スーパーエース・西田有志 がむしゃらバレーボールLIFE(1) 現在のバレーボール男子代表において、大きな期待と注目を集めているのが、20歳の西田有志だ。昨年のW杯では総得点ランキングで全体の3位。サービスエース数は1位でベストサーバー…

スーパーエース・西田有志 
がむしゃらバレーボールLIFE(1)

 現在のバレーボール男子代表において、大きな期待と注目を集めているのが、20歳の西田有志だ。昨年のW杯では総得点ランキングで全体の3位。サービスエース数は1位でベストサーバーに輝くなど、日本の28年ぶりの4位に大いに貢献した。

 さらに「V.LEAGUE DIVISION1」でも得点王とサーブ賞を獲得する活躍でジェイテクトSTINGSをリーグ初優勝に導き、MVPを受賞。西田のプレー動画は、日本だけでなく海外にも視聴者が多い。国際バレーボール連盟も、注目選手を紹介する企画の第1回で西田をピックアップするなど、さらにその名を広めている。

 世界に誇る日本のエースはいかにして生まれたのか。そのバレー人生を振り返る。

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昨年のW杯でベストサーバーに輝くなど活躍した西田 photo by Sakamoto Kiyoshi

 西田は2000年1月30日、三重県四日市市の病院で産声を上げた。4220gのビッグな赤ん坊は、画数などから「有志」と名づけられた。

 西田には8歳上の姉と、6歳上の兄がいる。西田が生まれた年に、2人は自宅近くにあるいなべ市のバレーボール少年団(男子は「大安ビートル」、女子は「大安ジュニア」)に入った。その練習を見守る両親は、生後5カ月くらいから西田を体育館に連れてきていたため、物心つく頃にはバレーボールを手に遊んでいた。

 西田が幼稚園年長の5歳の時、小学校6年生の兄は卒団を迎えようとしていた。本来は小学生でなければチームに入れなかったが、西田の「お兄ちゃんと一緒のチームでやりたい!」という訴えに、指導者が「そんなに言うんだったら、少し早く入れてあげる」と、就学前に入団させてもらうことになった。

 兄と一緒のコートに立つ願いが叶ったあとも、大安ビートルで週3回の練習に参加した。西田本人は、「やりたかったというよりは、バレーボールをすることが普通という感じでした」と振り返る。チームのマスコット的な存在で、何をしても褒められるため、楽しくて仕方がなかったという。

 西田の両親は、共に実業団のバスケットボール選手だった。にもかかわらず、子供たちをバレーのチームに入れた理由について、母の美保さんは次のように話す。

「最初はやはりバスケをやらせたいと思ってチームを探しましたが、指導方針が合うチームが見つけられなかったんです。(元選手の)私たちが口出しをしてしまってもよくないから、『ほかのスポーツをやらせよう』ということになって。それで大安ジュニアと大安ビートルを見学させてもらったら、『勝つ』ことより、『挨拶をする』『靴を揃える』といった礼儀などを先に教えてくれるところでした。このチームなら安心して子どもたちを預けられる。私も夫もそう納得したんです」

 もし、両親が納得するバスケットボールチームがあったら……今ごろ西田は、バスケ選手として世界を驚かせていたかもしれない。

 続けて美保さんは、当時の西田について「やんちゃ坊主でしたよ」と目を細めた。

「クリクリ頭で、そこらじゅうを駆け回っていました。私が仕事で家を空ける時には有志を近所の方に預けていたのですが、『有志くんが田んぼの中を走り回ってる!』など、しょっちゅう電話がかかってきましたね(笑)。いつも『叱ってやってください』とお願いしていました」



小学校6年時の西田(写真提供/西田の母・美保さん)

 有り余る元気を大安ビートルの練習に注いだ西田は、小学校2年生の頃から試合に出場するようになり、3年生でレギュラーになった。ポジションはライト。左利きを活かすポジションだ。

 その夏、初めて日本代表を意識する出来事があった。男子チームが16年ぶりに五輪出場を決めた、2008年の北京五輪。西田は初めて見るオリンピックの試合に夢中になった。とくに、自分と同じ左利きのオポジット、清水邦広に眼が吸い寄せられた。当時の代表最年少の21歳で奮闘する若きエースの姿を見て、「僕も清水さんみたいになって、オリンピックに出る!」と、家族に宣言したという。

 大きな目標ができた西田は成長し、4年時には第29回全日本バレーボール小学生大会三重県大会で優勝。全国大会にも出場した。学年を上げるごとに、県内で屈指の強豪チームの主力選手になっていったが、5年生から6年生に上がる時に行なわれた新人戦グループ戦の試合で思わぬ苦戦を強いられる。

 西田のスパイクが何度もブロックされ、つい弱気になってフェイントで逃げることがあった。それは難なくレシーブされて得点を許し、チームも波に乗れず敗戦した。

 その試合後、美保さんは西田に対して「点を取る役割のお前が、できもしない逃げのフェイントをしてどうするの!」と厳しい声をかけた。さすがに西田も落ち込んだが、「どんな時でも、自分が打って決められるようになればいいんだ」と決意し、より練習に励むようになった。

 6年生では主将を務め、三重県クラブバレーボール連盟の会長杯で優勝するなどチームをけん引。この頃には身長が160cmを超え、ジャンプをすると自宅の居間の天井に手が届くようになったという。

 少年団でも「サーブは攻めろ」と指導されていたが、「(当時は)そこまでサーブが武器ってわけではなかった」とのこと。「でも、地肩が強くて、スパイクは結構強いのを打っていたと思います」と振り返る西田は卒業後、強豪ではない地元の中学校に進み、さらに大きな成長を遂げることになる。
(第2回につづく)