MotoGP最速ライダーの軌跡(1)バレンティーノ・ロッシ 下世界中のファンを感動と興奮の渦に巻き込んできた二輪ロードレース界。この連載では、MotoGP歴代チャンピオンや印象深い21世紀の名ライダーの足跡を当時のエピソードを交えながら…

MotoGP最速ライダーの軌跡(1)
バレンティーノ・ロッシ 下

世界中のファンを感動と興奮の渦に巻き込んできた二輪ロードレース界。この連載では、MotoGP歴代チャンピオンや印象深い21世紀の名ライダーの足跡を当時のエピソードを交えながら振り返っていく。
1人目に紹介するライダーはバレンティーノ・ロッシ。なぜロッシは「史上最強ライダー」と呼ばれるのか。今改めて彼の強さと魅力を読み解いていこう。



ドゥカティ時代のバレンティーノ・ロッシ

 ドゥカティ・チームで過ごした2011年と12年は、バレンティーノ・ロッシにとっておそらく悪夢のような2年間だっただろう。

 2000年の最高峰クラス昇格以降、7回の年間総合優勝を達成。王座を逃したシーズンでも年間ランキング2位もしくは3位(各2回)で終えた「偉大なチャンピオン」が、ドゥカティで過ごした2年間計35戦で表彰台を獲得した回数は、2位が2回、3位が1回のみ。年間ランキングは、11年が7位、12年は6位、というありさまだった。

 ロッシもドゥカティも、ここまで極度の不振に悩まされるとは夢にも思わなかっただろう。07年にドゥカティに初の世界タイトルをもたらしたケーシー・ストーナーは、08年から10年までに13勝をあげた。ストーナーは11年にホンダファクトリーへ移籍し、開幕戦のカタールGPでいきなり優勝。以後のレースでも優勝争いを続け、やがてこのシーズンのタイトルを獲得するに至る。対照的に、ロッシはマシンとの相性に苦しみ、思うような成績をあげられないレースが続いた。

 ロッシのリクエストに応える形でドゥカティのゼネラルディレクター、フィリポ・プレツィオージはマシンにどんどん変更を加え、ストーナー時代とはまったく別モノといっていい仕様に変わっていった。しかし、ドゥカティのDNAともいわれる旋回性の低さが12年シーズンも劇的な改善を見せることはなかった。

 窮したドゥカティ陣営はこの年の初夏、ロッシのヤマハ時代にマシン開発を指揮した古沢政生を自陣へ招聘(しょうへい)するというアクロバティックな策を試みる。この話題は当初、真偽のはっきりしないゴシップとも思われたが、すでにヤマハを退いていた古沢に、直接コンタクトを取って訊ねてみたところ、プレツィオージとイタリアで面会したことを認めた。

 古沢は古巣のヤマハへの仁義を貫き、ライバルであるイタリア企業の陣営への加入を辞退。だが、この一連の事実に関する経緯を日本や欧州のメディアに寄稿すると、パドックは蜂の巣をつついたような騒ぎになった。一時はピットレーンでドゥカティのガレージ前を歩くたびに、中にいる彼らの視線がこちらの背中を追いかけてくるといった、なにか無言の圧力のようなものも感じた。

 というのも、12年のこの時期はすでに成績不振に辟易したロッシのドゥカティ離脱が水面下でささやかれていた。古沢獲得作戦は、ロッシをつなぎ止めておきたいドゥカティにとって、ある意味では最後の頼みの綱でもあったからだ。

 ロッシの苦戦は続いた。



不調に苦しんだドゥカティ時代のロッシ

 前半戦を締めくくる7月末の第10戦、米国カリフォルニア州ラグナセカサーキットで開催されたU.S.GPの決勝レースを、ロッシは転倒によるリタイアで終えた。その日の夕刻、知己のイタリア人ジャーナリストから「バレンティーノのヤマハ復帰が決まったようだ」という話を聞いた。そして3週間後の後半戦初戦の第11戦インディアナポリスGPで、古巣ヤマハへの移籍が正式に発表された。

 ヤマハへ復帰した13年、ロッシは34歳になっていた。この年はまた、かつてのマックス・ビアッジやセテ・ジベルナウ以上の宿敵となってゆくマルク・マルケスが20歳の若さでホンダファクトリーチームへ昇格してきたシーズンでもあった。

 きらめく才能で多くの注目を集めるマルケスを、初めのうちはロッシも高く評価した。自分より一回り以上若い天才の台頭を素直に認め、絶賛することもいとわなかった。

 マルケスはいくつもの最年少記録を塗り替えて、13年の王座に就いた。一方、ロッシはヤマハ復帰後初のレースとなった開幕戦カタールGPで表彰台を獲得し、第7戦オランダGPでは優勝。シーズンを終え、計6戦で表彰台に上がって年間ランキングを4位とした。翌14年は2度の優勝を含む13回の表彰台でランキング2位。ヤマハに戻って本来の調子を取り戻しつつあるロッシと、レース界の記録を次々に更新していくマルケスの世代を超えた天才対決は、世界各地のサーキットを大いに盛り上げた。

