボールの攻撃を進化させた>

 素早く洗練されたパスワークは圧倒的で、陣形を縮めて相手を封じ込めようとするプレッシングの”四角”に対して、その上から大きな”円”をかぶせるように選手全体がポジションをとり、プレッシングを解体した。ピッチに散開した選手はさほど動かず、前後左右にボールを動かしつづけた。

 サッキはオランダの「ボール狩り」を進化させてプレッシングを考案したが、クライフはそのオランダの中心でキャプテンだったのだ。クライフはサッキが手を出せなかったトータルフットボールの攻撃部分を引き継ぎ、進化させていた。本流の面目躍如である。

 ペップは監督としてバルセロナのピークを築いたが、自身を「ラファエロの弟子」と表現していた。ルネサンスの巨匠ラファエロ・サンティは多作で、作品は工房の弟子たちが仕上げていたそうだ。「ラファエロ」はクライフ、その構想を歴代監督が完成に近づけてきた、自分もそのひとりにすぎないというペップの謙遜である。

 ペップのチームにあったものは、ほぼすべてクライフのチームにもあった。ただ、ドリームチームは過大評価されているところもある。4連覇もたいがいぎりぎりだったし、1993-94シーズンのチャンピオンズリーグ決勝は、当時最強だったミランに0-4と大敗した。

 ドリームチームの偉大さは、むしろ20年後のペップのチームによって明らかになったといえる。クライフ監督の時には実現しきれなかったものが、20年後にグアルディオラ監督の下で現実のものになった時、こういうことだったのかという衝撃があった。

 クライフは2歩先、20年先を行っていた。

ヨハン・クライフ
Johan Cruijff/1947年4月25日生まれ。オランダ・アムステルダム出身。1960年代から70年代に、アヤックスやバルセロナの中心として活躍し、オランダ代表では74年西ドイツW杯準優勝。監督してもアヤックスやバルセロナを率い、国内リーグやチャンピオンズカップなど数々のタイトル獲得をもたらした。選手としても監督としても先進的な戦術の先頭に立ち、ファンの熱狂的な支持を集めた。2016年逝去。