昨年のラグビーW杯日本代表でベスト8進出に貢献したWTB福岡堅樹(27=パナソニック)が、7人制代表での東京五輪を断念し、以前から公言していた医学部への進学を目指す決断をした。日本を代表するトップアスリートが、まったく別分野の、しかも一般的にも難関と言われる医師になった例は記憶にない。しかし、海外ではトップ選手から医師への転身は決して珍しくない。

プロ野球の元広島のゲイル・ホプキンスを覚えているだろうか。75年(昭50)に全130試合に出場して、33本塁打、打点91の記録を残してリーグ初優勝に大きく貢献した米国人の内野手である。米ペッパーダイン大卒業後、68年に米大リーグのホワイトソックスに入団したが、現役時代から「医者」という別の夢を持っていた。広島時代は医学書をベンチに持ち込み、試合がナイターの時には昼間に広島大学の医学部研究室に通っていたという。引退後は米シカゴのラッシュ医科大で整形医学を学び、博士号を取得している。

80年レークプラシッド冬季五輪のスピードスケートで500メートル、1000メートル、1500メートル、5000メートル、1万メートルの男子全5種目で金メダル獲得という快挙を達成したエリック・ハイデン(米国)は、引退後に自転車のプロロードレースの選手に転身。85年の第1回全米プロ自転車選手権ロードレースで優勝した。スポーツ界から完全に退いた後は、地元のウィスコンシン大医学部を卒業。米国でも著名な脊椎専門の整形外科医になった。

実際に私が取材した96年アトランタ五輪で競泳女子のリレー3種目で金メダルを獲得したジェニー・トンプソン(米国)は、スタンフォード大卒業後、コロンビア大の医学部に通いながら競技を続けていた。米国の自由形とバタフライの主力選手として、92年バルセロナ大会から04年アテネ大会まで五輪4大会に出場して、実に8個の金メダルを獲得している。アテネ大会を最後に現役を引退した彼女は06年に医師となり、その後、ボストンの病院で麻酔医として勤務している。

一方、日本のトップアスリートの第2の人生は、指導者や出身大学の教授、解説者など競技経験を生かしたものが圧倒的に多い。日本は伝統的に“その道一筋”がよしとされる風潮にあり、子供の頃から一つの競技に専念する傾向が強く、他の分野に目を向けることは少ない。しかし、さすがに医師になった例は知らないが、引退後にまったく違った専門性の高い分野で活躍している元アスリートも確実にいるのである。

例えばJリーグが開幕した93年にガンバ大阪でデビューし、その後、ヴィッセル神戸、アルビレックス新潟などに所属して31歳までプレーした元Jリーガーの八十祐治は、引退後に一念発起して司法試験挑戦を決意。4度目の受験となった05年に合格した。現在は大阪弁護士会所属。

「1日12時間くらい勉強しました。サッカーは地道にやっても結果が出ないことが多い。でも勉強は地道にやればおのずと知識は増えてくるし、結果が出る。合格したから言えるんですけど(笑い)」と語った彼の笑顔が強く印象に残っている。

17年11月に元阪神タイガースの投手だった奥村武博を取材する機会があった。97年のドラフト6位で入団した。エースとして活躍した井川慶らと同期だが、わずか4年で戦力外通告を受けた。引退後に転職した飲食業に限界を感じはじめた頃、資格のガイドブックの公認会計士が目に留まったという。土岐商業(岐阜)時代の簿記の学習経験と重なったのだ。公認会計士の試験は難関として知られる。しかし、彼はアルバイトや会社員として働きながら勉強を続け、実に9年の歳月をかけて13年についに試験に合格した。

「一生懸命にやっているスポーツの練習や試合の中で、実は社会でも生かせる、いろんな能力が育っている。例えばスポーツ選手は失敗したら、その原因を考えて、修正してまたトライする。それを繰り返すことで成長します。それは受験勉強のサイクルも同じなんです。根性とか体力にフォーカスされがちですが、スポーツ選手は問題解決能力や状況判断能力もすごく高い。それが引退後のキャリアにつながる」。彼の言葉には説得力があった。

今年4月、柔道女子で18年世界選手権78キロ超級優勝の朝比奈沙羅が、独協医科大医学部に入学して、福岡よりも一足早く医師への道を歩み始めた。16年リオデジャネイロ五輪4位入賞のメンバーでもある福岡の離脱は確かに残念だが、彼や朝比奈の挑戦は「スポーツしかできない」ではなく「スポーツで極めたからこそ他分野でもできる」ということを証明する戦いでもある。きっと日本人アスリートのセカンドキャリアの新たな道筋になるはずだ。【首藤正徳】(敬称略)