 そして15年、ロッシはヤマハ復帰3年目でついにタイトル奪還を射程範囲に収め、激しいチャンピオン争いを繰り広げた。

 それと比例するように、表面上は友好的に見えていたマルケスとの関係が緊張の度合いを高めてゆき、シーズン終盤には決定的に決裂。ある意味ではこの亀裂がロッシにとって墓穴を掘るような格好になり、一時は手元まで引き寄せたかにみえた6年ぶりの王座を5ポイントの僅差で逃すことになった。タイトルを獲得したのは、同じヤマハファクトリーチームのホルヘ・ロレンソだった。

 16年の年間ランキングは2位、17年は5位。17年は、ロレンソがドゥカティへ移籍し、ロッシのチームメイトはさらに若いマーヴェリック・ヴィニャーレスになった。

 18年は、ロッシとヴィニャーレスがともにタイヤのグリップ不足などに苦しみ、ヤマハの苦戦が顕著な一年だった。シーズン中盤のオーストリアGPでは予選終了後の選手取材の際には、ライダーが登場する前に突如、日本人技術陣のリーダーが現れて、選手たちの望むマシン開発をできないでいることを各国メディアの前で詫びるという一幕もあった。まるで技術者が公開処刑の場に立たされているような残酷な場面に見えて、大変居心地の悪いものだった。

 結局、18年もヤマハ勢はマルケスの牙城(がじょう)に迫ることはできず、ロッシは年間ランキングを3位で終えた。

 19年の表彰台獲得は2戦のみで、ランキングは7位。ドゥカティ時代以来の低成績になった。

 このシーズンに象徴的だったのは、最高峰クラスルーキーの20歳、ファビオ・クアルタラロ。ヤマハサテライトチームながら王者マルケスと何度も熾烈なトップ争いをした、という事実だ。その姿は、約20年前に最高峰クラスへ昇格していきなり優勝争いを繰り広げたロッシを彷彿させた。

 クアルタラロは、契約を更改する2021年からヤマハファクトリーチームへ移籍することがすでに決定している。一方、ロッシはクアルタラロと入れ替わるような格好で、来シーズンにヤマハサテライトチームへ移るものとみられている。

 2000年に21歳でナストロアズーロ・ホンダのライダーとして最高峰クラスに昇格してきたとき以来、バレンティーノ・ロッシは常にファクトリーチームに所属してきた。つまり、人生の半分をMotoGP最高峰のファクトリーライダーとして生きてきたことなる。その彼が、おそらく21年は初めてサテライトチームの選手として過ごす。

 もちろん、形式的にサテライトチームに所属していても、ファクトリーの手厚い待遇を受け、事実上のファクトリー体制で戦うことはできる。だが、問題はそこではない。ファクトリーはバレンティーノ・ロッシを自陣のエースとしてもはや扱わなくなった、ということが厳然たる事実が、時代の変遷を象徴しているのだ。その21年に、ロッシは42歳という年齢でシーズンを戦う。

 だが、その前に20年だ。今年のシーズン開始時期はまだ正式に発表されていない(6月9日現在)。だが内々では、7月下旬から欧州を転戦する形で12〜13戦程度、秋以降に欧州外の開催が可能になるようであれば16戦程度、という想定で検討が進み、もう間もなく発表される見込みだともいわれている。

 そして、20年と21年の2シーズンで、果たしてチャンピオンシップをロッシが制して10回目の世界タイトルを獲得できるのかどうか。そう問われれば、これはかなり厳しいと言わざるを得ないだろう。



現在ヤマハ所属のロッシ。2021年にサテライトチームに移るとみられている

 それでも、チャンピオンを獲得することとレースで勝つことは別だ。さまざまな条件も異なる。1勝を挙げることなら、可能性は充分にある。

 ロッシが最高峰クラスで優勝した回数は89回。2位と3位を含む表彰台獲得は198回。いずれも、すでにダントツで史上トップである。これらの数字を90回と200回の大台へ乗せる歴史的な瞬間に、我々はいつ立ち会えるだろうか。
(ニッキー・ヘイデンの回へつづく)

【profile】バレンティーノ・ロッシ Valentino Rossi
1979年2月16日生まれ、イタリア・ウルビーノ出身。MotoGPにおける現役最年長ライダーで、現在ヤマハ所属。グランプリライダーの父グラジアーノの影響で、幼少期からレース経験を積む。96年に125ccクラスデビューを果たし、翌年、世界タイトルを初獲得。250ccクラス王座を経て、当時最高峰クラスの2ストローク500ccを2001年に制覇。02年から始まったMotoGPでは4年連続を含む計7回タイトル獲得。